つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

摂ちゃんのこと(10)

2018-04-25 17:14:45 | 摂子の乳がん

苛立ちもようやく収まってきたので再開する。

 

苛立ちは収まって来たけど、苛立ちの原因になった奴を許したわけではない。

ただ、そいつとのやり取りを見てもらった方全員から、

「これはひどい。平岩さん、よく我慢できたね。

こういう人とはもう付き合わない方がいい。

あなたと摂ちゃんの味方は大勢いるんだから気にしないで。」

と励まされ、少し溜飲が下がっただけだ。

なんで私がここまで怒っているのか、いつの日かブログで説明しようとは思うが、それはまだ少し先のことだ。

今は思い出すだけでもむかっ腹がたつので、そのクソ野郎のことは私の記憶から一時抹消することにする。

はい、忘れた。

 

 

・・・・えーっと、何の話でしたっけ?

まぁ、いいや。摂子のことに話を戻そう。

 

私が弁護士になって、ようやく親父とも仲良く酒を飲んで話ができるようになってから、酒の勢いを借りて親父に聞いてみたことがある。

「親父さ、実の娘(※知子のこと)はダウン症で生まれてきて2ヶ月で死んじゃってさ。

代わりに貰ってきて実子として戸籍に入れちゃった摂子は知的障害を負って死ぬまで面倒見なきゃならなくなっちゃってさ。

貧乏くじ引いた人生だなぁ・・・って自分の運命を呪ったりとかしたことねーの?

 

私の、この無神経な質問に対する親父のこたえ。

「知子の時は正直、がっくりしたけどなぁ。

摂子が知的障害児だって分かったときはな、こりゃ、どうも、天の上にいる神様が、

『お前は二人目の子供はそういう(障害を負った)子供を育てろ』

と命じてる気がしてなぁ。

神様がそう言ってるなら、こりゃもう、仕方ない。

一生懸命、摂子を育てよう、と思ったわ。

 

生まれて初めて親父を人間として尊敬し、「俺はこの男の息子に生まれてきてよかったな」と思った。

こういう言葉をしれっと吐ける男を、私は心底、格好いいと思う。

なので、私も親父に約束した。

「親父が死んだら、俺が親父に代わって摂子の面倒を見るよ。死ぬまで。」

 

親父との約束は、私が死ぬか、摂子が死ぬまで有効である。


摂ちゃんのこと(9)

2018-03-03 14:25:39 | 摂子の乳がん

施設に入った摂子は、以来、ずっと施設暮らしだ。

小学校も中学校も施設に併設された特別の学校に通った。

 

 

お袋には嫌われる。

家では親父とお袋が年がら年中いがみ合っている。

兄の私は自分の運命が受け入れられず、障害を持った摂子とどう向き合ったらいいか分からない。

そんな地獄みたいな家で暮らしてるより、摂子にとっては施設にいた方が幸せだったのかもしれないと思う。

施設の中でも摂子はいつもニコニコ笑っていた。

今もそうだ。

だから同じ施設に入っている他の子たちからも

「せっちゃん、せっちゃん」

と慕われている。

施設のスタッフの方々も

「せっちゃんはいつもニコニコしていて、こちらが嬉しくなるよね。」

と言って下さる。

 

それなのにお袋は、

「摂子は施設で虐待されとる」

と言っていた。

摂子が知的障碍者なら、お袋は完全な狂人だ。

「お前が、摂子を捨てたからだろう。

摂子が虐待されてると思うんなら、摂子を家に戻してやれよ。」

思ったけど、お袋には言えなかった。

私は卑怯者だ。

 

摂子の笑顔は天使みたいだ、と思う。

実の親に捨てられるどころの話ではない。

中絶されてこの世に生まれてくることすら叶わなかったところを医者の斡旋で親父に貰われて、なのに、髄膜炎で脳に後遺症を負って。

それでもいつもニコニコニコニコ笑って「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と私の後を追っかけてくれて。

何一つ悪いことしてないのに、「面倒を見てやれない」という、ただそれだけの理由で施設に放り込まれて。

 

そういえば、摂子はいつの頃からかほとんど喋(しゃべ)らなくなった。

昔はいつも私に話しかけてくれたし、いつも好きな歌を歌ってた。

誰かに、

「なに言ってんのか分かんねーよ、バカ」

とひどいことを言われたからかもしれない。実際、摂子にそういうことを言った奴を私は見ている。

今なら有無を言わさず八つ裂きにするところだけど、当時は、

「自分の妹は障害者なんだ」

ということの方が恥ずかしかった。

だからそいつに何も言い返せなかったし、摂子を守ってやれなかった。

 

