つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

キャベツ畑は遥か遠く

2022-06-13 00:52:00 | 日記
30年来の友人Gちゃんと、彼の長男のS君と食事をした。
S君を間近に見たのは実に18年ぶりである。
初めて彼に会ったのは、S君の母上でもあり、Gちゃんの奥さんでもあったMさんの告別式だった。告別式の後、Gちゃんの先輩のNさんとカラオケに行き、私は泣きながら長渕剛さんの「祈り」を歌った。Nさんも泣いていた。

あの時、S君は小学1年生だったか。
母親を早くに亡くしたS君と弟はその後、Gちゃんの男手一つで(正確にはGちゃんと彼の母上の二人によって)育てられた。
S君は今年24歳になったという。
礼儀正しく、笑顔のかわいい、人好きのする青年に成長していた。
聞けば今、練馬区N町で一人暮らしをしているという。

今から40年前。
私が愛知県から上京して、サンケイ新聞(※当時はカタカナ表記だった)の新聞奨学生として東京で一人暮らしを始めた町もまたN町だった。
とっくの昔に潰れた、そのサンケイ新聞の販売所は、現在S君が住んでいるアパートから歩いて2分ほどの、川越街道の手前にあった。

新聞販売所のN所長は競馬好きで、毎週、ノミ屋で馬券を買っては私たちが集金してくる新聞の購読料をスってしまっていた。
給料が遅れることもしばしばで、販売所から新聞奨学生に提供すると約束されていた朝食と夕食だけではとても足りず、一緒に働いていた4人の新聞奨学生たちはいつも貧乏で、たいてい腹を空かせていた。
私は空腹を満たすために、配達途中に広がっていた畑から時々、キャベツを盗んできては、販売所の寮(築何十年だか見当もつかない一戸建てに私を含む3人の新聞奨学生が暮らしていた)でフライパンで炒めて食べた。味付けは醤油だけだった。

パン屋の店先のコンテナからパンを失敬して飢えを凌いだこともある。
あの頃、コンビニなどという洒落たものはなく、昔ながらのパン屋が2軒ほど、私の配達ルートの途中にあった。
パン屋はその日売るパンを毎日仕入れる。
仕入れたパンは早朝、配送のトラックが持ってきて、シャッターの降りた店先にコンテナごと置いていく。その積み重ねられたコンテナからパンを抜き取った。
せめてものお詫びに、パン屋が購読してないスポーツ紙をシャッターの下に差し込んでおいたりした。

入学した日本ジャーナリスト専門学校(※ジャナ専と呼ばれていた)にはほとんど顔を出さなかった。
午前4時に畑からキャベツを盗まなくても親にご飯を食べさせてもらえる同級生が羨ましく、さしたる理由もないままに彼らにイライラしたし、役に立つのやら立たないのやらさっぱり分からない専門学校の授業より、その日一日を生き抜くことの方が重要だった。
金もコネも知恵も力もなかったけれど、「こんなところで潰されてたまるか、今に見ていろ」といつも思っていた。
要するに貧乏で、捻(ひね)くれて、斜(はす)に構えて、世の中全部を敵に見立てることで、なんとか崩れ落ちないように自分を奮い立たせていた、ということだ。
あの頃、私に噛みつかれたりケンカを吹っかけられた人には申し訳ない、としか言いようがない。

今はどうだか知らないが、あの当時、つまり今から40年前。新聞奨学生はどの新聞社においても最低賃金レベルで使い捨てできる貴重な若い労働力だったのだと思う。そのことを私が思い知ったのは新聞奨学生初日のことだった。

全国から集められた私たちは、上京した最初の日、大手町のサンケイ新聞本社で(もしかしたら日本青年館だったかもしれない。この辺は既に記憶が曖昧だ)、たぶん、新聞奨学生を管理している部の部長だか役員だか偉そうな人の訓示を受けた。
サンケイ新聞本社(だったか日本青年館だったか)の大講堂みたいな場所に集められた私たちに向かって彼はこう言った。

「これから君たちは我がサンケイ新聞の新聞奨学生としての一歩を踏み出す。新聞というのは、どんなに優秀な記者が足を棒にして取材しても、どんなに素晴らしい記事を書いても、読者の家庭に届かなければ何の意味もない。尻を拭く役にすら立たない紙屑である。我々が作り出した『新聞』という、民主主義社会においてなくてはならない商品を、読者の家庭に毎日届けるのは君たちの仕事だ。君たちが読者の家庭に配達してはじめて、『文字を印刷しただけの紙』は『新聞』となるのだ。だから雨が降ろうと雪が降ろうと届けてもらわねばならない。人間だから風邪をひいたり体調を崩したりすることもあるだろう。しかし、そういう時に故郷のご両親に連絡などしてはならぬ。連絡したところで、故郷のご両親は何もできないではないか。わが子に何もしてやれない親は心配をするしかない。親に心配をさせる子どもを親不孝者という。君たちは親不孝者になってはならない。風邪をひいたり、体調を崩した時は、治ってからご両親に連絡したまえ。『前日まで体調を崩していましたが、今は元気です』と。それが親孝行というものだ。本当に君たちの身が危険な時は販売所の所長や我々がご両親に連絡してあげるから、君たちは日々の仕事と勉強に精を出したまえ」

