つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

摂ちゃんのいす

2018-07-25 16:47:45 | 摂子の乳がん

7月7日に無事、摂ちゃんの四十九日法要を終えた。

来年の一周忌、再来年の三回忌と法事は続くが、とにかくこれでひと段落。

 

ひと段落したので、摂ちゃんがずっとお世話になっていた施設(昭徳会小原寮@愛知県豊田市)に、記念というかお礼の品を届けに行ってきた。

 

摂ちゃんはよく、施設内のベンチに座ってぼーっと遠くを見ていることが多かったとスタッフさんから聞いた。

遠くを見ながら、摂ちゃんは何を考えていたんだろ。

 

どうして自分は大好きなお父さんと暮らせないのか。

どうして自分はお母さんから冷たくされるのか。

どうしてお兄ちゃんは毎日会いに来てくれないのか。

どうして自分は思っていることを他の人みたいにうまく伝えられないのか。

どうして自分はここにいるのか。

自分は、どこから来て、どこへ行くのか。

 

じっと座っている摂ちゃんの顔はいつも寂しそうだった。

どうして、どうして、どうして。

 

答えの出ない問いを心の中で繰り返しながら、摂ちゃんは小原寮(前身は愛知県三好市にあった三好学園)で大人になって、そして一生を終えた。

だからという訳ではないけれど、「確かにこの場所に摂ちゃんはいたんだよ」ということをちゃんと残しておきたくて、小原寮に届けた記念の品は「摂ちゃんのいす」(というかベンチ)である。

背もたれのプレートは私のアイディアを聞いたMファクトリーのNさんがデザインしてくれた。

(Nさん、素敵なプレートをありがとうございました。小原寮のスタッフさんにも大好評でした。)

 

小原寮の入所者の方や家族の方、スタッフの方が、白いベンチに座ってくつろぐたびに、摂ちゃんのことを思い出してくれればいいなぁ、と思う。


摂ちゃんは知的障害を負って、ガンになって、きっと寂しい思いもいっぱいして、俺に満足な妹孝行の時間も与えてくれずに、みんなの記憶に笑顔だけ残して、さっさと親父のもとに逝ってしまった。

でもそれはきっと、お金をたくさん稼ぐとか、仕事で出世するとか、歴史に名を残すとかより、遥かに天使に近い一生だったんだと思う。

 

だから大丈夫だろう。

今度生まれ変わったら、摂ちゃんはもっと別の、もっともっと幸せな人生を送れるだろう。

 

そうに決まってるので、「摂ちゃんのいす」を小原寮に届けた帰り道、きっと摂ちゃんも見ていた山間(やまあい)の風景を見ながら、私は安心して、寂しくなって、車の中で声をあげて泣き続けた。

 

摂ちゃん、天国でちゃんと親父に会えたか?

 

 


摂ちゃんのこと(14)

2018-06-06 18:05:13 | 摂子の乳がん

 