今もたいして変わらないけど、昔は障害者に対する差別意識や冷たい仕打ちが本当に多かった。

摂子は、きっと、自分が喋るとみんなが怒ると思って声を出さなくなったんだろう。

障害を持っている摂子は、誰よりも優しい。

そんな摂子の存在を、私は友達にはほとんど話せなかった。

友達との間で兄妹の話題が出るとわざと話をそらしたりしていた。摂子の存在に触れたり、説明したりしたくなかったからだ。

「なんで、俺だけ、こんな人生を歩かされるんだろう」

って思ってた。

 

摂子よりバカで、摂子より卑怯で、摂子より優しくない私は、それが間違いだと気づくのに50年もかかった。

本当のバカは、私だ。

障害を背負った摂子を差別したり、摂子に冷たくしてたのは、私の友達でも、世間でもなくて、私自身だ。

一番苦しい運命を背負って、それでも笑顔で生きてきたのは、私じゃなくて、摂子だ。

だから私にはもう、摂子に「お兄ちゃん」と呼んでもらう資格は、ない。

 

この世に生まれてから今日まで、何一つ悪いことをしていない摂子が、意気地なしの私みたく自分の運命を呪うこともしなかった摂子が、楽しいことより辛いことの方が多かったはずなのにいつも笑顔でみんなを幸せにしてきた摂子が、

どうしてガンで死んでいかなきゃならないんだ。

神様、答えろ。


摂ちゃんのこと(8)

2018-03-02 12:57:35 | 摂子の乳がん

親父と別居したお袋との二人暮らしもやっぱり地獄だった。

狂ったお袋は何かのきっかけで突然、ヒステリーを起こす。

お袋と二人で「フランダースの犬」というアニメを観ていた時のこと。

親父から買ってもらった少年少女世界の名作全集に収録されていた「フランダースの犬」(小説)を読んで話の結末を知っていた私がお袋に向かって、

「このネロとパトラッシュって最後は死んじゃうんだよ。

もう、早く死んじゃえばいいのに~」

と冗談めかして話しかけた途端、お袋のヒステリーのスイッチが入った。

 

「あたしが死にゃいいのか!そういうことか!」

と叫びながら狭いアパートの台所に走っていったお袋は、出刃包丁を掴(つか)んで自分の首をかき切ろうとした。

どうしてお袋がヒステリーを起こしたのか、小学4年生だった私に理解できようはずもない。

というか、今でも理解できぬ。

 

泣きながら出刃包丁を振り回すお袋の腕にしがみついて、家を出るときに持ってきた「少年少女世界の名作全集」を必死にお袋に見せながら私は、

「ほら。こういう話じゃん。お母さんに死ねなんて言っとらせんじゃん!」

と泣き叫んだ。

悪夢を見ているようだった。

 

そういう生活をしていた時に私の友だちになってくれて、私を支えてくれたのが丸信之君だった。

このことは以前、お袋が死んだ直後にこのブログにも書いた。

 

その後、何故か、お袋は親父とよりを戻すことになった。

理由はよくわからない。

私が小学6年に進級した春、お袋は私を連れて、飛び出した尾張旭の家に戻った。

摂子は、もう、いなかった。

 

摂子はもう、いなかったけれど、家に戻ったお袋はやっぱり狂ったままだった。

いつも「調子が悪い」といっては奥座敷に布団を引いて寝込んでいた。

 

たしか、小学6年の夏だったか秋だったか。

学校から家に帰ると、お袋がガスホースを口にくわえて死にかけていた。

お袋が寝ていた部屋にあった鏡台の上に私宛の遺書が置いてあった。

お袋はガス自殺を図ったのだ(現在と違って当時のプロパンガスは致死量を吸い込めば死ねたはずだ。)。

私がお袋の口からゴムホースを引き抜くと、幸か不幸かお袋は蘇生した。ランドセルは背負ったままだった。

あまりのショックで涙も出なかった。

摂子を捨て、今度は私まで捨てて、お袋は自殺しようとした。それも2度目だ。

 

蘇生したお袋は、

「なんで余計なことするんだ!」

と私を怒鳴りつけると、台所に行って床に放尿した。

 

夜、親父が帰宅するまで私はずっと泣いていたように思う。

 

帰宅した親父は私の話を聞いて台所に行き、床を見て、

「ほんとだなぁ。こんなとこで小便しとるわ。」

とだけ言った。

親父もお袋も台所の床を掃除しようとしなかった。

家中が小便臭かった。

 

親父もお袋も死ねばいい、と本気で思った。


摂ちゃんのこと(7)

