つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

摂ちゃんのこと(6)

2018-02-28 11:45:53 | 摂子の乳がん

私が小学4年生の確か夏休み前だったと思う。

お袋は私だけを連れて家を飛び出した。離婚を前提に親父とは別居する、という。

一緒について行こうと玄関まで走って追いかけてきた摂子に向かってお袋は、

「奥でお父さんが呼んでるよ」

と嘘をついた。

「はーい」と明るく答えて摂子は家の奥に走っていった。

その隙に、お袋は私の手を引いて家を出た。

 

お袋は連れて行く私を女手一つで育てていかなければならなかった。

障害を持った摂子を連れてはいけない。

だから摂子に嘘をついて、親父に摂子を押し付けた。

事情は分かる。

当時のお袋には他に選択肢がなかったのかもしれぬ。

 

それでも。

お袋が摂子を捨てて私だけを選んだ、という事実は変わらない。

お袋は、あの時、摂子を捨てた。

お袋が死ぬまで、私はお袋を許せなかった。

 

 

先日の摂子の誕生日。

ココスで誕生祝いをした後で、親父の墓参りに行く前。

お袋が息を引き取った老人ホーム(その後、経営者が夜逃げをしてしまったために今は空き家になっている)に摂子と行った。

摂子に、

「ここでお母さんは死んだんだよ。

お母さんは摂子にはずいぶん意地悪だったけど、もう、許してやろうな。

お母さんは、摂子に意地悪してた罰を受けて、ちゃんとそれを償って、一人ぼっちで死んでったんだから。」

と話した。

摂子に話した、というより私の中のけじめのようなもんだ。


摂ちゃんのこと(5)

2018-02-27 11:29:37 | 摂子の乳がん

先日(2月25日)は摂子の49歳の誕生日だった。

もしかしたら最後の誕生日になるかもしれない。

施設に摂子を迎えに行って外出許可をもらって、摂子が生まれた病院(現在は病院はなくなっていて閑静な住宅地)~ココス(で大好きなコーヒーとチーズハンバーグと誕生祝いにイチゴパフェを食べて)~親父の墓参り、とドライブしてきた。

 

 

 

 

先日会った時より、明らかに咳き込んだり咽(むせ)たりする頻度が高くなっている。

たぶん、肺に転移したがんが肺や呼吸器系統を圧迫し始めているんだと思う。

 

話を昭和45年に戻す。

摂子に「知的障害」という後遺症がある、ということが分かってから、お袋は明らかにおかしくなった。

無理もないと思う。

実の娘は生後2カ月で死んでしまった。

自分はもう子供が産めない身体に(お袋の認識では)されてしまった。

貰ってきて実子として戸籍に入れた赤ん坊は知的障害児になった。

実子として戸籍に入れてしまっているので養子縁組のように離縁して法的に縁を切ることもできない。

自分たちが死ぬまで、一生面倒を見て行かなければならない。

「摂子は他人の子を貰ってきたんじゃない。クソ親父の隠し子だ」

と言い始めた。

年頃の摂子を自宅に帰省させている親父を見て、

「親父は摂子と肉体関係がある」

とまで言い始めた。

死んだ実の母親を貶(おとし)めるのは辛いけれど、明らかにお袋は狂ってた。

平岩家の中は滅茶苦茶になった。

狂ったお袋と罵り合う親父。

毎日が地獄だった。

家庭の中が滅茶苦茶だったから当時の私は性格も暗かったんだろう。

学校ではどちらかというと虐められっ子だった。

 

 


摂ちゃんのこと(4)

2018-02-23 12:17:58 | 摂子の乳がん

お袋は、

『心配だった運動しょうがいもなく良かった。』

と母子手帳に書いたが、実際には摂子は脳機能に障害を負っていた。

 

親父が残した「平成元年3月25日付け病歴・就労状況等申立書」の控えは、年月日が1年ずれている(間違っている)ものの、その内容は母子手帳より詳細だ。

何より、お袋が母子手帳への記載を止めてしまった後の摂子の様子は、「平成元年3月25日付け病歴・就労状況等申立書」からしか知ることができない。

以下、「平成元年3月25日付け病歴・就労状況等申立書」の記載からの抜粋(※年月日は正確な日付に修正した。)

