つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

ゼレンスキーという政治家

2022-05-27 15:25:13 | 日記

先日、敬愛する劇作家兼演出家の高橋いさをさんと久しぶりに食事をした。

いさをさんももう還暦である。

いさをさんと初めてお会いしたのは忘れもしない、原宿駅前の歩道の上だった。今から30年以上も前のことだ。

いさをさんが還暦だから、いさをさんの人生を基準にすれば、その半分以上に僕が存在していたということになる。

僕は今57歳なので、僕の人生の半分以上にいさをさんが存在していたということでもある。

誰かの人生の半分とか半分以上に自分が存在しているというのはなんだか凄いことのような気がして、いさをさんが連れて行ってくれた新宿三丁目の焼肉屋の一番奥の席で、注文したトマトサワー(珍しいサワーだが美味かった)を飲みながら僕はいさをさんにそう言ってみたのだが、いさをさんは、

「まぁ、そういうことになりますね」

とクールに一言返してくれただけだった。

あれー?

人づきあいが苦手で、人の好き嫌いが激しい僕としては、誰かの人生の半分とか半分以上に自分が存在している、というその事実だけで、「うわぁ」とドキドキしてしまうのだが。

 

さて、僕が2杯目のトマトサワーを飲み終える直前に、いさをさんから

「そういえば、ブログ、去年のツーリング以来更新してないじゃないですか」

と言われてしまった。

今、前の記事のタイムスタンプを見てみたら「2021-11-10 01:30:00」とある。

半年以上、放置していた計算だ。

4000kmを超える長距離ツーリングを終えてちょっと魂が抜け切った状態になってしまっていたとか、

金にならないのに手間ばかりかかる仕事が忙しかったとか、

年末からちょっと一念発起してある資格試験に挑戦し始めたとか。

いろいろ言い訳はあるのだけれど、敬愛するいさをさんに「ブログは?」と言われてしまうと、僕としては優しい校長先生にやんわりと期末試験の成績を注意された中学生のように、「いや、あの、その」とヘドモドするしかない。

そもそもいさをさんは、かれこれ10年以上も一日も休むことなく毎日(!)、ブログを更新し続けているのだから、そのいさをさんから「ブログは?」とやんわり指摘されると、劇作家と弁護士と職種は違えど、「ものを書いて生きている」という意味での同業種の僕としてはもう、恥じ入ってシドモドするしかないのだ。

いさをさんのブログはこちら↓

高橋いさをの徒然草② (ameblo.jp)

近日中に書籍化もされるらしい。

 

という次第で、半年(とちょっと)ぶりの更新である。

あまりに久しぶりなので何を書いたらいいのか、どう書けばいいのか、よく分からなくなっている自分がいることにまず驚く。

驚きついでに、しばらくはリハビリ状態が続くであろうこともあらかじめお断りしておく。

取りあえず今回は、いさをさんと焼肉をつつきながらなんとなく僕が今思っていることを話したロシアとウクライナの戦争について書いておこうと思う。

 

ロシアとウクライナが戦争している。

両国の兵士が何人も死に、ロシア兵によるウクライナの一般市民への虐殺も伝わってくる。

戦争を最初に仕掛けたプーチン大統領が一番悪いのは当たり前だし、彼は戦争犯罪人として処刑されるべきだと僕は思っているけれど、世界中が英雄として祭り上げているウクライナのゼレンスキー大統領も同様に政治家としては最低・最悪な男だと僕は思っている。

 

ゼレンスキー崇拝著しい現在、こういうことを書くと、また「平和呆けの馬鹿」とか「祖国を守るということの尊さの分からないぬるま湯世代」とか言われるんだろう。

しかし。

戦争の是非はともかく、ウクライナの人々は、隣国に「プーチンという異常者」に率いられている大国ロシアがいることはわかっていたはずだ。

ロシアという国家がどのような国家かということも、世界史の教科書を読めば中学生でもわかる。

ロシアがウクライナのNATO加盟に反対し続けていて、それなのに(ロシアとの)確たる外交努力も払うことなく、このタイミングでウクライナがNATO加盟を公式に表明すれば、プーチンがどのような行動に出るかもみんなわかっていた。

にもかかわらず、ゼレンスキーは「NATOに加盟する」とぶち上げた。

 

世界にはいろんな主義・思想の政治家がいるけれど、唯一、民主主義国家にあって、どんな政治家も共通して背負う揺るぎない義務は「自国民を一人たりとも殺さないこと」だ。

政治家は自国民の命を守るためなら、どんなに馬鹿にされても、弱腰だと批判されても、軟弱外交だと罵られても、戦争を回避する努力をしなければならない。

しかしゼレンスキーはそれをしなかった。

ゼレンスキーがしたのは、

戦争のきっかけをプーチンに与え、国家総動員令を発動し、兵士として使えるウクライナの男性国民の出国を禁止したことだけだ。

妻子を国外に逃がした男たちは、「愛する国を守るためだ」という耳障りのいい大義名分で戦地に送り込まれ続けている。

ロシアが侵攻してきてしまった現状、戦わなければウクライナという国家の存在それ自体が否定されかねないし、この状況で両国が話し合いで軍を引く、ということは夢物語に等しいとも思う。今は何百人、何千人の兵士が死のうと、戦うしかない状況だ。

 

それでも。

僕は、「国民は国のために死ね、死ぬべきだ、死んでもいい」と言う人間を信じないし、支持もしない。

国家というのは人が幸せに生きていくために、僕らの遠い先祖が一つの契約として作り上げた手段でありシステムに過ぎない。

国民の幸せのために作り出した「手段」としての国家を守るために、国民に死ねというのは論理矛盾以外の何ものでもない。

何があっても、国民に向かって死ねという状況は回避しなければならない。

それが、気の遠くなるような人類の歴史の中で、星の数ほどの戦争を経て、夥しい命を失って、ようやく僕らが辿り着いた結論ではなかったか?

 

太平洋戦争時、日本の政治家は「国のために死ね」と国民に言い続けた。

毛沢東も建国のためにとんでもない数の国民を殺した。

金日成もポル・ポトも。

歴史上、国民の命を国に捧げさせた政治家は、例外なく虐殺者だ。

その意味で、プーチンもゼレンスキーも、僕から言わせれば虐殺者であり、無能で狂った政治家であることに変わりはない。

何故、ゼレンスキーが世界中でここまで評価されているのか、僕にはさっぱり分からないし共感もできない。

 

どういう形であれ、戦争が終わったとき、プーチンとともにゼレンスキーの責任を問う声が沸き上がるだろう。

夫を殺された妻から、父を殺された娘から、わが子を殺された老親から。

その時、きっと、世界のマスコミや識者は手のひらを返してゼレンスキーを批判し始めるだろう。

今から77年前の、極東の小さな島国のマスコミやジャーナリズムのように。

戦争中、ゼレンスキーを讃えた自分たちもまた共犯者であることを忘れて。