正論である。
私の横に立っていた同い年の男は目を輝かせてウンウンと頷いていたけれど、私は、「要するに、お前たちは末端の労働力なのだから、俺たちが雨露をしのぐ場所を提供してやるかわりに、雨が降ろうと槍が降ろうと少々身体を壊そうと、ただ黙って働けってことじゃねーか」と思って聞いていた。
こういう正論を額面通りに受け取って首肯できる、自分と同世代の若者が自分の右隣にいる、ということに何より驚いた。

穿(うが)った、もしくは捻(ひね)くれた解釈とお叱りを受けるかもしれないが、私はあの時の訓示を聞いて、
「なるほど。金がない、というのは同い年の大学生たちのようにチャラチャラ浮かれた学生生活を送れない、というだけではなく、安価な労働力扱いされても文句も言えない、ということなのだな。これが社会というものか」
と妙に覚悟を固めたりした。

実際に働き暮らした新聞奨学生の生活はそんな想像を遥かに超えて過酷だった。
新聞奨学生として働けば、学費も生活費も住むところもなんとかなる、給料だって貰えると言われて、愛知の田舎から出てきた18歳の馬鹿ガキの甘っちょろい夢が叩き壊されるのにたいして時間はかからなかった。

(続く)


ゼレンスキーという政治家

2022-05-27 15:25:13 | 日記

先日、敬愛する劇作家兼演出家の高橋いさをさんと久しぶりに食事をした。

いさをさんももう還暦である。

いさをさんと初めてお会いしたのは忘れもしない、原宿駅前の歩道の上だった。今から30年以上も前のことだ。

いさをさんが還暦だから、いさをさんの人生を基準にすれば、その半分以上に僕が存在していたということになる。

僕は今57歳なので、僕の人生の半分以上にいさをさんが存在していたということでもある。

誰かの人生の半分とか半分以上に自分が存在しているというのはなんだか凄いことのような気がして、いさをさんが連れて行ってくれた新宿三丁目の焼肉屋の一番奥の席で、注文したトマトサワー(珍しいサワーだが美味かった)を飲みながら僕はいさをさんにそう言ってみたのだが、いさをさんは、

「まぁ、そういうことになりますね」

とクールに一言返してくれただけだった。

あれー?

人づきあいが苦手で、人の好き嫌いが激しい僕としては、誰かの人生の半分とか半分以上に自分が存在している、というその事実だけで、「うわぁ」とドキドキしてしまうのだが。

 

さて、僕が2杯目のトマトサワーを飲み終える直前に、いさをさんから

「そういえば、ブログ、去年のツーリング以来更新してないじゃないですか」

と言われてしまった。

今、前の記事のタイムスタンプを見てみたら「2021-11-10 01:30:00」とある。

半年以上、放置していた計算だ。

4000kmを超える長距離ツーリングを終えてちょっと魂が抜け切った状態になってしまっていたとか、

金にならないのに手間ばかりかかる仕事が忙しかったとか、

年末からちょっと一念発起してある資格試験に挑戦し始めたとか。

いろいろ言い訳はあるのだけれど、敬愛するいさをさんに「ブログは?」と言われてしまうと、僕としては優しい校長先生にやんわりと期末試験の成績を注意された中学生のように、「いや、あの、その」とヘドモドするしかない。

そもそもいさをさんは、かれこれ10年以上も一日も休むことなく毎日(!)、ブログを更新し続けているのだから、そのいさをさんから「ブログは?」とやんわり指摘されると、劇作家と弁護士と職種は違えど、「ものを書いて生きている」という意味での同業種の僕としてはもう、恥じ入ってシドモドするしかないのだ。

いさをさんのブログはこちら↓

高橋いさをの徒然草② (ameblo.jp)

近日中に書籍化もされるらしい。

 

という次第で、半年(とちょっと)ぶりの更新である。

あまりに久しぶりなので何を書いたらいいのか、どう書けばいいのか、よく分からなくなっている自分がいることにまず驚く。

驚きついでに、しばらくはリハビリ状態が続くであろうこともあらかじめお断りしておく。

取りあえず今回は、いさをさんと焼肉をつつきながらなんとなく僕が今思っていることを話したロシアとウクライナの戦争について書いておこうと思う。

 

