つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

腫瘍マーカーの数値(23)

2015-02-26 10:25:24 | 親父の肺癌

先日、実家に帰った際、親父から「人生の〆方~医者が看取った12人の物語~」(大津秀一・新潮文庫)という本を渡された。

いや、俺はまだ人生〆る年じゃないんだが・・・。

まぁ、「俺もこうやって逝きたいんだ」という親父なりのメッセージなんだろう。

「人生の〆方」で紹介されている方々の最期はみな、荘厳で神々しく清らかである。

この本を読んでると、

「人は死んでから仏になるんじゃなくて、死期を悟ると仏に昇華して、死んだら土塊になって自然に還るんだ」

とか思ってしまうのだが、なかなか人間そううまくはできていない。

そもそも誰もが「荘厳で神々しく清らかな死」を迎えられるなら、そのテの話をまとめた「人生の〆方」を本にする意味はないし、それを読んで感動することもないだろう。

自由でも平等でも公平でも公正でもないアメリカが、「自由、平等、公平、公正」を声高に叫ぶのと同じ理屈である。誰も「フーテンの寅さん」の様に生きられないからこそ「寅さんシリーズ」はサラリーマンに人気があるのだ。

などと思ったりする、プリズムの如き屈折した心を持つ俺。

 

ちなみに、先月22日に他界した母は、最期まで人の悪口を言い続けていた人であった。

私が物心つく頃から、親父の悪口を言い、親父の両親(つまり私の祖父母)の悪口を言い、親戚の悪口を言い、近所の人の悪口を言い、老人ホームに入ってからは、スタッフの悪口を言い、透析をしてもらっている病院の先生や看護士さん、ケースワーカーさん、スタッフさんの悪口を言い続けていた。私に対しても例外ではなく、何度も罵声を浴びせられ、時に「泥棒」呼ばわりされ、小学生と幼稚園の孫(つまり私の子どもたち)に向かって「お前たちの父親は馬鹿だ」とのたまわったこともある。

私のブログを読んだ方の中には、私の母を「懸命に闘病生活に生き、子ども(つまり私)を育て上げた素敵な女性」と思っている方もおられるようだが、違う!

昨年12月に母を見舞った際も母は苦しい呼吸の中で人の悪口を言い続けていた。私が最後に母にかけた言葉は、

「そんなに誰かの悪口を言い続けてて何か楽しいか? もう、いい年なんだから人の悪口言うのはやめろよ、おふくろ。」

だった。

それに対する母の答えが、私の聞いた最後の母の言葉になった。

「人の悪口言わずに、どうやって生きていくんだ。」

死んだ者のことを悪く言うのは心情的に抵抗がある。ましてや自分の母親だ。長い闘病生活で、いろんな意味で心が拗くれていたのだろう。母にとって、自分を取り巻くこの世界は(おそらく、そんな世界を造った神でさえも)敵であり罵倒すべき対象だったのかもしれぬ。そうした母の事情も十分理解している。

理解はしているが、母の生き様は「荘厳」とも「神々しさ」とも「清らかさ」とも縁遠いものだった。母の精神は(私が幼いころから)明らかに崩壊していた。だから小学生だった私の目の前で2度も自殺を図った。1度目は錯乱して出刃包丁で自分の首を掻き切ろうとした。そのときは私が泣きながら母親の手を押さつけて包丁を取り上げた。小学校5年の時だ。2度目は私が学校から帰ったら自室でガスホースを口にくわえていた。私が小学校6年の時である。

たぶん、私が親父の立場でも、母とは離婚しただろう(というより、そもそも結婚していないような気がする。この点で、親父は女を見る目がなかった。な、親父。)

人の悪口を言い続けた母は、最期の瞬間、老人ホームのスタッフが発見してくれるまで、自室で独りぼっちだった。

独りぼっちで、次第に苦しくなっていく呼吸に苦しみ、怯えながら〆の時を迎えた。たぶん、それが、人を罵り続けた母の人生の帳尻合わせだったのだろう。

 

