つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

誕生日

2023-11-26 23:45:00 | 日記
ということで久しぶりにブログも更新してみた。
何歳になったのかは秘密だ。

何人かの方からは誕生日おめでとうLINEを頂いた。
ありがとうございます。
と、この場を借りて御礼。

もしかしたらFacebookとかTwitter(今はX)とかにお祝いメッセージ送ってくれた方もいらっしゃるかもしれませんが、すいません、私、昨年末でTwitter(今はX)のアカウントは削除しました。
Facebookも夏の北海道・東北ツーリング以来、まったくアクセスしてないです。そしてたぶんこの先も、見ることも書き込むこともないと思います(Messengerでしか繋がっていない方がいるので、Messengerだけは生きてますが、基本、ノーチェック)。

理由は単純で、TwitterとかFacebookとかその他諸々のSNS全般にほとほと嫌気がさしてしまったから。
これらのツールに依存・・・じゃなかった、これらのツールを使いこなしている友人・知人も多いけど(というか、そういう人が圧倒的多数)、彼ら彼女らとSNSの功罪について議論するのはまったく本意ではないので、私がSNSと縁を切った理由についてここでは細かくは書かない。
細かくは書かないけど、簡単に言うなら、「50歳過ぎて、自分が楽しいと思っていないこと、ストレスを感じてることに手間暇をかける愚はそろそろやめよう」ということだ。
SNSが楽しくて、ストレスになんかならないよ〜んという人は、それはそれでいいと思う。
ただ、私はそうじゃないので、酒の席とかでしつこく議論吹っかけてくるのはやめてね。

あと、数年前から年賀状の発送先も整理し始めた。
一時期は2500通くらい送ってたときもあったけれど、今はせいぜい500〜600通くらい。これでも多いと思ってる。
発送先を減らすことにしたのは、あるとき突然、「どうせ出すなら、本当に出したい人にだけ、ちゃんと出そう」と思ったからだ。
あと数年かけて、最終的には30通前後にまで減らしたいなぁ、と思う。
てかさ、年の終わりに、「あぁ、あの人に今年も世話になったなぁ」とか「今年は会えなかったけど、来年はなんとかして会いたいなぁ」と顔が浮かんでくる人ってそんなにいる?
私は友だちが少ない(ほとんどいない、とも言う)上に、元来、一人でいるのが好きなので、そう思う相手って数えるほどしかいない。いや、マヂで。
別に世話になったわけでもなく、特に会いたいわけでもない相手に、「今年もお世話になりました。来年は是非、食事でも」って年の初めから心にもない葉書送りつけるのは、もう、やめようと思うのだ。
かといって、年賀状自体をやめる気はさらさらないけれど。
昨今の、「年賀状、もうやめましょう」運動も、あれはあれで、なんだかなぁと思う。
たかが年賀状じゃん。
書きたい相手にだけ、書きたいことを、書いたいように書いて送ればいいんじゃね?
書きたい相手が1人でもいるなら、「もう年賀状出すのやめ!来年からは誰にも出さない!」とか、いきなりレッドゾーンに針振り切らなくてもよくね?
ONかOFFしかないんすか?
思考回路は二進法のコンピュータっすか?

あと、昨年から自分が死んだときに備えて、家族に宛てた手紙も書いた。WordとExcelで。
法律上の要件を満たしてないので遺言書ではない。ただの「手紙」だ。
ただ、その手紙には私の財産がどこにいくらあるか、銀行や証券会社の口座のIDやパスワード、私が「これでいいんじゃない?」と思う遺産分割方法、最後に家族に伝えておきたい気持ちとかが全部、書いてある。だから、たとえば明日死んだとしても、特に思い残すことも、伝え残して無念なことも、心配なこともない。
だいたい半年に一度くらいの割合で内容は更新する。WordとExcelで作ってるので変更が楽なこと楽なこと。
嫁と喧嘩したときとかは、嫁の相続分を減らしてみたりする。こどもか!

本とか服とかもザクッと捨ててみた。
断捨離って始めると止まらなくなる。
人間は何かを削ぎ落としていくことに恐怖を覚えるタイプと快感を覚えるタイプに分けられるらしいけど、私は間違いなく後者だ。

という近況を話すと、たいていの人に「終活ですね」と言われるけど、そこまで深刻に考えてるわけでもなく。すいませんね、適当で。

何歳とは言わないけど、50数年生きてきて、閉塞感っつーか、停滞感っつーか、澱(おり)っつーか、要するに、「めんどくさい柵(しがらみ)とか、どうでもいい世間の流行とか流れだけでなんとなく続けてるけど、俺の人生をちっとも楽しくしてくれてないものを削ぎ落としたらどうなるんだろ?」と思い始めただけなのだが。


