つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

ダルニー基金

2014-12-26 12:53:45 | 子育て

本来であれば、この記事は昨日(クリスマス)、投稿予定であった。

まったく、エセ職人どもは私の善なる心の投稿まで引っ掻き回していきやがる。

 

というわけで、ダルニー基金である。詳細はHPを確認されたい↓

http://www.minsai.org/activities/darunee

 

数年前、赤坂公証役場に置かれていたパンフレットで知った。

タイとラオスの子どもたちは、10,000円で1年間学校に通えるという(※当時。今は物価変動や事務局の経費高騰で1年14,400円に値上がりした。)。

1年(わずか)14,400円である。

赤坂や歌舞伎町のオネーチャンのいる店で、オネーチャンの胸の谷間やミニスカートの奥にチラ見えるパンツを肴に酒を飲んでも軽く5万~10万円だ。しかも、その5万~10万円は泥酔した私のゲロ以外、何もこの世に残さないし、そこから未来への希望が生まれ出ることもない。オネーチャンの乳見てゲロ吐いて10万円。タイやラオスの子どもたちに同額を送れば3人の子どもが3年間、学校に通える。

 

「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン。それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。」

とマララさんは言った。

私もその通りだと思う。

「勉強したい」と願う子どもたちに教育の機会を与えないのは我々大人たちの罪だ。

子どもたちの未来を奪うという、もっとも許されざる大罪である。その子どもの性別も、年齢も、国籍も関係ない。

 

数年前から私はこのダルニー基金に募金をしている。何人かのタイとラオスの子どもたちは、私が送った微々たる奨学金で学校を卒業し、社会人になった。

事務所には、ダルニー基金用の100円玉プレートも設置してある。100円玉が100枚入るので、これがいっぱいになったら1人の子どもが1年間学校に通える。

事務所独立とほぼ同時に会議室に設置したのだが、このたび、めでたくいっぱいになった↓

 

本日、早速、ダルニー基金に送金手続きを取った。この100枚の100円玉は1人のカンボジアの小学生の1年間の学費に使われることになる。

ちなみに、上記100枚のうち、50枚くらいは顧問先I社の岩崎社長の募金である。この1年間、岩崎さんは打ち合わせに来られるたびに小銭入れの中の100円玉をプレートに差し込んでお帰りになった。カンボジアの小学生に代わって、岩崎さんにはこの場を借りてお礼を申し上げる。

暫く個人的な募金が中断していたので、併せて、タイのこども1人を卒業までの3年間、支援する募金登録もしておいた。

 

ところで。

今年、「アイス・バケツ・チャレンジ」という募金活動が流行った。筋萎縮性側索硬化症 (ALS)の研究支援の募金のために、頭から氷水をかぶるか募金をするかを選ぶ、というヤツ。

世間が飽きたニュースをマスコミが取り上げることはないので、今も継続しているのかどうか、残念ながら分からない。

ただ、「アイス・バケツ・チャレンジ」が世間の耳目を集め、芸能人や政治家が嬉々として氷水をかぶっているニュース映像を見るたびに、私としては、「なんだかなぁ」と違和感を覚え続けていた。

別にALS研究への活動支援を否定する気はまったくない。実際、私の親友Tの父上もALSでお亡くなりになっている。ALSの研究が進んで1日も早く特効薬が開発されればいいのに、と思う。

ただ、それはそれとして、「アイス・バケツ・チャレンジ」については、なんだかなぁ、だ。

そんな中、タレントの武井壮さんが「アイス・バケツ・チャレンジ」の指名を受けたにもかかわらず、これを拒否したことがちょっとしたニュースになった。

武井壮さんの言い分はこうである。

「ALSという病気に焦点を当てて募金活動をすることは素晴らしいと思うが、自分は毎月頂く給料の中から募金をしている。今後も募金活動は続けるが、その募金先は自分の判断で選びたい。」

武井壮、かっこいいじゃないか!