 

発病日 昭和44年12月31日

発病したときの状態 風邪ぎみでけいれんが来た。

発病から初診までの状態 1月1日に瀬戸市の浅井病院受診。直ちに入院。酸素吸入を行った。

昭和45年1月1日から1月7日まで 浅井病院に入院したが、最初、内科医不在。外科医診察。

                酸素吸入、意識なしの状態が続く。

昭和45年1月7日から3月まで   名古屋市立大学附属病院。

                意識なしの状態が続き、名市大病院へ転院した。

                脳血管撮影の結果、左上部に出血あり。

                外科医と小児科医協議の結果、手術せず様子を見ることに決定。

                退院后も1年ほど通院。

昭和45年4月から昭和47年まで  愛知県総合保健センター。

                知能発達・言語発達の遅れが見られた。

                県総合保健センターへ通い言語訓練を受けたが好転しなかった。

昭和52年頃から現在まで     春日井コロニー中央病院。

                てんかん発作が見られるため通院中。

 

こうしてみると、昭和45年の正月から春先までの我が家は大騒ぎだったはずなのだが、5歳当時のこの部分は私の記憶からすっぽり抜け落ちている。

「お袋と一緒に風呂場で、お父さんが貰って来る赤ん坊の名前を考えた」記憶が残っているのに、その赤ん坊の身に翌年正月早々に降りかかった災難についての記憶がまるでない。

幼いながらに記憶を封じ込めてしまったのかもしれぬ。

結局、摂子には知的障害という大きな後遺症が残された。

正式な診断名は、「髄膜炎後遺症」とされた。


摂ちゃんのこと(3)

2018-02-22 10:04:15 | 摂子の乳がん

昭和45(1970)年1月1日の摂子の母子手帳の記載。

『風邪もひかず元気だった摂子、1970年1月1日、けいれん。直(す)ぐ病院え。

正月でどこの病院も休みだったので瀬戸の浅井病院に入院。

1週間目、ここでは摂子は死んでしまうと無理だったけど市大病院(※名古屋市立大学病院のことである)に入院。

10日間も意識がなく、もうだめかと思ったら目を開いてくれた。

世の中で私はこんな嬉しい事はなかった。

先生もあきらめて下さいと言われたが、摂子、心配だった運動しょうがいもなく良かった。』

 

お袋が母子手帳に書き残した文章はこれだけである(あとは体重の変化等の記録のみ)。

 

これとは別に、親父が摂子の障害認定申請手続きのために作成した「平成元年3月25日付け病歴・就労状況等申立書」の控えが残っている。

平成元年といえば、昭和45年から20年近くが経過している。

そのためか、親父は摂子の発病年月日を「昭和46年1月1日」と1年、間違えて記載している。

作成された時期や作成過程からしても、母子手帳にお袋が書き残した年月日の方が正確だろう。

 

正月早々、お袋は(たぶん親父も)絶望の淵に叩き込まれ、10日後、再び神様だか仏様だかに救い上げられた。

はずだった。

 

 

本当は神も仏もなかったことにお袋と親父が気付くのは、もう少し先のことである。 


摂ちゃんのこと(2)

2018-02-21 09:24:44 | 摂子の乳がん

知子が死んで、(私が幼いころにお袋から散々聞かされ続けた「お袋の主張」では)「鬼婆に無理やり子供が産めない身体にされた」ために、お袋は狂気に取り憑(つ)かれた。

お袋は、姑と親父の悪口を物心がつくかつかないかの私に吹き込み続けていた。

「おばあさんは利文のことが大嫌いなんだよ。」

「私はおばあさんに子供が産めない身体にされたんだよ。」

「うちのダメ親父は私を庇うこともできなかったんだよ。なんでもおばあさんの言いなりだ。気の弱い男だ。お前は大きくなってもああいう男にはなるんじゃない。」

 

祖母の「思ふ事ども」を読めばわかる。

お袋の話は全てでたらめだった。

少なくとも、本当の事実が「お袋の狂気」というフィルターを通じて歪曲されていた。

 