全然、話が飛ぶけれど、昨年、ちょっと色々あって久しぶりにどん底に落ち込んだので、「俺、ヤバいわ。辛いわ」と高校時代の友だちに連絡したら、「よし会おう」と返事が来た。
新宿の安居酒屋でもつ煮込みと焼き鳥を食ってサワーを浴びるほど飲んでカラオケに行った。
最後にケツメイシの「友よ」を歌って別れた。
「ああ、高校のときコイツに出会えたことが、きっと俺の人生の意味なんだな」と思った。
世の中がどう騒ぎ立てても、コイツには死ぬまで年賀状を送りつけるんだ、間違いねー、とも思った。

本と服を断捨離して、年賀状出す相手を整理して、SNSと縁を切って、家族に遺言(手紙)をしこしこ書いて、10年ぶりくらいに会った友だちに弱音を吐いて、こうして俺はジジイになっていくんだなぁ、と思った。
メチャメチャ満足した。


この1年は、凹んで凹んで凹みまくって、身体から元気の「気」が抜けて、気持ちと心が萎んで、逡巡して逡巡して3周逡巡した。

そしてまた歩き出した。
それは、「辛い」と伸ばした私の手を握り返してくれた奴がいて、「大丈夫だ」と背中を押してくれた奴がいたからだ。

だから、私もこれからは、誰かが「HELP!」と連絡してきたら、とにかく「よし会おう」と言おうと決めた。
「HELP!」と口にするまで、そいつがどれほど1人で悩んで苦しんだか、「HELP!」と叫んだことのある私にはわかるからだ。

私の人生は、せいぜいあと20年だろう。
50代最後の誕生日。
私は、大切な奴と過ごす時間と、楽しく過ごす時を、その20年の真ん中に据えて生きていくことに決めた。


その先の闇と光

2023-06-09 17:04:54 | 日記

私が法律監修と名古屋弁指導をさせて頂いた、敬愛する高橋いさをさん作・演出の舞台もいよいよ今週日曜日(6月11日)で千秋楽である(※方言指導をさせてもらったのはAチーム「壁の向こうの友人」、法律監修はABC全チーム)。



稽古時から役者さんたちの演技を拝見し、(おそれ多くも)台詞のアクセントや言い回しにダメ出しをさせて頂き、ずっと本作を拝見し続けてきたのだが、

ちょっと、とんでもなく凄い作品になってきた

と思う。

私は、「映画も演劇も音楽も、10人いれば10通りの好みと感想がある」と思っているし、自分がスタッフとして携わった作品を人に薦めるのは、なんだか自分の息子の自慢を臆面もなく捲(まく)し立てるバカ親じみている気がしてどうにもこうにも苦手なのだが、本作は敢えて声を大にして皆様にお薦めしたい。

これ、もしかしたら高橋いさをの傑作ベスト10に入る作品になるかもしれない。

 

私は、本番の舞台は現在までに計4回拝見しているのだが、回を追うごとに作品の完成度は明らかに増してきている。

散々言い古された言葉だけれど、「演劇」というエンターテインメントは「映画」や「テレビ」と違って、「脚本家」「演出家」「役者」「演出助手や舞台監督や音響や照明スタッフ」「制作スタッフ」に加えて、「観客」が一緒になって初めて完成する芸術だ。

想像してみてほしい。

客席にたった一人しか観客のいない舞台と、満席の舞台。

半分以上の観客があくびをするか居眠りをしている舞台と、泣いて笑って拍手をしている舞台。

舞台上の役者が同じ演技をして、同じタイミングでBGMが入り、同じタイミングで照明が切り替わったとしても、前者の舞台と後者の舞台は全く違う舞台になるだろう。

そして、役者たちは、上演中の観客の反応に、上演後のアンケートの一言一言に触発されて、自らの演技を修正し続けていくものだ。

そこに完成形はないし終わりもない。

初日と中日と千秋楽で全く同じ演技をする役者がいたとしたら、その役者は少なくとも舞台には立つべきではない。

観客の反応。観客との目に見えないコミュニケーション。自分のこれまでの全人生。経験。演出家の演出。相手役のリアクションの変化。

そのすべてを自分の内に取り込んで、濾過して、昇華させた先の一滴を、一瞬の演技に凝縮させることのできる者だけが、おそらく役者を名乗っていいのだと思う。

本作は客席50席の小さな劇場での公演である。

これまでに10ステージが上演された。

つまり、役者や演出家その他の作り手+500人の観客が作り上げた舞台がそこにある、ということだ。

本番は残り5ステージ(9日の夜、10日の昼夜、11日の昼夜)。

チケットはもうないかもしれないが、もし、興味のある方は是非、お問合せを。そして当日券期待で劇場に足を運んでほしい。

問い合わせ先は↓

CoRichi舞台芸術 https://ticket.corich.jp/apply/236144/

私か高橋いさをさんか出演中の役者さんと面識がある方は、直接、私やいさをさんや役者さん宛にご連絡頂いてもOK。なんとかします。たぶん。

ちなみに私は10日の夜と千秋楽には劇場に行こうと思っていますが、もし、チケットが手に入らないようでしたら私の席をお譲りしますのでご遠慮なくお声をお掛けください(先着1名様限り。当たり前か)。