その通りである。

募金というのは、人から強制されてするものではない。たとえ、それがはっきりと「強制」という形を取っていなくても、募金を求められた者が事実上、それを拒めないような状況に置かれるなら、それは強制である。

強制的に人にお金を払わせるのは募金とはいわない。それは徴税である。

武井壮さんの言葉で私が「アイス・バケツ・チャレンジ」に抱いていた「なんだかなぁ」の実体が分かった気がした。

あの頃、マスコミが狂ったように「アイス・バケツ・チャレンジ」を持ち上げる中で、いつの間にか、誰の心にも、「指名されたら断れない」という楔(くさび)が打ち込まれていた。それはとても小さな楔だったし、もしかしたら幻覚だったかもしれないが、その楔が打ち込まれた瞬間(打ち込んだのは物事の本質を考慮することなく、なんでもお祭り騒ぎにしてしまわないと気が済まないマスコミの連中だ)、「アイス・バケツ・チャレンジ」という小舟は、当初の目的だった「善意なる募金」の舫(もやい)を断ち切られ、「半強制的なお祭り騒ぎ」の荒海に放り出されてしまった。

武井壮というタレントを私はこれまであまり好きではなかったが、以来、私は武井壮さんの大ファンである。

 

なので、このブログを読んだ方に「ダルニー基金に募金せよ」と強いる気はまったくない。

まったくないが、あなたが新年会でゲロに変えるかもしれない14,400円をタイかラオスかカンボジアかベトナムかミャンマーの子どもに送って頂ければ、この泥にまみれ、荒みきったブログも少しは救われるような気がする。

 

ちなみに、私は「ダルニー基金」以外に「ユニセフ」と「国境なき医師団」にも毎月募金をしている。

この記事は、冒頭書いたように本来、クリスマスに投稿する予定だった。

なので、最後にちょっとだけクサイことを書く。

世界中の軍隊を持っている全ての国々が、1年に1日だけ、自国の軍備費の1%を世界中の貧しい子どもたちの教育資金に回せば、子どもたちの貧困問題も教育問題も健康問題も瞬時に解決して、お釣りがくる。

わずか1%である。

人を殺すためのミサイルに使う100万ドルを、1年に1日だけ、子どもたちの未来に使ってはもらえないだろうか。

人は人を殺戮するための武器を作り出す手を持っているけれど、その同じ手で、子どもたちに学校を、教科書を、鉛筆やノートを、渡してやることだってできるはずだ。

少なくとも私はそう信じている。

だから、そういうことを考え、声に出し、走り、実行する政治家が、いつの日か出てくることを願う。

それは、現代においてもっとも子どもたちが待ちこがれ、必要としているサンタクロースである。

 


「職人」の意味を問う

2014-12-25 11:41:37 | 日記

以前、このブログに、「私は職人好きである」と書いた。

以下は、ここ数ヶ月の間の出来事である。

 

我が家は築15年。そろそろ外壁塗装の時期である。

我が家はヘーベルハウスなので、必然的に(いや、別に必然ではないが、何となく流れで)旭化成リフォームさんに外壁塗装の見積もりを出してもらい、工事や色の打ち合わせ等を重ねている。

旭化成リフォームさんの担当者は迫間さんという。非常に好青年である。

仕事も一生懸命してくれる。私の我が儘な要求に嫌な顔一つ見せずに対応してくれる。私の素人じみた質問に対するレスポンスも丁寧でかつ早い。

世間では、「旭化成は高い」との評判も聞くが、ここまで担当者が一生懸命やってくれているのであれば、相応の報酬を支払ってもいいのではないか、と思ったりする。

思ったりはするのだが、外壁塗装は300万以上かかるとの見積もりが出てきており、「もう少し安くなんない?」と迫間さんに泣きついてみたりもしているヘタレな私である。

 

ところで、我が家の浴室の入口扉の下のゴムパッキンと浴室出窓の窓枠コーキングも、築15年を経てかなりヘタってボロボロになってきているので、この際、まとめて旭化成リフォームさんに直してもらおうと、こちらの修理見積もりも依頼した。

迫間好青年の目算では

「まぁ、かかっても2~3万円くらいだと思います。」

とのことだった。

浴室のゴムパッキンとコーキングの修理は旭化成グループではあるものの、迫間さんの所属する旭化成リフォームとは別会社(旭化成ホームズ)が担当するとのことで、後日、旭化成ホームズ(から指示された下請けさん)が下見に来てくれることになった。