ロシアとウクライナが戦争している。

両国の兵士が何人も死に、ロシア兵によるウクライナの一般市民への虐殺も伝わってくる。

戦争を最初に仕掛けたプーチン大統領が一番悪いのは当たり前だし、彼は戦争犯罪人として処刑されるべきだと僕は思っているけれど、世界中が英雄として祭り上げているウクライナのゼレンスキー大統領も同様に政治家としては最低・最悪な男だと僕は思っている。

 

ゼレンスキー崇拝著しい現在、こういうことを書くと、また「平和呆けの馬鹿」とか「祖国を守るということの尊さの分からないぬるま湯世代」とか言われるんだろう。

しかし。

戦争の是非はともかく、ウクライナの人々は、隣国に「プーチンという異常者」に率いられている大国ロシアがいることはわかっていたはずだ。

ロシアという国家がどのような国家かということも、世界史の教科書を読めば中学生でもわかる。

ロシアがウクライナのNATO加盟に反対し続けていて、それなのに(ロシアとの)確たる外交努力も払うことなく、このタイミングでウクライナがNATO加盟を公式に表明すれば、プーチンがどのような行動に出るかもみんなわかっていた。

にもかかわらず、ゼレンスキーは「NATOに加盟する」とぶち上げた。

 

世界にはいろんな主義・思想の政治家がいるけれど、唯一、民主主義国家にあって、どんな政治家も共通して背負う揺るぎない義務は「自国民を一人たりとも殺さないこと」だ。

政治家は自国民の命を守るためなら、どんなに馬鹿にされても、弱腰だと批判されても、軟弱外交だと罵られても、戦争を回避する努力をしなければならない。

しかしゼレンスキーはそれをしなかった。

ゼレンスキーがしたのは、

戦争のきっかけをプーチンに与え、国家総動員令を発動し、兵士として使えるウクライナの男性国民の出国を禁止したことだけだ。

妻子を国外に逃がした男たちは、「愛する国を守るためだ」という耳障りのいい大義名分で戦地に送り込まれ続けている。

ロシアが侵攻してきてしまった現状、戦わなければウクライナという国家の存在それ自体が否定されかねないし、この状況で両国が話し合いで軍を引く、ということは夢物語に等しいとも思う。今は何百人、何千人の兵士が死のうと、戦うしかない状況だ。

 

それでも。

僕は、「国民は国のために死ね、死ぬべきだ、死んでもいい」と言う人間を信じないし、支持もしない。

国家というのは人が幸せに生きていくために、僕らの遠い先祖が一つの契約として作り上げた手段でありシステムに過ぎない。

国民の幸せのために作り出した「手段」としての国家を守るために、国民に死ねというのは論理矛盾以外の何ものでもない。

何があっても、国民に向かって死ねという状況は回避しなければならない。

それが、気の遠くなるような人類の歴史の中で、星の数ほどの戦争を経て、夥しい命を失って、ようやく僕らが辿り着いた結論ではなかったか?

 

太平洋戦争時、日本の政治家は「国のために死ね」と国民に言い続けた。

毛沢東も建国のためにとんでもない数の国民を殺した。

金日成もポル・ポトも。

歴史上、国民の命を国に捧げさせた政治家は、例外なく虐殺者だ。

その意味で、プーチンもゼレンスキーも、僕から言わせれば虐殺者であり、無能で狂った政治家であることに変わりはない。

何故、ゼレンスキーが世界中でここまで評価されているのか、僕にはさっぱり分からないし共感もできない。

 

どういう形であれ、戦争が終わったとき、プーチンとともにゼレンスキーの責任を問う声が沸き上がるだろう。

夫を殺された妻から、父を殺された娘から、わが子を殺された老親から。

その時、きっと、世界のマスコミや識者は手のひらを返してゼレンスキーを批判し始めるだろう。

今から77年前の、極東の小さな島国のマスコミやジャーナリズムのように。

戦争中、ゼレンスキーを讃えた自分たちもまた共犯者であることを忘れて。


小山田圭吾問題

2021-07-19 12:53:00 | 日記

先週あたりから話題が沸騰している「小山田圭吾問題」

テレビ見ないとか、新聞読まないとか、ネットニュース見ないとかいう方のために簡単に説明しておきたい。

 

小山田圭吾氏(以下「小山田氏」)は今回の東京オリンピック・パラリンピックの開会式・閉会式の制作メンバー(楽曲担当)である。

ところが、26年前(1995年)に発売された音楽雑誌「ROCKIN'ON JAPAN」「クイック・ジャパン」において、小山田氏は自身の障害者に対する凄惨ないじめ・暴行行為を「笑いながら」語っていた(記事は小山田氏に対するインタビュー形式だった)。