親父が2015年に逝って、昨年、親父の三回忌を無事終えて、それから半年ちょっとで摂ちゃんは親父のもとに行ってしまいました。

親父が死んだ後、このブログで公開した親父の日記を読めば、親父がどれほど摂ちゃんを可愛がっていたかわかる。

孫たちの小学校と中学校の入学式を見届けて、たぶん、親父の心残りは摂ちゃんだけだったんだと思う。

私は、親父に、

「親父が死んだら、俺が親父に代わって摂子の面倒を見るよ。死ぬまで。」

と約束した(摂ちゃんのこと(10))。

でも、どうやら親父は今一つ私のことが信じられなかったようだ。

天国で、

「利文のやつ、ちゃんとやってけるのか? 大丈夫なのか? 摂子に寂しい思いをさせたりしてないか?」

とハラハラしながら見ていたのかもしれぬ。

私への不安と摂ちゃんへの愛情が高じて、とうとう摂ちゃんを天国に呼び寄せたのだ、と思うことにした。

悪かったなぁ、親父。死んだ後までハラハラさせて。


だけどなぁ。

親父が死んで、摂ちゃんが逝っちゃうまでの2年7カ月。

毎月、名古屋まで行くのは大変だったけど、俺はこれまでで一番、楽しい最高の時間を摂ちゃんと過ごしたよ。


摂ちゃんは、親父が暮らしていた尾張旭の実家が大好きだった。

昔は親父と、お袋と、私と、摂ちゃんが暮らしていた家だ。

正月や夏休みの「実家帰省」の後、親父が小原寮に摂ちゃんを車で送って行くと、いつまでもいつまでも車から降りようとしなかったという。

小原寮で楽しい一生を過ごしたけど、ほんとはきっと、親父や家族と尾張旭の実家で暮らしたかったんだ。

だから、親父が逝って、空き家になった尾張旭の実家を処分することに決めたとき、摂ちゃんと二人で、ガランとした実家で最後のご飯を食べた。親父は遺影で参加だ。

でも、こんなにすぐに摂ちゃんが逝ってしまうんなら、せめて摂ちゃんが逝くまで実家を売り払わなければよかった、と思う。

そうすれば、葬儀会館じゃなく大好きだった実家に、最後に摂ちゃんを連れて帰ってやれたのに。

 

私は18歳で故郷を捨てて東京に出てきて以来、最後の最後に親父と仲良く笑って話せるようになるまで、尾張旭の実家に寄り付かなかった。辛い記憶しかない実家と、辛い記憶を私に植え付けた親父とお袋が大嫌いだった。

摂ちゃんとも、18歳以降、まともに会わなかった。

 

それなのに、摂ちゃんは私のことをちゃんと覚えていた。

誕生日のプレゼントに摂ちゃんが大好きだった黒色のコートを持って面会に行くと、照れくさそうに笑いながらカメラに見せびらかしてくれた。

 

乳がんが再発して通院するようになると、毎回付き添ってくれていたスタッフのMさん(男性)の話では、いつも病院のロビーで私が現れるのを待ちわびていたという。

 

小原寮に面会に行ったときは、できる限りドライブに摂ちゃんを連れ出した。

いつも小原寮の敷地の中のベンチに座って、遠い外の世界を見ていた摂ちゃんはドライブが大好きだったから。

小原寮に面会に行ったとき、病院のロビーで会ったとき、車に乗せてあげたとき、私はいつも摂ちゃんと手をつないでいた。

摂ちゃんから遠ざかっていた30年以上の月日を取り戻すためには、それくらいしか思いつかなかった。

だから摂ちゃんとドライブするときはいつも片手運転だった。

 

 

今まで俺は摂ちゃんとどう接していいのか分からなかったけど。

心のどこかで摂ちゃんを「障害を持った可哀そうな子」だと憐れみの目で見て、そういう妹を持った自分の運命を呪って、悔しくて悔しくて、親父や摂ちゃんが俺に差し伸べようとしてくれた手を振り払って、「俺は一人でいいんだ」と突っ張って生きようとしたときもあったけど。

 

そっかぁ。

 

 

(※画像は「ブラックジャックによろしく」より引用させていただきました。)



摂ちゃんのこと(13)

2018-06-05 15:44:46 | 摂子の乳がん

結局、摂ちゃんの腸管穿孔の原因はよくわからなかった。

少なからずがんがその原因だったのかもしれないし、がんとは全然別の何かだったのかもしれない。

生前、親父が住んでいた私の実家は既に手放してしまっているので摂ちゃんの身体を運ぶ先は葬儀会社しかない。

親父の葬式の時もさんざん助けてもらった「TEAR(ティア)新瀬戸」に病院から電話を入れた。

TEAR新瀬戸のスタッフが摂ちゃんの身体を引き取りに来てくれたのは午前4時を少し回った頃だった。

 

あまりに急すぎて自分が泊まるホテルの手配もしていなかったことに今更ながら気づき、TEAR新瀬戸の親族控室で摂ちゃんと一緒に休ませてもらう。

摂ちゃんの鼻からは血が流れ続けていた。

夜が明けるまでずっとティッシュペーパーで拭い続けた。

もう、痛みも苦しみもない世界に旅立ったのだとは思うけれど、亡くなった後も血を流し続ける姿を見るのは嫌だ。

私の我儘(わがまま)だ。

 