ここまでは迫間さんの段取りである。問題もなかった。

問題はその後である。

下見に来られる予定日は平日である。時間は当初、

「15時くらいを予定していますが、前の現場の関係で16時くらいになってしまうかもしれません。」

とのことだった。

私が下見に立ち会った方が話が早いので、仕事のスケジュールをやりくりして16時少し前には自宅に戻れるように段取りし、

「では、いっそ16時でお願いします。」

と迫間さんに伝える。

当日。15時に事務所を出て自宅に向かおうとしていた私の携帯に妻からメールが。

「旭化成の人、もういらして下見して帰ったよ。」

 

へっ?

何かの手違いか? しかし、クソ忙しいスケジュールを調整したのは何のためだったんだ? と多少イラッとはしたものの、「迫間さんが悪いわけでもないしなぁ。よくある伝言ミスだろ。」と思い直す。

後日送られてきた見積書の金額は10数万円であった。

しかも、「浴室入口扉全体の交換」と、頼んでもいない項目まで入っている(ちなみに、この項目が一番高い。これを除けば、ほぼ迫間さんが言っていた2~3万円で済む工事である。)。

その上、ご丁寧に「依頼するなら同封の注文書を郵送しろ」との手紙まで入っている。

「何故、頼んでもいない浴室入口扉まで交換する見積もりを出したのか。」「何故、頼んでもいない工事まで組み込まれた注文書を送るか否かの二者択一を迫るのか。」についての説明は一言もない。

後で迫間さんに調べて貰ったところ、現場下見に立ち会った私の妻が「扉も汚くなっちゃって」と気にしていたので、扉交換も項目に加えました、とのこと。

ふざけるな。

 

実は旭化成ホームズ(と、この辺から呼び捨て)の浴室修理には今年初めにも苦い経験をさせられている。

昨年、浴室入口扉の戸車が壊れた。

旭化成ホームズに電話すると、すぐに下請け業者さんを寄越してくれた。修理時間も数分。

数日経って、費用の請求書が送られてきたのですぐに入金した。

ところが、今年3月頃、

「昨年の浴室入口扉の戸車修理費用が未払いなので、すぐに払ってくれ。」と、下請け業者さんから手紙(督促状ともいう)が。

入金したかどうかもすっかり忘れていたので慌てて振込手続きを取ろうとして、ふと、通帳を確かめてみると・・・、ちゃんと支払ってるじゃないか。

「何かの手違いだろう。」と何度かその下請け業者さんに電話連絡を試みるもつながらぬ。

ようやく、数日後に電話がつながった。

私:「あの、督促状頂いたんですけど、昨年、修理して頂いた直後にお支払いしてますが・・・」

下請け業者:「ああそうですか。分かりました」

・・・「分かりました」じゃなくて、「お手数かけて誠に申し訳ありませんでした」じゃねーの?

そういう経緯もあったので、旭化成関係の(水回り)下請け業者さんはもはや信用できない。

迫間さんには、「浴室のゴムパッキンとコーキングの修理はこちらで業者を探すから」と伝える。

恐縮して、平謝りの迫間さん。いや、迫間さんのエラーじゃないから、そんなに謝らなくてもいいっすよ。

 

というわけで、ポストに入っていたチラシからいくつかの業者さんを選んで電話をしてみる。

1社目。地元の丸平建設さん。チラシには「小さなことでもご相談ください。」とある。社長はゴルフ好きとのことだ。おぉ、同好の士ではないか!

電話したら、社長さんが速攻で自転車で駆けつけてくださった。

事情を説明して、見積もりを出して欲しい旨、伝える。

数日後、社長さんから連絡があり、

「メーカーと直接話して貰った方が費用も安く済むので、メーカーのサービス担当から直接連絡させます。」

 

更に数日後。トクラスのサービス担当から電話が。

「で、商品番号は分かりましたか?」

へっ?? 何の話??