同氏の常軌を逸した行為は小学校から高校まで続いた。

被害者は主に同氏の同級生だった障害者生徒である。

胸糞が悪くなるのでこのブログで上記インタビュー記事の詳細を引用するのは控えるが(実際、テレビのワイドショーなどでは放送倫理コードに抵触するらしく、小山田氏が関与していたいじめ・暴行行為を具体的に説明すらしていない。私は昨日、吐いた。)、以降の議論をはっきりさせるために必要な限度で、彼のしていた行為(小山田氏の説明では「自分はアイデアを出しただけで実際に実行はしていない」という)を挙げておく。

「被害者を跳び箱の中に閉じ込める」

「マットレスでぐるぐる巻きにして飛び蹴りする」

「排泄物(要するに人糞)を食べさせる」

「服を脱がせ裸で歩かせる」

「オナニーを強要する」

「殴る・蹴る」

等々である。

 

一部の識者から指摘されているとおり、これはいじめではない。

犯罪だ。

もっと正確に言えば、「人間の皮をかぶった獣(けだもの)の犯罪」である。

当然、SNSを中心として、「小山田圭吾氏はオリ・パラのスタッフ、開会式・閉会式の制作メンバーにはふさわしくない。辞職すべきだ。辞職しないならオリ・パラ組織委員会(以下「組織委員会」)が正式に解任すべきだ」という議論が沸き上がった。

 

小山田氏はCorneliusというアカウントで発信しているTwitterに謝罪文を掲載したが、そこにまた多くの批判コメントがついて現在、同アカウントは炎上状態にある。

ところが、小山田氏はこの「謝罪文」でオリ・パラのスタッフを辞職する考えがないことを明言し、どころか、組織委員会も一貫して小山田氏を解任する気はないと言い続けている。

組織委員会の理屈は以下のとおり。

「ご本人が発言について後悔して反省しておられると、おわび文を掲出した。我々は現在は高い倫理観を持って創作活動するクリエーターと考えている。開会式準備における貢献は大きなもの」

(高谷正哲スポークスパーソン(SP)による7月19日のメインプレスセンター(MPC)における会見)

さらに、知的障害者の権利擁護と政策提言を行う「一般社団法人全国手をつなぐ育成連合会」が7月18日、小山田圭吾問題に関して「強く抗議するが、参加取りやめまでは求めない」と声明を出したことから、一部のSNS上では、「障害者を代表する団体からも許しを得たんだから小山田氏は辞職する必要も解任される必要もない」という意見まで出始めた。

 

どいつもこいつも気は確かか?

 

私がこれほどまでに小山田圭吾問題に怒っているのは、3年前に死んだ妹が知的障害者だったという個人的な事情もある(※本ブログの「摂子の乳がん」カテゴリーの拙稿をお読みいただければと思う)。

しかし、そういった私の個人的事情を抜きにしても、小山田氏がしたことは人間の皮をかぶった獣の犯罪だ。

しかも同氏はそれを自己の武勇伝として、笑いながら上記「ROCKIN'ON JAPAN」誌のインタビューで話していた(昨日付で同誌の編集長兼当該記事のインタビュアーが謝罪コメントを発表したが、遅きに失した対応としか言えない。)。

小山田氏や「ROCKIN'ON JAPAN」、「クイック・ジャパン」を擁護し、オリ・パラ開会式・閉会式の制作メンバーから外れる必要はないという意見の主な理由は、上述した組織委員会のピンぼけなコメントを筆頭として、

「開会式が目前に迫っており、時間的に小山田氏をスタッフから外すのは間に合わない」

「小山田氏の音楽的才能は海外でも高く評価されている」

「すでに十分反省している」

「謝罪している小山田氏をバッシングするのは、むしろ同氏に対するいじめだ」

といったものである。

 

あまりにバカバカしいが、一応反論しておく。

時間的に間に合わないなら、最悪、楽曲なしで開会式をすればいい。

世界中に、「日本は障害者の人権を踏みにじったあげく、笑いながらそれを雑誌に掲載させているような獣を『才能がある、時間が足りない』という理由だけで起用した」と屈辱的な恥を晒すより遥かにましだ。

なにより、小山田氏が手掛けた曲をバックに世界中からやってくるオリンピアン・パラリンピアンたちを開会式に参列させることの方が百億倍失礼だ。

どうしても無音というのがいやなら、組織委員会の委員長なり、菅首相が、開会式の冒頭で、

「障害者に対するあらゆる差別、攻撃、偏見、人間としての尊厳を傷つける一切の行為をわれわれは許さない。

障害の有無にかかわらず人を人として尊重する社会を必ず実現する。

オリ・パラはそのためにあらゆる努力を惜しまない。

小山田氏の才能には深く敬意を表するが、他方で彼に傷つけられた方の心情、人間としての尊厳を考えたとき、今回の開会式では彼が携わった音楽を流すことは適切ではないと判断した。」

と意見表明・宣誓すればいい。

 

