第15回。
金曜日。
梅雨の合間を縫って(仕事サボって)行ったゴルフで今シーズンのベストスコアを叩き出し↓
15時くらいに家に戻ってバイクに乗り換え、目指すは吉原!
台東区といえば、そりゃあ、吉原でしょ。
「スコアも良かったことだし、今日は19番ホール目指しちゃいますか、部長」
「ふっふっふっ。平岩くんも元気だねぇ」
「いやいや、部長にはかないませんよ。げっへっへっ」
などとバブル期の接待サラリーマンの如く、煩悩いっぱいの心を抱え、やって来ました吉原大門!
手前には、その昔、吉原遊郭で遊んだ客が、帰りがけに名残を惜しんで振り返ったという「見返り柳」(現在は六代目)も。
「吉原遊郭なんて、人身売買で売られて来た女性が売春してた場所じゃないか」と草食男子っぽくフェミニストを気取って切り捨てるのはあまりに浅薄だ。
確かにかつての吉原の遊女は借金や口減(べ)らしで売られて来た女性が多かった。
あらかじめ定められた年季明けまで働くか、現在のお金で数百万〜1億円以上の高額の身請け金を店に払えば自由の身になれたけれど、多くの遊女は年季明けまで体がもたず、蔓延(まんえん)していた性病などに罹患(りかん)すると店からも追い出された。
江戸時代は、遊女たちの脱走を防ぐために吉原遊郭に出入りできる道は五十間道(ごじゅっけんみち)一本のみとされ、夜になると吉原の入り口にあった大門は閉じられた。
何度かあった江戸の大火では多くの吉原の遊女が焼死した。もともと、狭い店の中で軟禁に近い状態で集団生活をさせられていた上、吉原から逃げる道がたった一つしかなかったからだ。
焼死した遊女たちの遺体は葬式すらあげてもらえず、近所の浄閑寺(@荒川区)という寺に犬猫の死骸のように投げ込まれた。
だから、浄閑寺の通称は投げ込み寺という。
生まれては
苦界、死しては
浄閑寺
と詠まれたあの浄閑寺である。
それでも吉原は江戸時代の文化や流行の発信地であり、豪商や大名などの上流階級の社交場としても栄えた。
吉原を舞台に人情の機微を描いた廓話(くるわばなし)といわれる落語のファンは多い。
最高位の花魁(おいらん)は、美貌だけでなく和歌、茶道、舞踊など最高の教養と芸技を身につけていた。
「遊女」=「売春婦」「風俗嬢」などと括(くく)れるものではない。
たしかに吉原の文化は数えきれない女性の犠牲の上に栄えたものだったけれど、エジプトのピラミッド、イギリスの産業革命、「24時間、働けますか」と煽(おだ)てられて過労死するまで働かされたバブル期のサラリーマン。
人類史において、犠牲のない栄華などなくはないか?
人の苦しみがあるところ、必ず、救いを願う祈りの対象もある。
これは吉原神社↓
神社の地中にいる神様のお名前は、なんと「お穴様」
いや、いくらなんでもストレート過ぎなくないっすか?
お穴様の氏子(うじこ)になろうと決意した私を誘いまくる現代の吉原↓
さて、どこのお穴様・・・じゃなかったお店に行こうかしらん、とワクワクしていたところに、照明デザインの会社を立ち上げて頑張っている北出君(実名だ!)から電話が。
北出君: 平岩先生、今、どちらですか?
煩悩平岩: え、あ、俺? 俺、今・・・よしわ・・・千束。
(※「吉原」という住所はない。住居表示上の住所は千束3丁目〜4丁目である。)
北出君: 洗足ですか(「せんぞく」違いだ、北出!お前の言ってるのは目黒区の洗足だろー)。実はこれから白井会長と義親師匠と南千住で飲むんですよー。よかったら来てください。
(※白井会長はネクスト法律事務所を作ってくれた白井建装の前社長で、義親は私と北出君のサーフィンの師匠だ。いずれも実名だ。)
氏子平岩: え、これから? いや、俺は、ちょっと今から・・・
北出君: 今、白井会長に代わりますね。
白井会長: おぅ、先生か?飲むぞ。すぐ来い。南千住着いたら連絡。以上。
(がちゃ)←一方的に電話切られた音。
もちろん、すぐに行きましたよ、南千住。
だって吉原から直線距離で1kmもないし。
金瓶梅も角海老も多恋人も秘書室もクラブ華も全部、諦めて。
ノンアルコールビール5杯飲んで完全シラフなのに腹だけカポカポになったところで、空模様が怪しくなって来たので一足先に帰途についたが、案の定、途中から雨に降られたざんす。
遊女の祟りか?
次回は↓