そんな生活が2年近く続いたある日、一緒にお風呂に入っていた私に突然、お袋が言った。

「お父さんがね、女の赤ちゃんを貰ってきてくれることになったんだよ。名前、考えなくっちゃね。」

私が4歳の時の記憶である。 

 

親父は名古屋市の職員だった。

そのコネを使ったのかどうか、親父は、中絶を望んでいた見知らぬ女性が産んだ赤ん坊(産みの親の戸籍にもまだ出生届が出されていない新生児)を貰い受けてきて、「摂子」と名付け、自分の実子として出生届を出した。

だから、戸籍上、摂子は親父とお袋の「養子」ではなく、長女知子に次いで生まれた「二女」と記載されている。

摂子の生年月日は1969年2月25日。

摂子の母子手帳には、出生の場所は「名古屋市千種区徳川山町2丁目8番16号 伊東医院(診療所)」、出産時の状況は「自然分娩、体重3150g 身長50cm 胸囲33cm 頭囲33.5cm」と記載されている。

お袋が「自ら産んだ二女」という点以外はすべて本当のことだろう。

「伊東医院」なる診療所があった場所は、Google Earthで見ると、今は閑静な住宅地になっている。

 

昭和40年代の終わり頃まで、こういうことが日本中で行われていた。多くの場合は産婦人科医が仲介して、中絶を望む母親を説得して子どもを産ませ、生まれた赤ん坊は子どもを欲しがっている別の家庭に実子としてあげてしまうのだ。

「藁の上の養子」という。

赤ん坊を渡す方も渡される方も、

「どうせ、放っておけば中絶された赤ん坊なのだから、引き取ってくれる家庭で実子として育てててもらえば幸せだろう」

と考えていた時代だった。

不可思議な、今から考えれば人身売買まがいの行為が、「赤ん坊の幸せのため」という名目で行われていた。

その後、昭和48(1973)年に起こった菊田医師事件(産婦人科医菊田昇による乳児の出生書偽装事件)を契機に藁の上の養子問題にようやく世間の耳目が集まり、特別養子縁組制度の創設につながっていくのだが、詳しく知りたい方はご自身でググられたい。

 

話を私の家族に戻す。

以下は摂子の母子手帳にお袋が書き留めていた記録。

『44.4.9 月齢40日目 体重4.6kg 哺乳力、稍々(やや)弱い感あるも、むら呑(の)みの気配あり。

発育としては順調にたどっている。

標準の(大)。

哺乳量1回100×6回、夜中1回与えている。

開排制限(-) 旭町岩崎。』

『生后(ご)1か月半に指しゃぶり。

生后77日にフェニールケトン検査。

生后2ヶ月半ミルク140cc1日に6回。

喃語(なんご)でさかんに話しかける。あやすと笑う。

生后3か月ミルクにスノーメールを入れなければ4時間もたない。

フェニールケトンの結果、来ず。まず異状ないものと安心。』

『オムツを変える時、左足が少しみじかいように思え心配。

7月1日夕方、鈴木整形外科に行く。異状なし。

ウィンミール、野菜マッシュがとても好きらしい。

5ヶ月になり下の歯が二本出る。おすわりがとても上手になる。

7カ月いよいよ色々の予防接種です。』

『8ヶ月に入ってもハイハイが出来ない。

いやいやだけはとても上手。

ミルク1日に100cc牛乳180cc。おまじり1日茶わんに八分目くらいで4回。

でもふとりすぎでない。」

お袋がどれほど摂子を愛して、可愛がっていたか、わかる。

 

当時私は5歳になったばかりだったから、「新しく来た」妹に母親がかかりっきりになって寂しい思いもしていたはずだが、何故かそういう記憶はない。

たぶん、かわいい摂子に、お袋だけでなく私も親父も夢中だったのだろう。

 

当時の親父やお袋の言動を思い返すと、二人して、

「摂子は、死んでしまった知子の生まれ変わりなんだ。」

と本気で信じ込もうとしていたように思う。 その年(1969年)の年末まで、お袋は(私と親父も)幸福の中にいた。

我が家は天使のような摂子を中心にすべてが回っていた。

この年の年末までは、だ。