つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

11歳の祐人へ

2019-12-23 19:06:36 | 子育て

12月22日は次男の誕生日だった。

子どもの誕生日にはプレゼントに沿えて手書きの手紙を渡すことにしている。

こんな感じ↓



いつまで続けられるやら。

半分くらいは長男が11歳の時に渡した手紙と同じ内容だが、残りの半分は次男向けに書き直しました。

ま、どうせパパが書いた手紙なんてすぐに失くしちゃうだろうから、

何年か経って読み返したくなったら、子どもたちがこのブログを見に来ればいいように全文をアップしておくぞよ。

以下、全文↓

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11歳の祐人へ

11歳の誕生日、おめでとう。

パパが11歳だった頃。

名古屋のじいちゃんと名古屋のばあちゃん、つまりパパのお父さんとお母さんはパパが小さい頃からずっと仲が悪かった。

とうとうパパが小学校4年生の時、「別々に暮らそう」ということになって、お母さんは今まで暮らしていた家を出ていくことになった。

パパはお母さんについて家を出ていくことになった。

どうしてお母さんについて行くことになったのかよく覚えていない。

お母さんがいつもお父さんの悪口を言っていたから、パパもお父さんのことが嫌いになっていたからかもしれない。

そうしてパパは生まれて初めて転校した。

だからパパは小学校4年生の途中から小学校5年生まで、お母さんと2人で暮らしていた。

 

パパのお母さんは看護婦の仕事をしていた。

看護婦の仕事、というのは時間が不規則で、夜遅く帰ってくることもある。

そういうときパパは一人で家に帰って、自分でご飯を作って、一人で食べていた。一人で食べるご飯は、どんなにいっしょうけんめい作ってもあんまりおいしくなかったな。

 

転校した先の小学校ではバレーボール部に入った。レギュラーで試合にも出ていた。

友だちもたくさんいた。みんなスゴクいいヤツだった。今でも時々、夢に出てきたりするよ。

 

お母さんとパパの2人暮らしは、結局、パパが小学校6年生になった時に終わった。またお父さんとお母さんが一緒に暮らすようになったからだ。だからまた転校して、最初に通っていた小学校に戻った。

 

小学生の時、特に4年生頃までは、家に帰るといつもお父さんとお母さんがケンカばかりしてた。学校ではパパは目立たない子どもだった。親がケンカばかりして、家に安心できる居場所がないと、子どもって性格が暗くなるんだ。パパも内気で暗い子どもだった。勉強がメチャメチャできたわけでもないし(それはパパの小学校の時の成績表を見ればわかる)、運動がメチャメチャ得意だったわけでもない。家はどちらかというと貧乏だった。一番のごちそうは、炊きたての白いご飯に砂糖をかけて食べるのだったな。

だからというわけでもないけど、小学校時代のパパはどちらかというと目立たない、いじめられっ子だった。

 

小学校4年の時に転校して、5年生の時は別の小学校に通って、その時の担任の先生(男)がスゴクやさしくてイイ先生で、友だちもみんないいヤツばかりで、その頃からパパは明るくなった。

「家とか両親がメチャメチャでも何とかなるんだな。味方になってくれるヤツが世の中にはいるんだ。」って分かったからかもしれない。

 

パパの小学校時代というのはこんな感じだったから、パパは「お父さんとの思い出」というのがすごく少ない。ヒロや祐ちゃんが生まれてからは名古屋のじいちゃんともよく話すようになったし、一緒にご飯も食べたし、お酒を飲んだりもしたけど、小さい頃は全然違った。お父さんにたくさん遊んでもらったとか、色んな所に連れてってもらった、という記憶があまりない。全然ないわけじゃないけど。

そういう子ども時代を過ごしたから、「小学生の子どもと父親の付き合い方」というのがパパはあまりよく分かっていない。だから、今、祐人の話を聞いたり、祐人とケンカしたり、祐人に何かを伝えたり、祐人を叱ったり、祐人とどこかに出かけたりするのが、パパはスゴク楽しい。

 

パパが小さい頃のお父さんとお母さんはそんな風だったけど、別にパパは名古屋のじいちゃんと名古屋のばあちゃんを恨んではいなかったし嫌いでもなかった。そういう子ども時代を送れたことで、パパにとってはすごくプラスになったこともたくさんあるから。

 