「十分反省している」論は全く説得力がない。

小山田氏は冒頭で紹介した26年前の音楽雑誌のインタビューで笑いながら自分の犯した「人間の皮をかぶった獣の犯罪」を語っていた。

そしてその後、平然と音楽活動を続けてきた。

被害者たちに直接謝罪することもなく、だ。

今回のTwitter上での謝罪文は、騒ぎが大きくなって追い詰められてから発せられたものだ。

しかも、その中においてさえ、「事実と異なる部分がある」「発売前に原稿をチェックしていなかった」などと、責任の一端を音楽雑誌に転嫁しようという姿勢すら垣間見える。

もし、この謝罪文を弁護士なりリスクコンサルタントなりの第三者がゴーストライトしているのであれば、これほど稚拙で、反省の色の見えない、駄文は見たことがない。

百万歩譲って、仮に小山田氏が反省しているとしても、世の中には反省しても一生背負っていくべき罪というものは存在する。

 

小山田氏がテレビやラジオや雑誌に登場するたび、彼の曲が聞こえてくるたび、彼に尊厳を蹂躙され続けていた被害者たちはどんな気持ちでそれを見て、聞いていたのかと思うと堪らない気持ちになる。

彼がしたことと、彼に辞職を求めることを、同じ「いじめ」という表現で括っている意見についてはあまりにバカバカしくて反論の価値すらない。

彼がしたことは「人間の皮をかぶった獣の犯罪」であり、彼に辞職を求めている人たちは「オリ・パラにはかかわって欲しくないと声を上げている」だけだ。

一部のお笑い芸人やネット・タレントが似たような立ち位置からコメントをしているのを拝見したが、もはや逆切れの感があった。

はっきり言っておく。

小学校、中学校、高校という、もっとも輝く楽しい時期に、人間としての尊厳を小山田氏に蹂躙された被害者たちは小山田氏に「逆切れ」すらできなかったんだぞ?

 

私の妹がそうだったように、障害者、中でも知的障害者に対する世間の風当たりはいまだに厳しい。

30年以上前はもっとひどかった。

私の妹もいじめられていた。

それでも妹は笑っていた。

知的障害者は、殴られても、蹴られても、水をかけられても、裸にされても、それでも誰かにかまってもらえることが嬉しくて笑う。

本当はみんなと仲よく遊びたいのに、友達になりたいのに、障害があるからうまくそれができない。

どうしていいのかもわからない。

だから、せめて、「いじめ」という形でも自分と関係を持とうとしてくれることが嬉しくて嬉しくて笑うんだ。

小山田氏の「人間の皮をかぶった獣の犯罪」の被害に遭っていた方が笑っていたのか泣いていたのか黙って耐えていたのか、私は知らない。

でも、わが子を動物のように扱われ、人間としての尊厳を蹂躙された親御さんの辛さ、苦しみを思うと胸が潰れそうだ。

私のブログなので好きなように言わせてもらう。

もし、私の妹が、あるいは私の子供が、小山田氏の被害者だったら、私は迷うことなく弁護士バッジを捨てて、彼とその仲間を皆殺しに行くだろう。

謝罪はいらない。反省も不要だ。

他人の尊厳を蹂躙した者は、同じ報いを受けるべきだ。

それでも小山田氏に批判的な立場の人たちの多くは、「オリ・パラにはかかわって欲しくない」と言っているだけだ。

これの、どこが、いじめだ?

 

組織委員会の説明は到底受け入れられないが、一番許せないのは、「時間的に間に合わない」「小山田氏も反省している」という訳のわからない理由で、障害を持ってなお、血の滲むような努力を経てパラリンピックに出場するアスリートたちに有無を言わさぬ選択を迫っていることだ。

「あなたたちの仲間を動物以下に扱い、人格を否定し、尊厳を蹂躙した男が作った曲の流れるセレモニーに参加しろ。

イヤなら、来るな」

と。

これほど傲慢で、非人間的な選択がかつてオリ・パラでなされたことがあるだろうか?

 

多くの人が勘違いしているようだが、「一般社団法人全国手をつなぐ育成連合会」は別に日本の、いや世界の障害者の代表ではない。

そもそも「一般社団法人全国手をつなぐ育成連合会」自身、小山田氏の行為に強い抗議の意思を表明しているのだが、それはさておき、今、僕らが一番配慮すべきは、小山田氏の被害に遭っていた障害者の方々とそのご家族の気持ちだ。

どうして誰もそれがわからないんだろう?

次に配慮すべきは、パラリンピックに出場するアスリートたちだ。

ようやくつかみ取ったパラリンピック出場という夢舞台を開会式から台無しにされる彼らの気持ちをどうして誰も考えないんだろう?

「小山田氏は解任しない。彼の曲が嫌なら開会式に来るな」と言わんばかりの態度を組織委員会が暗に示しているからか?