「修理対象の商品番号が分からないと訪問が二度手間になってしまう上に費用も高くなってしまうので、商品番号を調べて連絡してくれるよう、お願いしておいたんですが。」

って、そんなこと一言も聞いてねーし。

携帯片手に色々調べて見るも、商品番号は分からず。

ついには、トクラスの担当者から

「いつ購入されたんですか? そもそも丸平建設さんで購入された商品ですか?」

と、根ほり葉ほり質問攻めに。

休日の朝である。下のチビが

「早くとしまえんに連れて行け~、連れて行け~」

と妖怪のようにまとわりついてくる状況下での尋問である。

・・・現場見てもらって、見積もり貰って、修理して欲しいだけなんだけど、俺。

なんだか、ばかばかしくなってきて、「現場を見に来ても頂けないんなら、もう、けっこうです。」と電話を叩き切る。

 

次に電話したのが、練馬を中心に職人が集まって結成している、という「職人グループ住宅」

大手の建設会社に依頼するより中間マージンがかからないから費用が安い、職人が直接お話をさせて頂くので安心・丁寧、とのチラシのふれこみである。

電話をしたら、「代表」のあらかわ氏が早速見に来てくれた。

これまでの事情を話して見積もりを出して欲しい旨、依頼する。

「分かりました。住所も分かっているので郵送するか、ポストに入れておきます」と代表。

・・・・・10日間待ったが連絡はない。

12月22日。しびれを切らしてこちらから電話をする。

代表:「あぁ、25日の9時30分に職人を作業に行かせますよ。」

・・・へっ?

まだ、見積金額も聞いてないし、依頼もした覚えないんだけど。

問い質すと、

「たいした金額じゃないから見積もりなんかいちいち出さない。我々の世界は口約束が一般だから。」

 

ちょっと、待て。

たいした金額か否かは発注者の私が判断することじゃないのか?

そもそも「見積もりを出す」と約束したのはおめぇーの方だろ?

結局、9時30分は困るので、14時頃に来て欲しいと申し入れる。

で、今日。

先ほど9時43分に妻からメールが。

「お風呂の工事始まってるよ。」

 

「代表」あらかわ氏に電話をして、「約束の時間と違う」と文句を言ったところ、

「この年末の忙しい時期に、いちいち、そんなことにかまってられるか」

ときた。

ちなみに我が家では23日からインフルエンザA型を発症した長男が静養中である。

一連のクソ職人相手の騒動で初めて殺意を覚えた。

 

てめぇ-ら、いい加減にしろ。

 

私が間違っているのか?

現場を見て貰って、見積もりを出してもらって、納得したら工事をお願いして、約束した日時に来て、きちんとした工事をして欲しい、というのはそんなに我が儘で非常識なリクエストか?

 

私はいかれたクレーマーなのか?

敬愛する三浦しをんさんは、「まほろ駅前狂騒曲」で行天春彦に

「正しいと感じることをする。でも、正しいと感じる自分が本当に正しいのか疑う。」

と言わしめた。

繰り返される苛立ちに、自分の正気を疑い始めた今日この頃である。

 


10 Antsの会

2014-12-10 13:32:24 | 日記

以前、このブログで顧問先のT社長のことを書いた。

「ありがとう」という言葉が日常生活の一部となってその身体に溶け込んでいる素晴らしいオヤジである。

 

このブログの数少ない読者であり、私の顧問先の日本支社の担当者であり、私の数少ないサーフィン(同レベル)仲間でもあるK氏と先日、九十九里に早朝サーフィンに行った。

帰り道、車内でT社長の話題になり、

「やっぱ、俺たち若者は(私は若くないが)、ああいうソンケーできるオヤジの生き様を真似なきゃダメだよな」

ということで意見の一致をみた。

というわけで、K氏と二人で「10 Antsの会」を結成した。

「10 Ants」=10匹のアリ=アリが10匹=ありがとう=ありがとうの会、である。

「若者」におよそ似つかわしくないこのオヤジギャグ的なネーミングはいかがなものか。

会則は1条のみである。

「毎日、必ず、10回以上、誰かにありがとうと言おう」

それだけ。

 