「祐人」という名前はパパが考えた。

祐人が生まれた日。

祐人は生まれた練馬綜合病院から救急車で慶應義塾大学病院へ運ばれて、そのまま入院した。救急車にはパパが付きそいで乗っていった。

年末の、クリスマス間近の町は人も車も多くて、それでも祐人を乗せた救急車のためにみんなが道をあけてくれた。病院の先生、看護師さんたち、救急隊員の人たち、道をあけてくれた人たち、みんなが生まれたばかりの小さな赤ん坊を助けてくれている。慶應義塾大学病院に向かう救急車の中で、パパは、「あぁ、この子は生まれたその日から数えきれないくらいたくさんの人たちから助けてもらっている。大きくなったら、逆にたくさんの人を助ける人になって欲しいなぁ。」と思った。それで名前を「祐人」に決めた。「祐」という字は「たすける」とも読む。「祐人」はつまり「人をたすける」という意味だ。

 

生まれたとき、祐人の心臓には穴があいていた。

心臓に穴があいているから全身に必要な血液をうまく送れない。

たとえて言えば、穴のあいた空気入れで自転車のタイヤに空気を入れようとしてるようなもんだ。両手に乗るくらいの小さな赤ん坊の祐人は、それでも必死に生きようとしていた。

パパは、あの時、生まれて初めて心から神様に、「俺の心臓を捧げますから、この子の心臓を健康にしてやってください。」と祈った。

「進撃の巨人」で「心臓を捧げよ!」というセリフが出てくるたび、パパは、「へん、俺の心臓はとっくに神様に捧げちまったぜ」と心の中で思ってる。

 

その後、祐人は無事に手術で心臓の穴をふさいで、いまでは学年一の大きな男の子に成長した。

あの時の神様へのお願いが通じたのなら、パパの心臓は神様に捧げちゃったんだから、あの日以降のパパの人生は神様がくれたオマケみたいなもんだ。

 

ヒロは今では祐人につっけんどんだけど、祐人がまだ赤ちゃんだったときは、ほんとに優しいお兄ちゃんだった。

ある日、車の中に眠っていた祐人とヒロを残してパパがツタヤにDVDを返しに行ったことがあった。

DVDを返すのに少し時間がかかって車に戻ったら、目を覚ました祐人が大泣きしていた。ヒロは一人で一生懸命、祐人に話しかけて、抱きしめて、祐人をあやし続けていた。パパはそんなヒロと祐人を見て、嬉しくて涙が出そうになった。「あぁ、オマケの人生でこんなに幸せな光景を見れるなんて、やっぱり神様って本当にいるんじゃないか」と思った。

 

祐人もヒロに似て人に優しい。パパに、ママに、ヒロに、友達に、とても優しい。

今はまだ分からないかもしれないけど、「優しい」というのは、勉強ができることより、運動ができることより、お金をたくさん持っていることより、スゴイことなんだ。

「人に優しい人」の周りには人が集まってくる。集まってきた人の中から仲間ができる。仲間がどんどん増えると、一人じゃできなかったこともできるようになる。世界と未来と人生が広がる。

「勉強はできるけど優しくないヤツ」「スポーツ万能だけど優しくないヤツ」「お金持ちだけど優しくないヤツ」の周りには人は集まってこない。集まってきたとしても、すぐにいなくなる。本当の仲間はできない。

 

サッカーと公文、頑張ろう。

1週間に1回、2階の部屋をきれいにしよう。

晩御飯を食べたら、スイッチやスマホは片づけて本を読もう。マンガを読んだら、同じ数だけ、マンガじゃない本も読もう。そして、できるだけたくさんの本を読もう。

名古屋のじいちゃんは毎月毎月、ヒロと祐人に本を送ってきてくれた。その本は今、2階の部屋の本棚にある。

パパが小さい頃は貧乏だったけど、やっぱり名古屋のじいちゃんは本を毎月買ってくれていた。あのとき読んだ本は、その後、パパが生きていくための力になった。

だから祐人も、どんなに忙しくても、名古屋のじいちゃんが送ってきてくれた本は全部読もう。

 

たくさん本を読んで、たくさん勉強して、たくさん遊んで、たくさん人に優しくして、少しずつ大人になろう。

 

2019年12月22日

 

 

パパより


東大和市

2019-12-21 21:14:00 | 晴れた日は仕事を休んで
第43回は東大和市。

前回の東村山市編で志村けんさんの「東村山音頭」に触れた流れで、今回の目的地は多摩湖だ。



東村山市の庭先というには少し遠く、というより、東村山市内ですらない。
むしろ手を伸ばせばそこは埼玉。
向こうに見えるのは西武ドーム球場だ。

多摩湖は春は桜、秋は紅葉の名所だというが、今は冬。しかも天気は明日から崩れる予報で本日の空は曇天。

晴れていれば湖面が青く美しかったろう。

てか、寒い!