 

障害者を家族に持っていた人間として、私は小山田氏をおそらく生涯許せない。

小山田氏がオザケンたちと結成していたフリッパーズ・ギターを喜んで聴いていたあの頃の自分のケツを蹴り飛ばしてやりたい気分だ。

 

小山田氏を擁護する人たちは彼の「才能」を皆評価する。

たしかに才能はあるだろう。

でも、ヒトラーもドイツ経済を復興させた「才能」があった。
戦争に突き進んでいく中で彼に代わる「総統」は見つからなかった。
ドイツ国民はそういう男の才能を万雷の拍手を持って支持した。
そして人類史に残る、永久に消し去れない、人間の尊厳に対する犯罪を犯した。

他者の尊厳を踏み躙ることに躊躇しない、という点において、小山田氏も、「ROCKIN'ON JAPAN」や「クイック・ジャパン」のインタビュアーたちも、「才能」の一言でそれに拍手を送っていた人たちも、ヒトラーや当時のドイツ国民と変わらない。

小山田氏や彼の作品、「ROCKIN'ON JAPAN」や「クイック・ジャパン」を擁護する人も、いつかわかる時がくる。
自分や、あるいは自分の大切な人が裸にされ、マットにくるまれ、人前でオナニーをさせられ、人糞を口に押し込まれたときに、きっとわかる。

 

小山田氏には東京オリンピック・パラリンピックの開会式・閉会式の制作メンバーを速やかに辞職していただきたい。

もし、本当に氏がかつての自分の行為を反省しているなら、その被害者の方々に今できる唯一の償いは、オリ・パラのスタッフを辞職することだ、ということくらい理解できるだろう。

もし、小山田氏が辞職に応じないのなら、組織委員会は彼を直ちに解任すべきだ。

これ以上、彼に「障害者に対する犯罪」を犯させてはならない。

今回の被害者は彼の同級生たちだけでなく、世界中から日本に集まったパラリンピアン、そして、世界中のすべての障害者の方々だ。

わからないのか?

 


苗場より

2020-08-12 19:44:00 | 日記
ちょっと用事があって苗場に来ている。

今から12年くらい前(だったと思う)に買ったリゾートマンションだ。
とこう書くと、すぐ、
「このブルジョワ野郎め!」
とかチャチャが入るのだが、別にブルジョワでも金持ちでもない。
なんせ、購入金額は(家具込みで)100万円だった。
中古車以下の価格である。

売ってくれたのはご高齢の神田の歯医者さん。
バブル前に新築で購入されたそうだが、契約時に、「子どもも孫も、みんなこのマンションに泊まりに来て、スキーは苗場で覚えてね。もう、私もお迎えが近いから身辺整理しなくっちゃ。造り付けのカリモクの家具があるんだけど、どうせ他で使うわけにもいかないんだから、よかったら差し上げますよ」と笑って仰っていた。
というわけで、おそらく100万円の3分の1位は家具代である。
「私は新築時に3000万円で買ったんだけどねぇ。30年近くで30分の1になっちゃうとは思わなかったなぁ」とため息もついておられた。

ちなみに今は同じマンションの同じタイプの部屋が10万円で買えます。
まぁ、売却益とかをあてにしてるわけではないので、現在の市場価格が10万円だろうと300万円だろうとどうでもいいのだが。

神田の歯医者さんのとこと同様、わが家の子どもたちもスキーは苗場で覚えた。
子どもたちが小さかった頃はワンシーズンに何度来たかしれない。
夏は夏で近隣の越後湯沢に「鱒(ます)どまり」(↓)という川遊びができる絶好のスポットがあるので、毎年、夏・冬は苗場で過ごした。


(新型コロナのせいなのか、あいにくの雨だからか、今回は誰もいなかった。)

長男は小学校5年生になった頃から友だちと遊ぶ方が楽しくなってきて、次第に一緒に苗場には来てくれなくなった。
次男は今、小学校6年生。今回、「パパはちょっと苗場行くけど、一緒に行くか?」と誘ったが、「今年の夏は色々、忙しいから」とすげなく断られてしまった。

というわけで、昨日から一人苗場生活を満喫している。
本読んで、酒飲んで、音楽聴いて、気が向いたらその辺をふらふらして。
それはそれでまぁ、幸せな骨休めなのだが、子どもたちが小さい頃から毎年、来ていた苗場は、そこら中が子どもたちとの楽しい思い出でいっぱいだ。
小さかった頃の子どもたちを思い出すと、懐かしさで胸が締めつけられるほど切なくなる。

この記事のカバー写真は長男が小さかった頃、「川の始まりから、大きな川になるまでを写真で追いかける」という夏休みの自由研究で苗場を流れる浅貝川の源流の一つである旧三国スキー場の湧水をデジカメで撮りに行った際に見つけた、通称「ちょうちん岩」
奇岩である↓