2018-03-01 12:16:56 | 摂子の乳がん

親父は、摂子の面倒を見ながらでは働きに行くこともできぬ。

年老いた祖父母では障害のある摂子の世話はとてもできない。

親父は八方手を尽くして、知的障害児を全寮制で預かってくれる施設を見つけて、そこに摂子を入れた。たぶん、摂子が5歳か6歳の頃だ。

そして摂子は今でもその施設にいる。

親父は死ぬまで摂子を可愛がっていたから、断腸の思いだったろう。

小学4年生だった私でさえ、突然、摂子と引き離された辛さで押し潰されそうだった。

 

当時の私の記憶。

私を連れて家を出たお袋が誰かと電話で話している(以下、名古屋弁)。

「あんな家にはおれんわ。利文だけ連れて出てきたがね。クソ親父がどうなろうと、もう、知ったことじゃないわ。とにかく金を作らなあかんもんねぇ。『いらん物はコメ兵に売ろう!』とかテレビでやっとるで、少しでも金になるかと思って着物とか指輪とかコメ兵に持ってったけど、どれもこれも『買えません』って言うんだわ。『あんたら、テレビでいらん物はコメ兵に売ろう!とか言っとるけど何にも買ってくれやせんがね。ほんならあたし(の身体)でも買ってくれるんか、って言ってやったわ。はっはっはっ」

下卑た冗談を言いながら明るく笑うお袋の横で、私は折り紙を切り抜いて『せっちゃん』という文字を作って遊んでいた。わざとお袋の目に入るように、だ。

摂子を捨ててきたお袋への、小学4年生の私にできる精いっぱいの抗議だった。

お袋は私が作った切り文字をチラッと見たが、何も言わなかった。

 

知的障害があって、ちゃんと話もできなくて、てんかんの発作もあって、突然ひっくり返ったりして。

恥ずかしいから学校の友達は家に呼べなかった。

なんで自分の妹はこんなんなんだろう、と毎日、思っていた。

やり場のない怒りが爆発して癇癪を起し、おもちゃをひっくり返して泣き喚いたこともある。

お袋は悲しそうな顔をして、摂子と二人で、私が散乱させたおもちゃを一つずつおもちゃ箱にしまっていた。

 

摂子を捨てたお袋は許せなかったけれど、私もたいしてお袋と違いはない。

摂子が大好きで大好きで、摂子が可愛いくて仕方なくて、摂子を妹として愛していたけれど、わが身が置かれた理不尽な不幸を受け入れられず、お袋に、親父に、そして摂子に、噛みついていた。

 

 

私は、くそ野郎だ。

 

 

 

お袋が捨てた直後の摂子の写真である。

今見ても、胸が、潰れそうになる。

上段の摂子と一緒に写っている老婆は私の父方の祖母。

下段で摂子と一緒に写っているのは親父だ。

 

摂子は何も悪くない。

実の親に捨てられ、知的障害を負い、私のお袋に捨てられ、家も、親父のことも、みんなのことが大好きだったのに施設に放り込まれなければならないような罪を、摂子は何一つ、犯していない。

 

神様。あんたは残酷だ。 


摂ちゃんのこと(6)

2018-02-28 11:45:53 | 摂子の乳がん

私が小学4年生の確か夏休み前だったと思う。

お袋は私だけを連れて家を飛び出した。離婚を前提に親父とは別居する、という。

一緒について行こうと玄関まで走って追いかけてきた摂子に向かってお袋は、

「奥でお父さんが呼んでるよ」

と嘘をついた。

「はーい」と明るく答えて摂子は家の奥に走っていった。

その隙に、お袋は私の手を引いて家を出た。

 

お袋は連れて行く私を女手一つで育てていかなければならなかった。

障害を持った摂子を連れてはいけない。

だから摂子に嘘をついて、親父に摂子を押し付けた。

事情は分かる。

当時のお袋には他に選択肢がなかったのかもしれぬ。

 

それでも。

お袋が摂子を捨てて私だけを選んだ、という事実は変わらない。

お袋は、あの時、摂子を捨てた。

お袋が死ぬまで、私はお袋を許せなかった。

 

 

先日の摂子の誕生日。

ココスで誕生祝いをした後で、親父の墓参りに行く前。

お袋が息を引き取った老人ホーム(その後、経営者が夜逃げをしてしまったために今は空き家になっている)に摂子と行った。

摂子に、

「ここでお母さんは死んだんだよ。

お母さんは摂子にはずいぶん意地悪だったけど、もう、許してやろうな。

お母さんは、摂子に意地悪してた罰を受けて、ちゃんとそれを償って、一人ぼっちで死んでったんだから。」

と話した。

摂子に話した、というより私の中のけじめのようなもんだ。