一緒にツーリング行きまくった司法修習生の久本君に強く勧められて購入した冬用のバイクジャケットを着てきたおかげで上半身は温かいが、手先は冬用の牛革グローブをはめていても冷気で指の感覚がほぼ0。
辛い。

しかもこの先、目的地は日野市→日の出町→檜原村と、どんどん東京の奥地(=どんどん寒い)に向かっていく。
こりゃあ、次回更新は来年の春かな。

多摩湖といえば取水塔が日本一美しいという。

見たいですか?

ダメです。















ウソだよーん。
はい、これ。


これは第一取水塔。
この奥に第二取水塔もある。

二つを並べて写真に収めるととても日本の風景とは思えない。
ほら、こんな感じ↓



多摩湖の東端は狭山公園という公園になっていて、ジョギング・サイクリング用の道路なんかも整備されている。
この日もクソ寒いのに多くのランナーや自転車乗りたちが走っていた。

みなさん、お元気ですなぁ。



ではここで問題。

湖と池と沼はどこで区別する?

実はあまり正確な基準はないらしく、水深5m程度なら池か沼、それ以上なら湖。広さは池<沼<湖という感じらしい。

こういう漠然としたのってよくないよなぁ。
チコちゃんに叱られる気がする。

蛙(かわず)が飛び込むのが池。
河童(かっぱ)が住んでるのが沼。
白鳥が飛んでくるのが湖。

っていうのはどうだろう。

そういえば、ウチの事務所のバイトちゃんの旦那、いっぺーちゃん(仮名)は昔、とある場所の水門で河童を見たという。
羨ましい!俺も見たい!
河童に尻子玉(しりこだま)を抜かれなくて良かったな、いっぺーちゃん!

と、愚にもつかないことを考えながら歩いていたら、こんな案内板発見。


おお、すげぇ!
この辺りには絶滅危惧種のオオタカが生息してるらしい。

ん?鷹?
白鳥じゃなくて?
湖なのに?

ちなみに多摩湖の正式名称は村山貯水池という。

・・・え、・・・池?






東村山市

2019-12-15 23:46:00 | 晴れた日は仕事を休んで
第42回。東村山市。

今回、訪れたのはここ。
明治学院中学校&明治学院東村山高等学校↓

の、敷地内にある「ライシャワー館」


ケネディ〜ジョンソン政権下で駐日大使をつとめたE.O.ライシャワー氏の生家である。

ライシャワー氏は、キリスト教長老派教会の宣教師で東京女子大学創立にも関わった父上オーガスト・カール・ライシャワー氏が住んでいた明治学院内の宣教師住宅(東京府東京市芝区白金台町)で生まれた。
現在、東村山市にあるライシャワー館は1965年にそれを復元したものだ。

その前年の1964年。
ライシャワー氏は、赤坂のアメリカ大使館前で統合失調症の日本人少年に右大腿を刺されて重傷を負った。
その時のライシャワー氏のコメント。

わたしは日本で生まれたが、日本人の血はなかった。しかし、今回、日本人の血液を多量に輸血してもらい、本当に日本人と血を分けた兄弟になれた」

なんだなんだ、このジェントルマンの見本のようなコメントは。
今のアメリカ大統領(特に名を秘す)にライシャワー氏の爪の垢を煎じて飲ませたいぞ。

ライシャワー氏は最初の奥様と死別された後、日本人女性と再婚された。
彼女の旧姓は松方ハル。明治の元勲、松方正義のお孫さんだ。
ハルさんは、私が今の事務所を開く前、8年間お世話になった三宅能生先生のご友人でもあった。
日本にお忍びで単身帰国されたとき、何をどう間違ったかラブホテルに入ってしまい、

「能生、最近の日本のホテルって素敵ね。ベッドが丸くって、天井一面に鏡が張ってあって❤️」

と電話してきて、三宅先生を大慌てさせたチャーミングな方だ(←事務所で酔っ払った三宅先生から何度か伺った機密事項)。

ところで。

東村山といえば、40代後半から上の世代の方が思い浮かべるのは志村けんさんの「東村山音頭」だろう。

もともとは三橋美智也さんと下谷二三子さんが1963年にキングレコードからリリースしていた曲だが、広く世に知られるようになったのは、ザ・ドリフターズの一員だった志村けんさんが1976年、「8時だヨ!全員集合」でアレンジした東村山音頭を公開してからだ。