親父の腫瘍マーカーの数値は安定している。医者から告知された「余命2年」はとっくに過ぎた。4月の2人の孫の入学式は見られそうだし、まだ当分は元気で生きられそうである。

親父が人生の〆の時を迎えるのは、まだ、しばらく先のことだろう。

親父は母と違ってめったに他人に対する主観的評価を口にしない男である。「あいつはいいヤツだ」とも「あの野郎はバカだ」とも言わない。愚痴も弱音も吐かない。日々、淡々・飄々と生きている。

だからたぶん、親父はいい死に方をすると思う。

それが、何年も何十年も先であることを祈っている。

 

2015年1月30日の腫瘍マーカーの数値は以下のとおり。(  )内は前回検査時(2014年12月26日)の検査結果。

CRP 0.26(0.16)※基準値0.3以下 0.4~0.9だと体内に軽い炎症が発生している可能性を示す

ProGRP 67(59)※基準値81以下 肺ガンに特有の腫瘍マーカー

CEA 6.2(6.2)※基準値5.0以下 胃・大腸・肝臓ガンに特有の腫瘍マーカー

NSE 17.1(15.3)※基準値16.3以下 小細胞肺ガン、神経芽細胞腫に特有の腫瘍マーカー。告知時(2012/10/11の数値は22.8)

CA19-9 35(35)※基準値37以下 膵臓・胆道・胃・大腸・肝臓ガンに特有の腫瘍マーカー

【免疫力の数値】

アルブミン 4.1(4.3)※基準値3.8~5.3

リンパ球 38.6(34.3)※基準値18.0~59.0

ガンの大きさは

上部 縦1.50cm(2.23cm)

    横2.30cm(2.41cm)

    奥行−cm(−cm)

下部 縦3.37cm(3.87cm)

    横6.36cm(6.01cm)


逆ナンされました(実話)

2015-02-25 11:23:15 | 日記

2月10日。

貴重な麻雀メンツのS君(鉄道オタク。彼女募集中。)が和歌山に転勤になる、ということで新橋において送別麻雀大会を挙行した。

「大会」といっても、メンツは私、I氏、S君、S社長の4名だから卓は1つしか立たぬ。寂しい大会だ。

18時半ころから23時近くまで打(ぶ)って、案の定、S社長がダントツに勝った。送られる立場のS君は一人負け。それも結構な額。

そういえば、前回1月の年明け麻雀大会(同じく、卓は1つ)でもS社長の一人勝ちだった。

もしかしたら、私たちはS社長のとんでもないカモなんじゃないだろうか?

 

S君は「人生初の地方転勤」という一大イベントに気分が高揚しているのか、マシンガンのように終始喋り続けていた。

人の話も聞いちゃいない。捨て牌もノーチェック。たまに大物手をテンパイすると静かになる。分かりやすいこと、この上ない。

そして、S社長か、I氏(たまに私)に振り込むかツモられる。半荘4回やって、延々その繰り返し。

 

「送別するよ」と誘い出され、背負ってきたネギごとスープの煮えたぎる鍋にぶち込まれ、美味しく茹で上がった・・・じゃなかった、満身創痍のカモ・・・おっと、もとい、S君をそのまま帰すにはあまりに忍びず、ジャッカルS社長を新橋駅改札でお見送りした後、I氏と私とS君とで少しだけ呑むことにした。

取りあえず、新宿まで行って何軒か店を探すも、なかなかいい店がない。歌舞伎町界隈を冴えない風体の男3人がウロウロしていると、10m間隔で客引きのオニィチャンから声をかけられる。ウザイこと、この上ない。

結局、私がたまに行く新宿三丁目の「池林房」になだれ込んだ。演劇関係者が毎晩明け方までくだを巻いているような店である。しかし、雰囲気があって、安くて、美味い。

池林房でもS君は喋り続けた。

午前2時を回った頃、さすがに(最年長の)I氏が体力の限界に達し、「そろそろ帰りましょう。」とS君のマシンガントークが炸裂するリングにタオルを投げ込んだ。

 