TEAR新瀬戸のK支配人は相変わらず商売感覚抜きで葬儀を取り仕切ってくれる。

私が豊田市役所に死亡届を出しに行っている間に、摂ちゃんがずっと暮らしていた小原寮に「摂子さんの生前の生活の様子」をわざわざインタビューしに行ってくれていた。

片道車で1時間弱の道のりである。インタビューして帰ってくれば半日、下手したら丸1日吹っ飛ぶだろう。

「告別式で司会者が一言二言、生前の摂ちゃんの暮らしぶりに触れる」という、ただそれだけのために、だ。

ありがたくて涙が出た。

 

一部の親戚は、私が摂ちゃんの乳がんの再発を「隠して」いた、摂ちゃんの訃報が「(私からではなく)自分より遠縁の親戚から入った」と立腹し、通夜にも告別式にも顔を出してくれなかった。

いろんな考えの人がいるから、私なりの摂ちゃんとの関わり方、看病の仕方を否定されても仕方ないことなのかも知れぬ。

でも、小原寮の現スタッフさん、もう、小原寮を辞めてしまったかつてのスタッフさん、摂ちゃんと仲の良かった小原寮の入寮者の人たちはたくさん、摂ちゃんとの最後のお別れに来てくれた。

とびきり素敵なお葬式だった。

(↑ K支配人が作ってくれた葬儀場の入り口に飾った写真)

 

摂ちゃんと同じく知的障害を持っている入寮者の人たちは、納棺師さんに綺麗に死化粧(しにげしょう)をしてもらった摂ちゃんを見て声をあげて泣いてくれた。

あぁ、人間は悲しいときにはこうやって慟哭すればいいんだ、と教えられた。

 

死んだ後も鼻血が止まらなくて、生前は化粧なんてしたことのなかった摂ちゃんのために、K支配人はわざわざメイク(死化粧)の上手い納棺師の方を手配してくれた。

お袋が死んだときも、親父が死んだときも、

「寿命が尽きた後の身体は単なる『物』だ。

魂とか霊魂とかいうものが存在しようとしまいと、遺体自体はただの『物』だ。

なのに、なんで、人は大げさにただの『物』に接するんだろ」

と思っていたけれど、摂ちゃんの身体を丁寧に丁寧に洗い清めて、指先にまで気を配りながら真っ白な死装束に摂ちゃんを着替えさせてくれて、接吻せんばかりに摂ちゃんの顔に自分の顔を寄せて死化粧を施してくれている納棺師の方の美し過ぎる所作(しょさ)を見ていてやっと理解した。

遺体はただの物だけど、それは摂ちゃんが49年間使い続けてきた「摂ちゃんが生きるための大切な道具」だ。

ずっと使い続けてきた愛着のこもった道具を手放すとき、それを躊躇なくゴミ箱に放り込んで平気な人はいないだろう。

それは、職人が使い続けてきた道具を最後に感謝と惜別の情を込めて神社や寺に奉納することに通じるのかもしれない。

使い切った「身体」に感謝と惜別の情を込めてお別れしてあげられるのは、亡くなった本人ではなく遺族しかいない。

あぁ、お葬式というのは一生懸命生きて死んでいった故人とその身体に対する最後のリスペクトの場なんだなぁ・・・という、どうでもいいようなことを、どんどん綺麗になっていく摂ちゃんの身体を見ながらぼんやりと考えていた。


摂ちゃんのこと(12)

2018-05-31 13:06:01 | 摂子の乳がん

摂ちゃんが逝って10日経った。

少し落ち着いてきたので記事を更新しようと思う。

 

摂ちゃんが暮らしている小原寮のスタッフのMさん(女性)から私の携帯に連絡が入ったのは5月20日(日)の19時37分だった。

家族と焼き肉食べて帰宅して、「さあ、西郷(せご)どん観よっ」と自室のベッドでマグロ状態になっていた時だ。

 