ちなみに、K氏と罰則も作った。

「ありがとう」と10回言えなかった日は、言えなかった回数に応じて1回あたり100円の罰金を積み立てること。

その積み立てた罰金で年末とかに忘年会と称して呑む。

現在、会員は私とK氏2名だけだが、K氏の勤務するA社日本支社は支社丸ごと法人会員として強制認定してやった。

名誉会長はもちろんT社長である。報酬はない。とういうより承諾も取り付けていないが、大丈夫。T社長のことだから、きっと、

「そんな大役を仰せつかっちゃって。いや、ありがとうございます。」

と仰るに決まっておる。

 

会の中に個別部会も作ろうかと思う。

今のところ、K氏と「サーフィン部会」は結成した。

あと、私しか部会員がいないのが難点だが、「映画鑑賞部会」と「落語鑑賞部会」と「合コン部会」もある。

 

会員が2人きり、というのは寂しいので、来年末には正会員1000名、準会員5000名、準構成員2000名(ヤクザか!)、支部長10名、特攻隊長1名(ボーソー族?)くらいの規模にはしたいと思うのだが如何だろう。

日本中で約8000名の人間が必ず1日10回、「ありがとう」と言っていたら日本も少しは騒がしく・・・じゃなかった、住みやすくなるのではないかと思うのだが。

 

なんだか将来の衆議院議員選挙を見越した狂信的グループ結成みたいな感じもするが、全然関係ない。

初代会長(私)の権限で、会則に第2条を追加する。

「会を利用した政治的・宗教的活動は一切禁止」

 

PS:会員ナンバー2番のK、いつになったらギックリ腰を治してサーフィンを再開するのだ? 連絡を待つ。

 

 


ともだちになるために

2014-12-09 11:55:14 | 子育て

先週の土曜日(12月6日)は下のチビの幼稚園の発表会であった。

 

下のチビが通っている(ちなみに上のチビも通っていた)練馬区のK幼稚園の基本的な教育方針は「こどもたちを信じる」ということに尽きる。

最近流行の英会話も、お受験対策も、K幼稚園では皆無である。

こどもたちは日々、いかに美しい泥団子を作るかに没頭している。

保育士さんたちは、こどもたちの手助けはするが、こどもたちに命令はしない。

手を差し伸べるが、手を引っ張ったりはしない。

注意はするが、怒らない。

こどもを信じて、ただ寄り添う。

何も足さず、何も引かない。なんだか、どこかのウィスキーのキャッチコピーみたいだ。

したがって、発表会の出し物も、こどもたちが自分で考えて自分で作る。

シナリオも、衣装も、振り付けも。先生たちは手助けをするだけだ。

おかげで、お芝居は常識に凝り固まった我々大人がとてもついていけないアバンギャルドかつシュールレアリスムなお話ばかりである。ダンスは「振り付け」というより「狂喜乱舞」に近い気もする。

 

 

しかし、こどもたちは皆、生き生きとしている。

大人が決めて、大人が作って、大人が命じた、お仕着せのプログラムと目に見えない強制に不承不承従うこどもはK幼稚園の発表会にはいない。

発表会の最後はこどもたちの合唱だった。

 

下のチビは生まれたとき心臓の壁に穴が開いていた。

練馬の病院から救急車で慶應義塾病院に搬送され、そのまま緊急入院。数ヶ月後には心臓の穴を塞ぐ手術をした。手術前、抱っこした私の指を握りしめる小さな小さな手の力強さが切なかった。

誰にも言わなかったが、あの頃、生まれて初めて、神とか仏とか全知全能とか、つまりは人智を超える存在というものに毎晩、泣きながら祈った。

「俺の心臓とこの子の心臓を取り替えてください。

俺がこの子の痛みと苦しみをすべて背負う代わりに、この子を健康にしてください。

今すぐに。」

 

無事、手術は成功し、下のチビは今年で6歳になる。

下のチビ(とその仲間たち)は、発表会の舞台で声を張り上げて歌った。

 

「ここで一緒に遊んだ友達を ずっとずっと覚えていよう。大切な宝物。たくさんの友達。

ここでみんなと歌った歌を ずっとずっと覚えていよう。大切な宝物。たくさんの歌。

ここでみんなと笑ったあの時を ずっとずっと覚えていよう。大切な宝物。たくさんの思い出。」

(たいせつなたからもの)