※作品の内容をここに書いてしまうのもなんなので、直近の舞台で私がAチームの役者さんたちに送った感想コメントを(別にAチームがいちばん面白いとか傑出しているというわけではありません。)↓

※もし、劇場に本作を観に行かれる人がいらっしゃれば、私が褒めちぎったポイントを役者さんたちがさらにどう昇華させていくか(あるいは退化させてしまうか)にご注目頂いて、見終わった後のご感想をお知らせ頂けると嬉しい限りです。

 

【to 長谷(幸将司)さん】

長谷の野獣性は見事でした。
原口から、「なんで弟だったの?」と問われ、それに答える場面ですね。
それまでの、善人(に生まれ変わった)らしい笑顔とのコントラスト、無表情と抑揚のない台詞回しだけで彼の中にある野獣性を表現し切ったのは見事の一言です。

【to  原口(虎玉大介)さん】

原口は先のアンケートにも書いたとおり「長谷に弟を殺され、国家権力に自分の心の一部を殺された二重被害者」だと私は捉えていますが、その二重被害がラストシーンの「長谷が吊るされる場面(音)」で全身で表現されていました。

ほぼ完璧だと思いました。

あと、名古屋弁。3人の中で最も固さが取れて、「自然な名古屋弁の親父」になり切ってました。

ラストシーンに力点を絞れた為に、そこに至るまでの感情変化に過大な演技を必要としなくなったからなのかなとも思います。

ちなみに、「ここも、ここも、もうすっかりオッサンだで」と髪に手をやる場面がありますが、原口の意図として「生え際も後退してまったし」と言いたいのか「白髪も増えてまってなぁ」と言いたいのかがよく分からなかったです。

後者ならもう少しメイクで白髪を目立たせた方がいいように思いました。

【to  岡本(江刺家伸雄)さん】

岡本のジレンマが全編通してヒシヒシと伝わってきました。

特に最後の長谷の死刑執行の場面で、岡本が直立不動になる演技をこれまでに比べて気持ち緩慢に抑えた上での、執行ボタンを押す刹那の心を引き裂かれる感情を指と背中で演じて、「刑務官岡本」と「壁の向こうにいる、原口と長谷の2人の友人となった岡本」の迷いと苦しみを表現し切ったのは、さすが役者!の一言に尽きます。

 


明けましておめでとうございますm(__)m

2023-01-01 00:00:00 | 日記

明けましておめでとうございます。

 

2023年元旦。

年賀状をお送りしている方(の何割か)は、このブログを見に来てくださっているのではないかと思う。

年賀状をお送りしていない方も、「さすがに新年だし、ブログくらい更新してるだろう」と久しぶりに覗きに来てくださっているかもしれぬ。

年賀状をお送りしていない方のためにご案内すると、今年の年賀状にはこんなことを書いた(↓)

『最近、年賀状のやり取りを取り止める方が増えて来たと聞きます。

年賀状ってNGルールがやたらうるさくて(喪中の方には年賀状を出しちゃいけないとか、出すのは大丈夫だとか、1月1日元旦と書くのは重複表現だからやめろとか、賀正、迎春は目上の方に失礼だとか、手書きで一言添えろとか)、「そんな面倒くさいこと言われて、忙しい年末に年賀状なんか書けるか!」と特に若い人が年賀状と縁を切りたくなるのも自然な流れかと思ったりします。しかも、年賀状のやり取りをしている大半の方とは昨年どころか一昨年もその前もそのまた前も、ずーっとお会いしていないわけで、そういう方々への近況報告にハガキ1枚で足りるか?って問題もあります。

そんなこんなで年賀状文化ってあと何年もつんだろう?と考えたりもしますが、天邪鬼なわたしは、礼を失しようが、手抜きだろうが、「日本で最後に年賀状を出した男」として歴史に名を残してみたいと思ったりもしています。

ご無沙汰している方々への近況報告ですが、昨年、保育士試験に合格しました。一発合格。えっへん。あと、Twitterのアカウント「弁護士平岩利文」は昨年末に削除しました。私にはまったく得るものがないツールであることが分かったので。オートバイで関東の道の駅を巡ってます。アコギ始めてみました。マリーゴールドとハルノヒとキセキとそれが大事とあと何曲か弾けるようになりました。米津玄師はまだ弾けません。この冬は週末苗場に籠ってアコギとスノボの腕を磨こうと画策中です。古い友人が急逝したり、病に倒れたりして、けっこう凹みました。…って、ほら、もう、全然、スペース足りないじゃん。そうか、年賀状かSNSかの二者択一とかケチ臭いこと言わないでHybridにすりゃいいのか。