「東村山ぁ、庭先ゃ多摩湖ぉ〜」で始まり、最後は「イッチョメ、イッチョメ、ワァオ、イッチョメ、イッチョメ」で終わるあの名曲である。

お若い読者の方はYouTubeで見てください。あまりのバカバカしさに頭を抱えること請け合いだ。

1976年といえば、調布編で書いたユーミンの「中央フリーウェイ」が発表された年でもある。
私はまだ小学6年だったから、ユーミンよりドリフだった。てか、田舎の小学校でユーミン聴いてるヤツなんていなかったんじゃないか(いたらスマン)。

「8時だヨ!全員集合」は毎週土曜日の放送だったから、週明けの月曜日は学校中で馬鹿ガキたち(含む、私)が「イッチョメ、イッチョメ!」と大騒ぎしていた。

志村けんさんの「東村山音頭」が大ヒットしたお陰で、取り立てて観光名所も売り物もなかった東村山市は一躍、日本で最も有名な市になった。

西武新宿線の東村山駅東口ロータリーには、志村けんさんの功績(?)を称えて3本の欅(けやき)が植えられている。
その名も「志村けんの木」という。

・・・って、そのまんまかーい!



「志村けんの木」が3本である理由についてはよく分からないが、志村けんさんの「東村山音頭」は1番の歌詞が東村山4丁目、2番が3丁目、何故か3番が1丁目だったから、それにちなんだのかもしれぬ(歌詞に2丁目はない)。
ついでに言うと、東村山市には「東村山●丁目」という地名もないし、「庭先ゃ多摩湖ぉ〜」と歌われた多摩湖があるのは東大和市だ。

てか、こんだけ功績称えといて、「志村けんの木」の前にトイレ作るか、普通?

東村山ぁ!お前なぁ・・・
「志村けんの木」のネーミングといい、その立地といい・・・

グッジョブ👍



東久留米市

2019-12-14 16:37:00 | 晴れた日は仕事を休んで
ちょっと第40回から間が空いたが、心配ご無用。ちゃんと走り続けておりますぞ。
ブログの投稿が俺の走りに追いついてないだけじゃ。

第41回は東久留米市。

今回、東久留米市の下調べをするまで、私、東久留米市は福岡県の久留米市と何か深い関係があるものだとばかり思っとりました。

奈良時代に久留米で虐げられていた人々が遠く関東にまで逃げてきて、自分たちの手で新たな村を作り上げたのが東久留米だとか、江戸時代に久留米のお家騒動がきっかけで殿様のご落胤(らくいん)が公儀の隠密にさらわれて武蔵野の山林に捨てられたんだけども、親切な村人たちの手で育てられ、その子孫が幕末、関東最大の尊皇攘夷集団「久留米党」の党首となって幕府を倒したとき、もはや自分は先祖の故郷久留米の地には戻らないとの決意を込めて明治政府から与えられた武蔵野の地を東久留米と名付けたとか。

ぜんぶ今、私がテキトーに作りました。

東久留米市と久留米市は何の関係もないらしい。

紛らわしい名前つけてんじゃねー!

さて。
気を取り直して。

東久留米市といえば西武池袋線東久留米駅の北口駅舎が高橋留美子先生の名作「めぞん一刻」の時計坂の一風景として描かれていることで有名だが、残念。当時の北口駅舎は既に取り壊されて、今ではピッカピカの新しい駅舎に建て替えられてしまっておる。

その反対側。
駅西口には「富士見テラス」があります。
国土交通省から『関東の富士見百景』に選ばれているほど富士山が美しく見える場所。
これは写メらねばなりますまい。

撮ってみました。




・・・見えんわ!

読者の皆様におかれては、心の目で見ていただきたく。
富士山は僕ら日本人の心の中にいつだってそびえていますから。

お天気とタイミングがいいとこんな感じに見えるらしい↓

(Wikipedia「東久留米市」より。たぶん撮影は高橋喜代治氏)

これは富士見テラスに設置してある案内版↓


冬至の頃にはダイヤモンド富士が見れる(こともある)らしいので、富士山好きな方は行ってみてください。今年の冬至は12月22日です。

「めぞん一刻」の北口駅舎もない、富士山も見えない(心の目では見える。富士山は僕ら日本人の・・・。もういい!)では、クソ寒い中、バイクを飛ばして来た意味がないので近くの竹林公園に行ってみたでござる。
こんな感じ↓





風情があっていいんだが、田舎育ちの私としては竹林と聞くと、どうしても幼い頃、家の近所にあった「竹藪」(たけやぶ)を思い出してしまうのじゃ。
昔の竹藪という所は、そりゃあ、もう、思春期の少年たちにとっては宝島みたいなトコだった。
何故って?