年をとって涙もろくなってるので、当時、小学校2年生くらいだった長男と見た「ちょうちん岩」を見ただけでなんだか懐かしくて切なくて涙が出てきたりする。ヤバい。
いや、こんな(↑)奇岩見てポロポロ泣いてる50男って、どう考えてもヤバいだろ。

私に苗場の部屋を(家具付き100万円で)売ってくれた神田の歯医者さんも、最後に苗場の風景を仰ぎ見たときには、きっと同じように胸を締め付けられたんだろうと思う。
体験が記憶になって、記憶が思い出になるというのは、こういうことなんだろう。

苗場に来て、幼い頃の長男と次男の笑顔を思い出すだけで、(たとえ今はどんなに憎たらしいクソガキにメタモルフォーゼしていようと)嫌なことも腹立つことも全部忘れて今すぐ抱きしめたくなってくるから不思議である。

それにしても、今年は苗場プリンスホテルも、越後湯沢駅前(↓)も、ほとんどゴーストタウン状態だ。


新型コロナの感染防止で、日本中、「とにかく観光地に来るな!住んでる都道府県から出てくるな!」の大合唱なので当然といえば当然なんだけど、こういう風景を実際に目の当たりにしてしまうと、「新型コロナが収まるより先に日本中の観光地が全滅するんじゃないか」と心配になってくる。

私は「新型コロナなんてただの風邪」論者ではないが、それにしても、ちょっと今の日本の現状は行き過ぎというか、ヒステリックに過ぎるというか、心配を通り越して正直なところなんだか気味が悪い。
人混みや屋内公共機関ではマスクを着用して、こまめに手洗いとうがいをして、手指消毒も面倒くさがらずにして、お店とかは一度に入店できる人数を制限して、帰宅したらすぐにシャワー浴びて、それでいいじゃないかと思っている。
もう少しみんな冷静になって、経済と感染防止との両立を図れぬものか。

幼かった長男を連れてよく来た越後湯沢駅前のへぎそば屋「中野屋」さんもこんな状態である↓

かつては店の外にまで入店待ちのお客さんが溢れている有名店だった。

長男が「美味しい、美味しい」と天ぷらそばをおかわりし続けて、帰りの車の中で腹痛を起こしたのも懐かしい思い出だ。

もう、ああいう日々は二度と来ないのかな。
苗場も越後湯沢も、どんどんどんどん寂(さび)れてっちゃうのかな。

記憶が思い出に変わるのって、いつも突然で、あっけないんだな。




テラハ事件を考えてみる(3)

2020-06-06 21:57:00 | 日記
今回は、【3】木村花さんに対して実際に誹謗中傷をしていた臆病者たちの責任について考えてみる。
 
匿名でしか人を誹謗中傷できない。
ネット上で多勢の陰に隠れてしか意見を言えない。
そして問題が起こると慌てて自分のコメントを消して逃げ出す。
彼ら彼女らは人間として救い難いクズだ。
 
クズではあるが、可哀そうな人たちだとも思う。
自分のしていること、しようとしていることの意味を正しく考えられない低い知能。
リアルな世界で他者との健全な関係性を構築できない歪んだ人格。
行き過ぎた行為を諫めてくれる友人のいない孤独な人生。
一人寂しくスマホやパソコンに向かって、誰かを攻撃する言葉を打ち込み続けるだけの毎日。
 
「憐れ」という言葉は彼らのためにこそある。
 
 
この「憐れなクズども」に木村花さんの死に対する責任があるのは言うまでもない。
言うまでもないのだけれど、その責任を法的に問うのは実はとても難しい。
法的な責任を問いうるだけの発言なのかという問題と、法的な責任を問うための時間的な制約という二つの壁があるからだ。
 
マスコミでもネット上でも、「木村花さんを追い込んだ誹謗中傷」という一括りの言葉で彼らの(主として)Twitterにおける書き込みとその責任が論じられているけれど、問題の書き込みが「テラハという番組や出演者である木村さんへの感想」だったのか「批判」だったのか「意見」だったのか「脅迫や名誉棄損や侮辱」だったのかは、結局のところ、一つ一つの書き込みを確認していくほかない。
「匿名」という表現方法がどれほど批判されようと、「感想」や「批判」や「意見」を表現すること自体は犯罪でも何でもない。
そして、困ったことに、この「感想」なのか「批判」なのか「意見」なのか、それとも「脅迫や名誉棄損・侮辱」なのかの線引きはとても難しい。
 
例を挙げよう。
「テラハでの木村さんの振る舞いには正直、強い嫌悪感を覚えました」
というのは単なる「感想」に過ぎない。
「どんな理由があれ、彼の帽子を叩き落すという暴力行為をテレビで放送すべきじゃない」
というのは「批判」
「木村さんみたいなキャラは早く卒業させた方がいいんじゃないか」
「意見」だ。
逆に「死ね」は「脅迫」、「ゴリラ女」は「侮辱」だろう。
さらに真実に反する事実の摘示があれば「名誉棄損」だ。
 