ということで、もう少し詳しいわたしの近況に興味のある方限定。1月1日を目途(あくまでもメド)にブログを更新しとくのでそちらを読みに来てください。ブログのアドレスは本文末尾に。それも面倒だという方向けにQRコードも。

ああ、忘れてました。今年もどうぞよろしくお願いします。おっと、もう一つ忘れてました。手書きで一言も添えず申し訳ありません。』

 

わたしの近況報告は要約すれば上記のとおりなのだが、せっかくのブログなのでもう少し丁寧にご報告をさせて頂こうと思う。

 

保育士試験は年賀状にも書いたとおり一発合格だった。

受験勉強は一昨年の11月からユーキャンで。学科試験は4月だったから勉強期間は6ヶ月弱。




試験に合格後、保育士試験に限らず資格試験を目指している方から「どうやって勉強したんですか?」と勉強法を聞かれることが何度かあった。

わたしの勉強法がどこまで役に立つのか分からないけれど、保育士試験の勉強法(というか、資格試験の勉強法)については近日中に別記事でアップする予定なのでそちらをお読み頂くとして、ここでは勉強法ではなく、57歳にもなって何故、保育士の資格を取ろうと思い立ったかということを簡単に書いておこうと思う。

わたしが月1回くらいの頻度でゴルフをご一緒させて頂いているメンバーの中に、Y野さんという大先輩がいる。

Y野さんは某大手商社のOB。某大手商社を定年退職した後、「子どもが大好きだから」という、ただそれだけの理由で68歳にして保育士試験に合格され、今は(パートの)保育士さんをしておられる。

月1でお会いするY野さんは、

「いや~、先日、園庭で子どもと鬼ごっこしてたら筋肉痛になっちゃってさぁ。

だから今日はドライバー、まっすぐ飛ばないよ。

うわぁ。フォアーー--!」

と実に楽しそうである。


(Y野さんのティショット。ボールの行方は秘密)
 

わたしは、どちらかというと他人を尊敬したりする類の人間ではないのだが、Y野さんはそんなわたしが頭(こうべ)を垂れる数少ない人生の大先輩の一人である。

Y野さんのどこにすっ飛んでいくか分からないティショットを見るたびに、「あぁ、俺もこういう年の取り方をしたい」と思う(ティショットの方向ではなく、「第二の人生で保育士」という生き方の方)。

Y野さんに伺ったところ、保育士になるための国家試験は年齢による受験制限はないという。

受験科目は学科9科目+実技2分野と膨大だが、一度合格した学科科目は3年間有効。

試験は毎年、前期(4月)と後期(12月)の2回。

試験に最終合格すれば、保育士資格に有効期限や更新期限はなく生涯有効。

そこそこ高齢の男性保育士にもそれなりに需要があるらしい(実際、Y野さんが楽しそうに働いていらっしゃる。)。

わたしは、今は弁護士という仕事に就いているけれど、

「事案の理解力や分析力、洞察力、新しい知識の吸収力が衰える年齢になったら第一線からは退くべき。

死ぬまで弁護士という資格にしがみついて社会に迷惑をまき散らすべきではない。」

と常々思っている。

なので、いつか、

「う~む、俺ってそろそろヤバい?」

と思い始めたら弁護士業からは距離を置くつもりでいる。

距離を置くのはいいけれど、その後、何をしよう?と漠然と考えていたわたしにとって「保育士」という選択肢はメチャメチャ魅力的。

わたしもY野さんと同じく子ども大好きなので。

人生は、いくら稼いだかではなく、どれだけ大好きことをしながら生きられたかこそに意味があると思う。

しかし、Y野さんのように68歳から勉強を始めて保育士試験に合格できるか、俺?

いや、無理だろ、自分

顕微鏡で探しても自信も可能性も見当たらないわ、わたし

(Y野さんに比べれば)まだ若い今のうちに資格だけ取っておこう

 

うーむ、弁護士らしい論理的な思考と言わざるを得ませんな。まだしばらくは弁護士業は大丈夫ですな。

 

当初の計画通り保育士試験には無事、合格したので、8月からはアコースティックギターを始めてみた。


(YAMAHA FS820 for初心者)

アコギは中学2年の頃、少しだけかじった程度。

例によってFコードがうまく押さえられずすぐに嫌になって、あっという間に投げ出した黒歴史(?)があるが、今回は楽しく練習を続けている。

それはたぶん、あの頃と違って、「早く上手くならなきゃ」とか「同じクラスの●●より上手くなりたい」とか「かっこよくギター弾いて女の子にもてたい」とかいった気持ちが皆無だからだと思う。

「いや、別に俺がギター下手だろうが、上達が遅かろうが、コード進行間違えようが、誰に迷惑かけるわけでもなし。俺が楽しけりゃいいんじゃね?」

という、開き直りとも呼べるほどの諦観。

他人と比べるとか、「ギターを弾く」こととはなんの関係もない邪(よこしま)な下心を捨て去ると、音楽ってこんなに楽しいものなんだ。

昨年のサッカーW杯のみずほ銀行の応援CMで使われていたのは、わたしが20代の頃、流行っていた大事MANブラザーズバンドの「それが大事」だった。


(みずほ銀行CM「届け、僕らの代表へ」より)

 

CM見て涙が出るほど感動した。メインバンクはみずほにしようかと本気で考えた(でもしてないけど)。

もしかして俺って、ものすごくチョロい人間なんじゃないか?