 

「ともだちになるために 人は出会うんだよ。どこのどんな人とも きっと分かり合えるさ。

ともだちになるために 人は出会うんだよ。 同じような優しさ 求めあっているのさ。

今まで出会ったたくさんの 君と 君と 君と 君と 君と 君と 君と

これから出会うたくさんの 君と 君と 君と 君と 友達

ともだちになるために 人は出会うんだよ。一人寂しいことが 誰にでもあるから

ともだちになるために 人は出会うんだよ。誰かを傷つけても 幸せにはならない。

今まで出会ったたくさんの 君と 君と 君と 君と 君と 君と 君と

これから出会うたくさんの 君と 君と 君と 君と 友達」

(ともだちになるために)

 

K幼稚園では泥団子の作り方は教えてくれるが、英単語は教えない。

楽しい絵の描き方は教えてくれるが、上手な絵の描き方は教えない。

自分で考える手助けはしてくれるが、自分で考えろと強制はしない。

そんなK幼稚園に3年通った下のチビも来年の春、卒園する。

名古屋の親父が、その日を待っている。

 

6年前、私は自分の心臓と下のチビの心臓を取り替えてくれと祈った。

今、下のチビは「人が出会う理由」を元気に舞台で歌っている。

名古屋の親父は、どうやら下のチビのランドセル姿と、上のチビの学生服姿を見られそうである。

 

歌を聴いて、私は泣いた。

 

泣きながら、もしかしたらカミサマというのは本当にいるのかもしれない、と思った。 

 


単行本と文庫本

2014-12-08 12:20:46 | 日記

今年の3月くらいまでこのブログに毎月、読んだ本をアップしていたのだが、(わずか3ヶ月で)面倒くさくなったのと、

「そもそもどこの酔狂者が、俺が読んだ本なんぞに興味を抱くのか?」

という根本的な問題点に気づき、尻すぼみ的にこのテーマの投稿は沙汰止みになっていた。

一部の酔狂者様、申し訳ござらぬ。

 

とはいえ、別に4月以降読書から遠ざかっていた、というわけではないぞよ。

映画とゴルフとサーフィンと落語と読書と酒以外に特に趣味もないし。

 

というわけで(どういうわけだ?)、4月以降に読んだ本は以下のとおりでござる。

【4月】

「大人がサーフィンを始める時に読む本【ロングボード編】」(出版社)

「天才!柳沢教授の生活」29巻~34巻(山下和美・モーニングKC)

「波乗りの島」(片岡義男・角川文庫)~【収録作品】白い波の荒野へ、アロハ・オエ、アイランド・スタイル、シュガー・トレイン、ペイル・アウト~

【5月】

「天涯1 鳥は舞い 光は流れ」(沢木耕太郎・集英社文庫)

「天涯2 水は囁き 月は眠る」(沢木耕太郎・集英社文庫)

「天涯3 花は揺れ 闇は輝き」(沢木耕太郎・集英社文庫)

【6月】

「淳之介さんのこと」(宮城まり子・文春文庫)

「宿六・色川武大」(色川孝子・文春文庫)

「夢十夜」(夏目漱石・電子文庫)

「EQ英会話」(本城武則・ダイレクト出版)

「隠された十字架」(梅原猛著作集10 梅原猛・集英社)

【7月】

「聊斎志異(上)(下)」(蒲松齢・立間祥介編訳・岩波文庫)

【8月以降】

「ブレない人は、うまくいく。」(中谷彰宏・Gakken)

「マニュアルにないサービスが成功する」(中谷彰宏・廣済堂出版)

「中国行きのスロウ・ボード」(村上春樹・中公文庫)

「朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点」(近藤康太郎・講談社+α新書)

「十五少年漂流記」(ヴェルヌ・波多野完治訳・新潮文庫)

「まほろ駅前多田便利軒」(三浦しをん・文藝春秋)

「神去なあなあ日常」(三浦しをん・徳間書店)