その直後である。

20代後半くらいの女性2人組が店に入ってきた。

私たちが陣取っていた席のすぐ隣に座り、注文を終えると、向かって右側の巨乳ちゃんが濡れた眼差しでじっと私の方(ばかり)を見ている。I氏でもS君でもなく「私」を、である。

最初は、「ふっ、オレの自意識過剰も来るところまで来たもんだぜ。」と謙虚に思ったりもしたが、何度も巨乳ちゃんと目が合う。目が合うたびに巨乳ちゃんがニコッと笑う。

「これは噂に聞く逆ナンではないか! あぁ、麻雀でバカ勝ちして運を使い果たさなくて良かった。」

運の節約上手な自分を抱きしめてやりたい気分だ。

ついでに巨乳ちゃんにも抱きしめられたい。

 

そんな私の胸の高まりを無視し、さっさと帰り支度をして席を立つ品行方正なI氏と電車(JR限定)以外に興味のないS君。

おいおい、お二人さん。その枯れたジジイのような態度は如何なものか。

・・・などと異議申し立てもできず、黙って2人の後を追って店を出る私。ああ、法廷でバンバン異議を出しまくる時の100分の1の勇気が今、あれば。

後ろ髪引き抜かれて500円玉大のハゲ痕がいくつもできそうな思いで振り返って、巨乳ちゃんに「バイバイ」と手を振ってみたら、彼女も残念そうに手を振り返してくるじゃあ~りませんか。

 

新宿柳通りの交差点まで出て、それぞれ帰る方向が違うので別々のタクシーで帰ることにする。というか、そういうことに強引にした。私の戦術だ。

タクシーに乗り込んだ直後、携帯に電話がかかってきたフリをして、運転手さんに

「あ、ごめん、ちょっと急用で店に戻らなくちゃ。これ、お詫びね。」

と1000円札を握らせ、私が池林房に戻ろうとしたのは言うまでもない。高度な戦術だ。

幸い、次の日(既に日付は変わっているので当日だが)は建国記念日で休日だし。

ああ、俺も巨乳ちゃんと恋の炎を建国したい。燃えさかる紅蓮の炎で池林房を焼失させちゃうぞ。

そんな私の暴走する99%の本能をかろうじて押しとどめたのは、

1)所持金が残り少なかった(自宅までのタクシー代ギリギリ)

2)飲み過ぎて気持ち悪かった(既に口の中、酸っぱい)

3)カミサンのことをよく知っている役者兼劇団座長(ビーグル大塚君)が、その日、池林房でバイトをしていた

という諸事情があったからだ。

 

今から考えれば

1)金はなんとでもなる(パスモ持ってるんだから始発で帰ればいいじゃん、俺)

2)気持ち悪いときは吐けば楽になる(リセットボタンは舌の付け根部分にあるぞ、俺)

迷わず巨乳ちゃん(@池林房)に走るべきであった。

・・・あ、店にはビーグル大塚がいたか。

 

後日、K女史に、

「オレさぁ、この前、逆ナンされちゃってさ~」

と自慢したら、

「先生。そういうの、美人局っていうんだよ。お金も社会的地位も失わなくてよかったね。」

と静かに諭された。

 

嫉妬だな。

ジェラシーの炎は人を見る目を曇らせるんだぜ、K女史。

あの巨乳ちゃんの笑顔(と胸の谷間)にそんな闇が潜んでいようはずもなかろう。

 

しばらく池林房に通うことにする。

 

追記1: いさをさん。先送りになっている新年会は、是非とも、何が何でも、池林房でお願いいたしたく。飲み代、半分出します。

追記2: ビーグル。頼む。バイトする店、変えてくれ!