今年中学受験をする秘書ちゃんの息子や、来年高校受験をするわたしの次男への応援歌として、下手なアコギをかき鳴らしながら「それが大事」を歌うと、もう感動の嵐である。俺が。


(熱唱by俺at事務所on仕事中)

別に文部科学省に盾突く気はないけど、学校の音楽の授業って、なんでこういう音楽の楽しさを教えてくれないんだろうと思う。

ベートーベンはどのような人生を送った作曲家ですかとか、ショパンが作曲したピアノ曲を次の5つの中から選びなさいとか、以下の5つの楽器を管楽器と弦楽器と打楽器に分類しなさいとか、合唱コンクールでは音程を外さないようにして歌いなさいとか。

そういうの、別にどうでもよくね?

あいみょんをかじり、スピッツをかじり、Greeenをかじり、大事MANブラザーズバンドをかじり、あちこち食い散らかして今は情熱大陸を必死に練習中でござる。

再来年くらいには上手く弾けるようになるかしらん。

 

昨年は楽しいことばかりではなく、対人関係では不運続きの1年でもあった。

思い出したくもないので詳しくは書かないけど、

「普通に生きてても、いきなり狂人に殴りかかられることってあるんだ」

と身をもって体験させて頂いた。

いや、ほんと、ありがとうございました。

 

ありがたくない話もある。

わたしと同い年の古い友人が他界した。

もっとたくさん舞台を作りたかったはずだ。

やり残した企画が山ほどあったはずである。

名演劇プロデューサー・綿貫凛。享年58。

 

同じく長い付き合いの友人には重い病気が見つかった。彼は今、必死に闘病中である。

たくさんのお客さんに愛されている彼の珈琲豆焙煎店は彼の治療の合間を縫っての営業だ。

彼が退院して店を開けているときは、わずかながらでも、治療費や店舗や自宅の家賃の足しになればと、できる限り珈琲豆を買いに行くようにしている。

彼が焙煎した珈琲豆は非常に美味い。ネクスト法律事務所でお客様に出している珈琲は彼の店で買った豆で淹れている。

お店が彼の体調と相談しながらの不定期営業になってしまっているのが辛いところだが、もし、

「そういうことなら俺(私)も珈琲豆、買うちゃる!」

という方がいらっしゃったらわたしまで連絡を。彼が店を開けた時、わたしが代理で買い付けてお届けします。

 

話は変わるけど、3年ほど情報発信ツールとして使っていたTwitterのアカウントを昨年末で削除した。

Twitterのような匿名性の高いSNSの功罪については賛否両論あると思うけど、少なくともわたしにとってはTwitterの投稿が私の人生に役に立ったことも、感銘を与えてくれたことも、ほとんどなかった。

無責任な誹謗中傷。

Face to Faceでなら決して聞くことのない聞くに堪えない悪口雑言。

根拠のない思い込みだけの断定的な意見。

意味不明の陰謀論。

自分が発した言葉の先にいる人の気持ちとか生活とか生き方とかを1ミリも考えずに紡ぎ出される言葉。

これって、なんかデジャブだ。

と思っていたけど、先日、ようやく気づいた。

駅のガード下とか、地下街とかでしばしば見かける、誰に対するでもなくずーっとブツブツブツブツ独り言を喋り続けてる人とか、「てめぇ、この野郎!」とか「殺すぞ、くらぁ!」と誰に怒ってるのか分からないけどいきなり叫び出すあの人たちだ。

相手の存在に何の敬意も払わない、一方的で、無責任で、Factもくそもなく垂れ流される言葉の世界。

あぁ、こんなコミュニケーションと呼ぶに値しない言葉を読んでいる時間がもったいない。

こんな言葉に一喜一憂しそうになってる自分がもったいない。

Twitterに限らず、Facebookも、Instagramも、言ってみればこのブログだって同じようなものだとも思うけれど、少なくともこのブログではできる限り丁寧に、できる限り傷つく人がいないように、注意を払って情報を発信するようにしている。

だから必然的に文字数は多くなり、文章は長くなる。

140文字で同じ表現をすることは、わたしの乏しい文章力では到底無理だとわかったのもTwitterと縁を切ることに決めた理由の一つである。

わたしのTwitterアカウントをフォローしてくださっていた方、どーもすいません。

この空の下、世界はどこまでも広がっているのに。


(@ビーナスライン)

日本にはまだ見たことのない、息を呑むように美しい風景がたくさんあるのに。


(@市原市)