「舟を編む」(三浦しをん・光文社)

「政と源」(三浦しをん・集英社)

「まほろ駅前狂騒曲」(三浦しをん・文藝春秋)

「まほろ駅前番外地」(三浦しをん・文春文庫)

「格闘する者に○(まる)」(三浦しをん・新潮文庫)

 

中にはコミックが混じっていたり、以前読んだ本を再読したりと、羅針盤を叩き壊された難破船の如く節操も方向性もない相変わらずの乱読ぶりだ。

読書のスタイルというのは、その人の人生の歩みに似ているのかもしれぬ。これからは私のことを「スルギ号弁護士」と呼んでくれい!

「スルギ号」というのは「十五少年漂流記」で少年たちが乗って遭難した船の名前だ。物語の途中で15人の少年たちの手で解体されて海の藻屑と消える。破滅的な快感だな。

ちなみに破滅的な人生を生き抜いて今も私たちを魅了し続けている阿佐田哲也氏の奥様が書かれた「宿六・色川武大」は、あまりの内容のなさと文章力の低さに最後まで読むのが苦痛だった。別の意味で破滅的な本だな(読了後、廃棄処分)。

「天涯」は沢木耕太郎さんの写真集である。

「時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した。(中略)われわれの属する宇宙、この銀河系に含まれる星の数が、また、およそ一千億だからだ。地上に生をうけた人間のひとりひとりのために、一個ずつ、この宇宙では星が輝いている」

という伊藤典夫氏訳の「2001年宇宙の旅」の冒頭の一文が紹介されていたのが心に残った(「天涯1 鳥は舞 光は流れ」より抜粋)。つまり、

「この星に誕生して以来、現在までに死んだ人類の数と、現在見つかっている銀河系の星の数はほぼ等しい」

ということだ。

やっぱり人は、死ぬと星になるのだ。

 

ところで、10月以降は三浦しをんさんの作品しか読んでいない。

以前、このブログに、「三浦しをんさんの大ファンだけど、作品を読んだことがない」と矛盾極まりない投稿をしたことを(軽く)反省したからだ。

近所の本屋でしをんさんの作品を手当たり次第に買ってきて貪るように読んでいる。

恋愛中毒の女子高生が毎日、彼氏に会いたがる気持ちが少し理解できた今日この頃だ。

ちがうか。

 

三浦しをんさんは実にいい。

その感性、物事を見つめる視点、言葉の紡ぎ方、流れるような文体、一気に読ませる文章力。

すべてがいい。

「その人と同時代に生きていることに喜びを覚える作家」にはなかなか出会えないのだが、私にとって三浦しをんさんは紛れもなくそういう作家の一人である。

 

ちなみに、上に挙げたしをんさんの読了作品中、「まほろ駅前狂想曲」まではすべて単行本であった。なので私はしをんさんの作品は単行本から入った。

で、「まほろ駅前番外地」と「格闘する者に○(まる)」は文庫本。近所の本屋に同書の単行本がなかったからだ。

 

「何を今さら」と言われそうだが、「単行本」と「文庫本」って同じ作者の作品なのに微妙に受ける印象が違うよね?

私個人的には「単行本」のずっしり感とか文字や行間の余裕とか装丁の美しさが好きである。

「舟を編む」なんか、ぜったいに単行本で読むべきだと思う。

 

「文庫本」で読む「三浦しをん」は、「単行本」で読んだ「三浦しをん」と微妙に違う。

「しをん」が「しおん」になったような、一卵性の双子の姉妹の姉をデートに誘ったのに待ち合わせ場所にやって来たのは妹だった、というような、微かな、しかしながら拭いがたい違和感。

「まほろ駅前番外地」の内容が前2作の「まほろ駅前シリーズ」と微妙に異なるとか、そういう問題ではないと思う。

 

ちなみに、私は、行天を通じてしをんさんは「21世紀型のイエス・キリスト」を描きたかったのではないかと思っているのだが、違うかな?

しをんさん本人から「違いますよ」とか「解ってくれたの、あなただけ♥」とかコメントが来たらどうしよう。

来ないか。(なりすましコメントは禁止だぞ。)