エロ本が捨てられまくってたからでござる。

日の光も届かない薄暗い竹藪の中。エロガキたちがわらわら集まって、額を寄せ合って食い入るようにエロ本を読んでいる絵を想像してほしい。
ダイヤモンド富士にも負けず劣らず切なくも美しく牧歌的な光景ではありますまいか?
ありますまいね。
はい。すいません。

竹藪からこっそり拾ってきて自室のベッドの下に隠しておいたエロ本(当時はビニ本と言ったっけ。まぁ、今の子たちには刺激もクソもなかろうが、要するにモザイクもボカシも墨塗りもされていない、いろんな部位が丸見えのエロ本っすよ)を母親に捨てられたことに気づいた時は、生まれて初めて実の母親に殺意を抱いた。うむ。反抗期だな。

冷ややかな目でこのブログを読んでいる男性諸君。あなたの目は、もう、少年の輝きを失ってしまいましたな。

軽蔑の目でこのブログを読んでいる女性諸君。言っときますが、男の子って大なり小なりこーゆーもんですからね。

竹林公園の中には小川の原水となっている湧水もあって、さすが武蔵野という感じです。


ここから湧き出た水はやがて黒目川(東久留米の語源との説もあり)に注ぎ込むのだが、その手前の清流では蛍も見れるらしい。



ちなみに、私の撮った竹林公園の写真はGoogle mapにもアップされているのだが、どーゆーわけか閲覧者数がやたらに多い↓


世の中、エッチな人が多いんだな。

50,000人の同志よ!

言っとくけど、竹林公園にはエロ本は落ちてなかったぞ。




羽村市

2019-12-02 00:24:00 | 晴れた日は仕事を休んで
第40回は羽村市。

東京でもっとも人口が少ない市だ。
面積も9.9㎢しかない。
9.9㎢=3km×3.3km。
時速4kmとして、市の端から端まで歩いても1時間かからない計算。
うわっ、狭!

さて、行ってきたのはここ↓


羽村駅のほぼ目の前。

「まいまいず」とはカタツムリのこと。
地盤の柔らかい土地で垂直に井戸を掘り進めると、掘った先から土が崩れてきて井戸が埋まってしまう。
それを回避するために古代の人たちは、「土地を螺旋状(らせんじょう)に掘り下げていって、硬い地盤まで到達してから垂直に井戸を掘ればいいじゃん」と思いついた。
螺旋状に掘り下げることで、底の井戸までの通路もできる。
言葉で説明すると分かりにくいが、要するにこんな感じ↓




羽村市のまいまいず井戸は五ノ神社の境内にある。
伝説では大同年間(806年〜810年)に掘られたという。伝説はさておき、出土品からすると少なくとも鎌倉時代(1192年頃〜1333年)には既に付近の住民の生活水として使われていたらしい。

五ノ神社は推古天皇9年(601年)の創建と伝えられいる。同じ年、奈良では聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)を造営していた。

五ノ神社の本殿はこんな感じ↓


現在の本殿は文久2年(1862年)の竣工。
勝海舟に弟子入りした坂本龍馬が討幕の表舞台に登場した年である。

境内のまいまいず井戸のすぐ横にこれまた古い隼人墓があった↓


説明の案内板もなく、いつ、誰が作ったのか、誰のための墓なのかも分からない。

猫の額(ひたい)ほどの羽村市の、子猫の額ほどのちいさなちいさな神社の境内に、ざっと1200年分の時間が閉じ込められている。
私が訪れた時は、色づき始めた境内のイチョウが神々しかった。



今年は指を切り落としそうになるわ、信じてた人間には裏切られるわ、腹の立つ事件を受任するわ、仏滅と13日の金曜日と天中殺と大殺界が団体ツアーでやって来たような年だったけど、こういう圧倒的な時の流れが凝縮した場所に来ると、

「ま、どーでもいっかぁ」

という気持ちになる。私だけか?

痛いとか許せんとかムカつくとか損したとか、泣いたり怒ったり喚(わめ)いたりしたところで、1200年も経てば心も体も、ヒトの記憶さえ綺麗さっぱり消えてなくなるだろう。
無から出でて無に帰するものに一喜一憂、右往左往してるというのも、考えてみれば馬鹿馬鹿しい話だ。
よし。明日からまたがんばろー!

と家に帰る途中、こんな店を発見!


なんだなんだ。
坂本九ちゃんが俺を励ましに降臨したのか?

しかも、そのお隣には↓


・・・七転び、っすか?

羽村市、小さいのに癒しどころ満点だ!