追記3: (たぶん)天国の母上様。俺は元気にやってます。 

 


母が逝きました(3)~前略、丸信之様~

2015-02-23 19:31:52 | 日記

丸 信之 様

前略

突然、お手紙を差し上げて申し訳ありません。

インターネットで検索していたところ、丸さんのお名前を見つけ、懐かしくて堪らなくなり、手紙を書いてみることにしました。

 

丸さんは、もしかして、今から40年近く前、名東区のNハイツに住んでおられた丸信之さんではないでしょうか?(もし、人違いであれば、以下の内容は無視して、この手紙は破棄してください。)

システムブレーン・マーケットのHPに載っていた丸さんの出身校に「名古屋市立猪高小学校」と記載されていたので、たぶん、間違いないと思うのですが。

 

私は、両親の別居に伴い、小学校4年の途中から小学校5年まで、Nハイツの南側にあったボロアパートに母親と2人で住んでいた平岩利文です。覚えておられるでしょうか?

丸さんにはとても仲良くしてもらい、猪高小学校では一緒にバレーボール部に入っていました。

丸さんと同じくNハイツに住んでいたO君や、医者の息子のM君、お父上が大韓航空のパイロットだった韓国人のS君ともよく遊びました。猪高小学校5年の時の担任は中根敦先生でした。

 

私の両親の別居は私が小学校6年生になるときに解消し、私はもとの家(尾張旭市)に戻りました。その後、丸さんやO君と連絡を取り合い、1~2度、会ったような気もするのですが、そのあたりは記憶がはっきりしません。

 

私の両親は、結局、私が35歳の時に離婚し、名古屋市内の老人ホームに入っていた母親は先月22日に80歳で他界しました。

 

現在、私は東京で弁護士をしています。

母親が他界した先月22日。諸手続のために名古屋に戻った折、懐かしさも手伝って数十年振りに母親と二人で住んでいたボロアパートを訪ねてみましたが、既にアパートは取り壊されており、立派なマンションが建てられていました。

ただ、丸さんが住んでおられたNハイツは昔のままでした。

 

両親の不仲~別居、母親との慣れないアパート生活、母親が看護婦をしていたために鍵っ子だった寂しさ、そんな中で丸さんやO君、M君、S君たちが何一つ色眼鏡で私を見ることなくずっと仲良くしてくれたこと(あの頃は現在と違って、「片親の子」というのは子どもにとっては色んな意味で大変な時代でした)、夜遅くまでバレーボール部の練習をしたこと、小学校までの長い道のり…。私が母親と一社で暮らした期間はたった1年半でしたが、あの頃の記憶は今でも鮮烈に残っています。

 

母親の他界をきっかけに久し振りに一社の街を訪ね、丸さんのことを思い出し、ダメもとでインターネットで検索してみたところ、丸さんの会社に辿り着きました。

 

丸さんが私の知っている、幼なじみの、やせっぽちの、ひょうきん者で、スポーツ万能で、優しかった、猪高小学校に通っていた「丸信之」さんであれば、一言、あの頃のお礼をお伝えしたくてお手紙を書かせて頂きました。

 

40年近く前ですが、あの頃は本当に有り難うございました。

 

丸さん、O君、M君、S君たちがいてくれたお陰で、みんなの笑顔に支えられたお陰で、みんなが私と友だちでいてくれたお陰で、私は母親との寂しい二人暮らしを乗り切ることができました。道を踏み外すことなく、どうにかこうにか、人並みに大人になることもできました。

 

私は二人の息子を授かりましたが、今年、長男は中学校に、次男は小学校に、それぞれ入学します。奇しくも、私の両親がお互いを蛇蝎の如く嫌いあっていた頃、私が丸さんたちに会った頃の年齢です。

丸さんたちのことを思い出すたび、一社のボロアパートでの母親との生活を思い出すたび、丸さんとバレーボールの練習をした小学校の夜の体育館の灯りを思い出すたび、一社の空き地の枯れ草の匂いを思い出すたび、二人の息子にも丸さんたちのような友人ができればいいなぁ、と思ったりします。

 

突然のお手紙、失礼しました。

もし、私のことを思い出して頂いたら、お手すきの時にご連絡を頂ければ嬉しいです。

メールでもけっこうです。私の事務所のメールアドレスが記載してある私の名刺も同封しておきます。

草々

追伸:もし、まだO君やM君たちと連絡を取り合っておられるなら、彼らにも宜しくお伝えください。