知子が死んで、(私が幼いころにお袋から散々聞かされ続けた「お袋の主張」では)「鬼婆に無理やり子供が産めない身体にされた」ために、お袋は狂気に取り憑(つ)かれた。
お袋は、姑と親父の悪口を物心がつくかつかないかの私に吹き込み続けていた。
「おばあさんは利文のことが大嫌いなんだよ。」
「私はおばあさんに子供が産めない身体にされたんだよ。」
「うちのダメ親父は私を庇うこともできなかったんだよ。なんでもおばあさんの言いなりだ。気の弱い男だ。お前は大きくなってもああいう男にはなるんじゃない。」
祖母の「思ふ事ども」を読めばわかる。
お袋の話は全てでたらめだった。
少なくとも、本当の事実が「お袋の狂気」というフィルターを通じて歪曲されていた。
そんな生活が2年近く続いたある日、一緒にお風呂に入っていた私に突然、お袋が言った。
「お父さんがね、女の赤ちゃんを貰ってきてくれることになったんだよ。名前、考えなくっちゃね。」
私が4歳の時の記憶である。
親父は名古屋市の職員だった。
そのコネを使ったのかどうか、親父は、中絶を望んでいた見知らぬ女性が産んだ赤ん坊(産みの親の戸籍にもまだ出生届が出されていない新生児)を貰い受けてきて、「摂子」と名付け、自分の実子として出生届を出した。
だから、戸籍上、摂子は親父とお袋の「養子」ではなく、長女知子に次いで生まれた「二女」と記載されている。
摂子の生年月日は1969年2月25日。
摂子の母子手帳には、出生の場所は「名古屋市千種区徳川山町2丁目8番16号 伊東医院(診療所)」、出産時の状況は「自然分娩、体重3150g 身長50cm 胸囲33cm 頭囲33.5cm」と記載されている。
お袋が「自ら産んだ二女」という点以外はすべて本当のことだろう。
「伊東医院」なる診療所があった場所は、Google Earthで見ると、今は閑静な住宅地になっている。
昭和40年代の終わり頃まで、こういうことが日本中で行われていた。多くの場合は産婦人科医が仲介して、中絶を望む母親を説得して子どもを産ませ、生まれた赤ん坊は子どもを欲しがっている別の家庭に実子としてあげてしまうのだ。
「藁の上の養子」という。
赤ん坊を渡す方も渡される方も、
「どうせ、放っておけば中絶された赤ん坊なのだから、引き取ってくれる家庭で実子として育てててもらえば幸せだろう」
と考えていた時代だった。
不可思議な、今から考えれば人身売買まがいの行為が、「赤ん坊の幸せのため」という名目で行われていた。
その後、昭和48(1973)年に起こった菊田医師事件(産婦人科医菊田昇による乳児の出生書偽装事件)を契機に藁の上の養子問題にようやく世間の耳目が集まり、特別養子縁組制度の創設につながっていくのだが、詳しく知りたい方はご自身でググられたい。
話を私の家族に戻す。
以下は摂子の母子手帳にお袋が書き留めていた記録。
『44.4.9 月齢40日目 体重4.6kg 哺乳力、稍々(やや)弱い感あるも、むら呑(の)みの気配あり。
発育としては順調にたどっている。
標準の(大)。
哺乳量1回100×6回、夜中1回与えている。
開排制限(-) 旭町岩崎。』
『生后(ご)1か月半に指しゃぶり。
生后77日にフェニールケトン検査。
生后2ヶ月半ミルク140cc1日に6回。
喃語(なんご)でさかんに話しかける。あやすと笑う。
生后3か月ミルクにスノーメールを入れなければ4時間もたない。
フェニールケトンの結果、来ず。まず異状ないものと安心。』
『オムツを変える時、左足が少しみじかいように思え心配。
7月1日夕方、鈴木整形外科に行く。異状なし。
ウィンミール、野菜マッシュがとても好きらしい。
5ヶ月になり下の歯が二本出る。おすわりがとても上手になる。
7カ月いよいよ色々の予防接種です。』
『8ヶ月に入ってもハイハイが出来ない。
いやいやだけはとても上手。
ミルク1日に100cc牛乳180cc。おまじり1日茶わんに八分目くらいで4回。
でもふとりすぎでない。」
お袋がどれほど摂子を愛して、可愛がっていたか、わかる。
当時私は5歳になったばかりだったから、「新しく来た」妹に母親がかかりっきりになって寂しい思いもしていたはずだが、何故かそういう記憶はない。
たぶん、かわいい摂子に、お袋だけでなく私も親父も夢中だったのだろう。
当時の親父やお袋の言動を思い返すと、二人して、
「摂子は、死んでしまった知子の生まれ変わりなんだ。」
と本気で信じ込もうとしていたように思う。 その年(1969年)の年末まで、お袋は(私と親父も)幸福の中にいた。
我が家は天使のような摂子を中心にすべてが回っていた。
この年の年末までは、だ。