あと何年生きられるのか、あと何ヶ所オートバイで美しい風景を見に行けるのか、あと何曲アコギで弾けるようになるのか分からないから、今年のテーマは、そして今年以降もずーっと、これだ。

今日が人生最後の1日だと思って全力で生きよう。

限られた時間とエネルギーは、自分を不愉快にする人間や誰かを傷つける人間のためにではなく、大好きな人や大切な友人のためにだけ使おう。

 

みなさん。今年もよろしくお願いいたします。

 

 


天国のサンタによろしく(見出し画像はありし日のサンタ)

2022-10-13 21:42:00 | 日記
昨日(というか時間的には既に今日)、出張から戻ってきたのは深夜1時過ぎ。
自宅のすぐそばまで来たとき、アスファルトの路上に雨に濡れて猫がちょこんと座っているのが見えた。
私の車が近づいても逃げようともしない。
猫を避けて10mほど進んだところで車を停めて、猫の様子を見に戻った。
痩せこけて、生気のない目。でも、昔、我が家で飼っていた猫サンタにそっくりの毛色。

雨に濡れないように近くの家の軒下の植え込みの陰に移動させてから家に帰ったけれど、風呂に入っている間も、どうにもこうにもあの猫のことが気になって落ち着かず、風呂から出て再び猫の所に。
猫は、私が移動させてやった植え込みの陰から這うように抜け出して、道路の同じ場所に、今度は横たわっていた。もう、体を支えて座っている体力も残っていないようだった。

深夜2時。
獣医さんに連れて行くこともできないので、とりあえず朝まで自宅で保護して、後のことはそれから考えようと手を伸ばした私に、猫は、最後の力を振り絞るように首を少しだけ持ち上げてフーッと威嚇してきた。

あぁ、そうか。
お前はちゃんと自分の死期がわかってるんだな。
何故だか俺にはわからないけど、この場所を自分の死に場所に決めたんだな。
お節介で無責任な人間風情が俺様の死ぬ邪魔をするなと言ってるんだな。

とはいえ、このままでは車に轢かれてしまうかもしれない。それはこの猫の望む逝き方ではないように思う。
雨も止みかけていたので、持っていたビニール傘を開いて猫の上に被せて、持っていたタオルを掛けてその場から離れた。
道路に開いて置かれたビニール傘は遠くからでも目立つから、ドライバーは猫を避けてくれるだろう。雨がまた降り始めても、少しの間ならビニール傘は猫の体を守ってくれるだろう。

今朝。
出勤前に猫の所に行くと、近くにいた工事現場のおじさんが私に声を掛けてきた。
「その猫、もう死んでるよ。かわいそうだから触っちゃダメだよ」

でも、猫はまだ生きていた。
もう、注意して見ないとわからないくらい呼吸は弱々しくなっていたけど。
もう、お節介な私を威嚇する力も残ってはいなかったけど。

私が被せたビニール傘は、風で飛んで行かないように、誰かが柄の部分を石で固定してくれていた。
私が掛けたタオル以外に何枚も別のタオルが猫に掛けられていた。



たくさんの人たちが、猫が安らかに逝けるように、せめて最期の時には人間の温もりに包まれて逝けるように、何処かから傘を押さえる石を持ってきたり、家に戻ってタオルを持ってきたりしてくれたんだ。
私だけじゃなかったんだ。
そう思ったら涙が出てきた。
練馬は、もしかしたら、とんでもなく優しい街なのではないかと思った。

仕事場に向かうために、私はすぐにその場を離れたけれど、猫は、たぶん、それから少しして天国に行ったのだと思う。さっき、猫がいた場所に行ってみたら、もう、猫の姿はなくなっていて、閉じたビニール傘と数枚のタオルが雨に濡れていたから。



おーい、猫。
天国に行ったら、俺が昔、飼っていたサンタによろしくな。
お前とそっくりの毛並みの、甘えん坊の雄猫が天国にいたら、それがサンタだよ。

キャベツ畑は遥か遠く2

2022-06-22 01:39:00 | 日記
新聞奨学生の生活は過酷だ。
きっと今でも同じはずだ

毎日午前4時起床。
寮から歩いて5分の新聞販売所に行って、その日の折込チラシを手作業で新聞に挟み込んで、午前5時くらいから配達が始まる。
雨が降ろうと雪が降ろうと。

12時間後には夕刊の配達がある。
朝刊と違って折込チラシもないし、朝刊購読だけの家もあるので朝に比べれば楽なのだけれど、これまた配達は猛暑日だろうとなんだろうと関係ない。
なので、学校の授業が終わって友人たちとちょっとお茶でも・・・ということすら新聞奨学生には許されない。