「今日、寮でお好み焼きパーティをしていたが、途中から摂ちゃんの具合が悪くなった。

朝から下痢気味だったが、昼過ぎから嘔吐し始め、吐しゃ物に血が混じっていた上に、お腹も膨れていたので念のため19時頃に救急車を呼んで病院に連れて行くことにした。

搬送先は乳がんの治療をしてくれている豊田厚生病院。

小原寮のT看護師とスタッフのHさんも同行している。

スタッフのMさん(男性)は病院の近くに住んでいるので自宅から病院に直行する予定。」

 

Mさん(女性)の話では、摂ちゃんはペロリとお好み焼きを3枚食べたという。

「食いすぎじゃねーか?」

と思った。

とはいえ、救急搬送された以上、翌月曜日から入院手続きや乳がんの主治医の先生との打ち合わせが必要になるだろう。

翌朝一番で病院に着けるよう、夜中に車で豊田厚生病院(@豊田市)に向かうことにする。

西郷どんは諦めて早めに入浴。

 

19時57分。入浴前に、摂ちゃんに付き添ってくれているT看護師の携帯にショートメールを送信。

「お手数おかけします。入院になるようでしたら、スケジュールを調整して明日、病院に向かいます。

状況が分かりましたらご連絡ください。」

 

20時21分、豊田厚生病院の代表電話からの着信履歴あり。

20時23分、同上

20時25分、再びT看護師からの着信履歴あり。

20時27分、同上

20時29分、同上

風呂から出たのは20時30分頃。

携帯に残されていた着信履歴の山(上記)に驚いて

20時32分、T看護師に電話するが通じず。

 

不安になってきた20時40分、T看護師と一緒に付き添ってくれたMさん(男性)から電話がかかってきた。

「ちょっと大変なことになってます。いったん、電話を切って、病院のドクターからお兄さんの携帯に電話してもらいます。」

 

20時44分、豊田厚生病院のS医師から電話。

「救急搬送されてきた妹さんを担当したSです。

妹さんは、救急車の中ではまだ意識があったようですが、病院に着いた時にはもう、意識はありませんでした。

その後、心臓も止まってしまったので先ほどまで心臓マッサージを続けていましたが、20分以上、マッサージを続けても蘇生されませんでした

吐しゃ物が気管に詰まってしまっているため気管挿管もできません。

お兄さん、誠に残念ですが・・・」


「ありがとうございました。それ以上、尽くす手立てがないなら本人が苦しまないようにしてやってください。」

と伝えて電話を切った。

20時50分。再度、豊田厚生病院のS医師から電話。

「妹さんは息を引き取られました。正式な死亡時刻は20時39分ということになります。」

「苦しまなかったですか?」

「病院に来られた時は既に意識はなくなっていたので苦しまれる様子はありませんでした。」

「乳がんを再発してたんですが、やっぱり乳がんのせいなんでしょうか?

でも、先日(11日)のCT検査の結果ではがんは全体的に小さくなってて、腫瘍マーカーの数値も全部、基準値内。

乳がんの担当の先生も、『アロマシンが随分、効いてますね。』と仰っていたんですが・・・」

「いえ、死因はがんじゃないです。カルテを見ても腸への転移はありませんでしたから。

直接の死因は腸管穿孔。

簡単に言えば、何らかの原因で腸が破れてお腹の中で大出血をしたためです。」

「・・・・・」

「付き添ってくださった寮のスタッフの方から伺ったお話では、今日のお昼頃から急激に体調が悪化したとのことですから、本当に急性の穿孔だったと思います。

原因や穿孔箇所を確認されたい、ということであればご遺体を解剖するしかありませんが、どうしますか?」

「・・・けっこうです。原因が分かったからって、摂子が生き返るわけじゃないですから。」

 

病院に着いたのは月曜日の午前2時頃だった。

死後6時間近く経っているのに、まだ摂ちゃんの鼻からは血が流れ続けていた

拭っても拭っても鼻血は止まらなかった。

お腹の中に溜まった血が死後硬直と体内のガスに押し上げられて鼻から出てきてしまっている、と病院の看護師さんから教えてもらった。

私をずっと待っていてくれたT看護師とMさん(男性)と私の3人で、泣きながら鼻血を拭き続けた。