そんな生活をしつつ、東京に出てきて最初の夏。僕は中型二輪の免許を取った。
同じ寮の2階にいた1年上の新聞奨学生の平山さん(下の名前は忘れてしまった。たしか中央大学法学部を目指している浪人生だった)は大のバイク好きで、ヤマハだかカワサキだか忘れてしまったけれど愛車はいつも丁寧に磨きあげられた400ccだった。たまに横浜や茅ヶ崎までタンデムで連れて行ってもらったりもした。
中学、高校と読み続けていた片岡義男は相変わらず僕のバイブルだった。
金があるとかないとかじゃなくて、あの当時の僕が中型二輪の免許を取ったのは、もう必然以外のなにものでもなかった。
金がないので公認の(つまりそこを卒業すれば運転免許試験場での実技試験が免除される)教習所には行けない。
平山さんが教えてくれた未公認の教習所に行って練習した。KM自動車教習所という名前だった。
鮫洲の運転免許試験場と全く同じに作られた荒川の河川敷の練習コースで、1時間2500円くらいの練習料を払って実技試験の練習をする(正確な金額は忘れた。もっと安かったかもしれない)。20回練習に通っても1回2500円なら50000円だから公認の教習所に行くよりは安い(ちなみに僕はその後、限定解除の免許も同じKM自動車教習所で練習して取った)。
2度目の試験で合格して、無理をしてローンを組みヤマハのXJ400を買った。嬉しくて毎晩、平山さんと都内を走り回っていた。

入学した専門学校(※日本ジャーナリスト専門学校=ジャナ専)の授業はつまらなくて三日で飽きてしまった。最低限の単位を取るためにしか顔を出さなくなった僕にとっては、平山さんとXJ400だけが友だちだった。
当時のXJ400はいくらだったのだろう。
今、ネットの中古車サイトを見てみたら200万とかで売られているらしい。確かに名車の部類に入るバイクだけれど、キチガイじみた値段だとしか思えない。少なくともあの頃の僕のような、ただただオートバイが好きなだけの貧乏青年がおいそれと手を出せるような値段ではなくなってしまった。

当時の値段は忘れてしまったけれど、僕は憧れのXJ400と引き換えに数十万円の借金も背負った。
前回の記事で書いたとおり所長は競馬狂い。
給料は遅れる。
親からの仕送りはない。
たまにキャベツやパンを盗んで飢えを凌ぐ。
焦っていたのだろう。
とにかく金が欲しかった。

そんな僕に小学校から高校まで一緒で、早稲田大学に入っていたSから連絡があった。
金になる話がある、という。
参加する人間は多いほどいいから、他にも声を掛けろ、という。
僕は同じジャナ専に通っていた、同じサンケイ新聞の新聞奨学生だったKちゃん(男)と、毎朝、配達途中の平和台の団地で顔を合わせていた朝日新聞の新聞奨学生のAちゃん(女)を誘った。
「俺の幼なじみの早稲田に行ってる信用できる奴の話だから」と声を掛けて、3人でSに連れられて新宿にある説明会場に行った。
会場には僕と同じようにSに誘われたのだろう、Sと同じく小学校から高校まで一緒だったHの姿もあった。仲の良かったHの顔を見て、さらに僕は安心した。

説明会場では高そうなスーツを着た男が、35万円の羽毛布団の購入を僕らに勧めてきた。
高級スーツを着た詐欺師が言った。

35万円で羽毛布団を買ってほしい。
分割払いを希望するなら信販会社もこちらで用意する。
羽毛布団を1セット買えば、君たちは「小売店」としての資格を手にできる。
「小売店」が誰かに羽毛布団を販売すれば、10%の売上手数料を貰える、という。
2人以上のカモに羽毛布団を売りつければ「小売店」は「代理店」に格上げされる、という。
「代理店」の売上手数料の率は8%に下がるけれど、自分が羽毛布団を売りつけた2人の「小売店」が、それぞれ新たな2名に羽毛布団を売りつければ、その「小売店」は「代理店」に昇格、「代理店」は「統括代理店」に昇格できる。
最初に自分が羽毛布団を売りつけた2名のその先の2名のそのまた先の2名の・・・、彼らが羽毛布団を誰かに売りつけるたびに君たちには売上手数料が支払われる。「統括代理店」「代理店」「小売店」の組織がうまく回り始めれば月収100万も夢ではない。

正確な金額と手数料のパーセンテージは忘れてしまったけれど、要するにマルチ商法の勧誘だった。

地方から出て来たばかりの、世間知らずで、貧乏で、頭の悪い僕らには、それがどれだけ破滅的な、馬鹿馬鹿しいくらいのインチキ商法なのかわからなかった。
小学校以来の幼なじみで、僕が大好きだった片岡義男の母校でもある早稲田に通っていたS。
彼が僕や僕の友だちを嵌(は)めるなんて考えもしなかった。

Sの実家は、母親が小学4年生だった僕を連れて親父と別居を始めたときに最初に住んだ三郷(さんごう)のボロ家の近くにあった。3階建ての立派な家だった。
3階にあったSの勉強部屋は8畳かそれ以上あって、僕と母親が寝ていた部屋より遥かに広く、そして綺麗だった。
家が近所ということもあって、Sはよく僕と遊んでくれた。
中学3年のときは同じクラスにもなったが、何故か、Sはヤンチャな不良少年グループのYやMから蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていた。
不思議に思いつつも、寂しかった小学校時代にそばにいてくれたSを僕は友だちだと思い続けていた。
今から思えば、YやMは、鼻持ちならないSのインチキ臭さを不良少年の多くが備えている独特の嗅覚で感じ取っていたのだと思う。
僕はそんなYやMの嗅覚をこそ信じるべきだったのだ、とも思う。

僕とKちゃんとAちゃんとHに羽毛布団を売りつけたSにどれだけの「販売手数料」が入ったのかは知らない。興味もない。

そして僕とKちゃんとAちゃんは、羽毛布団のローンだけを背負(しょ)い込んだ。
「その日暮らし」を地で行くような貧乏な新聞奨学生たちが、だ。

昨年、ジャナ専の同期だったMさんから誘われて同期生の飲み会に初めて参加した。
まともに学校に行かなかった(卒業式の日でさえ、高田馬場の雀荘で麻雀を打っていた)僕は、正直、名前を名乗られても誰が誰やらさっぱりわからなかったけれど、Kちゃんの話題が出たとき、僕は凍りついた。

「そう言えばKちゃんてさ、ある時期から学校で狂ったようにみんなに羽毛布団売りつけようとしてたよね。あれ、ちょっとひいたわ」

「そのきっかけを作ったのは僕だ」と告白して、Kちゃんと今でも連絡を取っているのか、と飲み会に出ていたメンバーに聞いてみたが、誰もKちゃんが今、何処にいるのか、何をしているのか知らなかった。
そもそもジャナ専を卒業した後、Kちゃんが何処に行ったのかすら誰も知らなかった。

Sはその後、早稲田を卒業し、今では東海地方の某サッカー関係の団体のトップをつとめている。
故郷に帰って高校時代の仲間と会うと、みんなは口を揃えて「俺たちの同期の出世頭はやっぱりSだよなぁ」という。
「あいつ、この前、ポルシェに乗ってたぜ」とも聞いた。

しかし、僕にとってSは友だちだったが、彼にとって僕は金づるの一人に過ぎなかった。
自分が友だちだと思っていても、相手も自分のことを友だちと思ってくれているとは限らないこと。
世の中にうまい話などありはしないこと。
おいしい儲け話を持ちかけられたら、最初に「自分はそんな儲け話を教えてもらえるほどたいした人間なのか?」と必ず自問自答しなければならない、ということ。
それを怠って甘い餌(えさ)に食いついて地獄を見たとしても、それは全部、自分の責任なのだということ。
友情も、人間関係も、思い出も、平気で金に換算できる種類の人間が、自分のすぐ身近にもいるということ。
そういうことをすべてSは僕に教えてくれた。

いつかSを八つ裂きにしてKちゃんとAちゃんに謝らなければ、と思い続けてきた。
今もそう思っている。

僕は一生、Sという人間を許すことはない。

Kちゃん。達者でやってるかい?
あの時、よく調べもしないでSの口車に乗って説明会場に誘ったりして悪かったなぁ。

Kちゃんと一緒に説明会場に誘ってしまったAちゃんのその後も僕は知らない。
故郷の彼氏とは遠距離恋愛だと話していた。
月に一度だけデートをするんだと嬉しそうに話していた。
そして彼氏から貰ったというペンダントをいつも首にかけていた。
僕が知っている、これがAちゃんのすべてだ。
Aちゃん。あのときの彼氏とはちゃんと結婚できたかい?

僕は今、40年前に朝夕、サンケイ新聞を配達していたエリアのすぐ近くに住んでいる。
競馬狂いの所長のいた販売所はとっくに潰れた。
僕がパンを盗んだパン屋さんもとっくになくなった。
それでも。
散歩の途中で、僅かに残ったキャベツ畑を見るたびに、僕はKちゃんとAちゃんを思い出すのだ。
上州弁を直そうともせず、ジャナ専の学食で笑っていたKちゃんを思い出すのだ。
夏の日の早朝、健康的な身体をTシャツに包んで、「平岩さーん、おたがい頑張ろー」と手を振ってくれたAちゃんの声を思い出すのだ。
そして、早朝の、あるいは夕暮れの街を、自転車で走り抜けていく若い新聞配達を見るたびに、「どんなに貧乏で今が苦しくても、大切な友だちを不幸にするような取り返しのつかない失敗だけはするなよー」と声を掛けたくなってしまうのだ。

そんなことを言える立場ではないことは百も承知だけれど、僕が死ぬまでSを許さないように、KちゃんとAちゃんも僕を死ぬまで恨んで、けれど、忘れないで覚えていてくれるといいな、と思う。

どんなにキャベツ畑の記憶が遥か遠くに薄れようとも。