では、「気持ち悪い」「卒業してほしい」「消えてほしい」は?
言葉としては木村さんを傷つける表現だけれど、書き込んだ人間にとっては単なる「感想」「意見」だ。
こういう表現に対してまで法的責任を追及する、というのはやはり行きすぎだろう。
 
さらに言えば、木村さんはたった一つのコメントに屈して死を選んだわけではない。
積み重なり続ける何十何百という言葉の暴力が遂に彼女の心の堤防を決壊させてしまったために彼女は死を選んでしまった。
だとしたら、彼女の死に対して責任を負うべきは、「最初に書き込みをしたクズ」か?
それとも「耐えに耐えてきた彼女を追い込んだ最後のコメントを書き込んだクズ」か?
あるいは「その間の無数の書き込みをし続けていたクズたち」か?
非難されるべきは、堤防に蟻の一穴を開けた者か、ロバが膝を折る直前に最後の羽根をロバの背に乗せた者か、ロバを鞭打ち歩かせていた者たちか。
 
自分以外の他者の表現の数や、その表現が向けられている被害者の心の限界度合いをリアルタイムで、あるいは正確に把握することなど誰にもできない以上、書き込みをしたすべての人間が等しく木村さんの死に対して責任を負うべきだというのも、それはそれで一つの結論ではあるけれど、集団リンチというやつは、責任を負う人間の数に反比例して責任を問われた人間が感じる罪悪感を希釈化してしまう。
数十人、数百人のクソ野郎が、
「ちょっと、今回はやりすぎちゃったね。でも、まぁ、俺一人で彼女を自殺に追い込んだわけじゃないから」
と思うのでは木村さんは浮かばれない。
 
責任追及のための時的限界というもう一つの問題もある。
 
少し専門的になるがしばしお付き合いを。
 
インターネット上の違法な匿名書き込みというのは、(1) 書込人が、(2) 自分の使っている通信キャリア(auとかドコモとかJCOMとか)を使って、(3) TwitterとかYahooや5chの掲示板などにアクセスして行われる。
だから被害者が書込人を特定しようと思ったら、この流れを逆に辿らなければならない。
まず、書き込みがされた掲示板やサイトを運営している事業者(Twitter社とかヤフーとか)に対して、各事業者ごとの専用の「発信者情報開示請求フォーム」を使って、問題の書き込みが行われた際に利用された通信キャリアの情報(IPアドレス)を開示するよう請求する。
たいていの運営事業者はこの請求に応じないから、次に、この運営事業者を相手方として裁判所に「発信者情報開示の仮処分」を申し立てる。
裁判所が申し立てを認めて開示命令を発令してくれれば、運営事業者は情報の開示に応じてくれるけれど、ここで開示されるのは「問題の書き込みが行われた際に利用された通信キャリアのIPアドレス」に過ぎないから、WHOISなどを使って開示されたIPアドレスがどの通信キャリアのものかを調べなければならない。
通信キャリアを特定したら、今度はこの通信キャリアを相手方として、裁判所に「発信者情報削除禁止の仮処分」というのを申し立てる。この場合の「発信者情報」は、IPアドレスだけでなく、それに紐づいている書込人の住所とか契約者名といった契約情報だ。「近いうちに正式な訴訟を起こして開示を求めるから、それまではこれらの情報を削除してはならない」という仮処分命令を裁判所から出しておいてもらうのだ。
この「発信者情報削除禁止の仮処分命令」が発令されたら、通信キャリアを被告とする正式な訴訟(「本案」という)を裁判所に起こす。
「被告の通信キャリアはこれこれこういう書込みに関する発信者情報(=契約者情報)を開示せよ」という本案判決をもらって、ようやく(1)の書込人が(たぶん)特定できることになる。

民事上の損害賠償請求をする場合だけでなく、告訴して刑事上の責任を追及しようとする場合でも同じ。警察は告訴状を持って行っても、よほどのことがない限り、「民事の手続きで発信者情報を開示してもらってくれ」と門前払いに近い塩対応しかしてくれないからだ。

最大の問題は、掲示板やサイトを運営している事業者も、通信キャリアも、IPアドレスといった書込みに関する通信ログを通常は3か月程度しか保存していない、という点だ。保存期間は1か月、なんていう事業者もある。
この1か月とか3か月というわずかな期間内に、被害者は手続きをすべて取らなければならない。
学校に行ったり仕事に行ったり、という日常生活を送りながら、素人がこれをするのはまず無理だ。
なので、結局、お金を払って弁護士に手続きを依頼することになるが、弁護士が手続きをしたからといって通信ログの保存期間が延長されるわけではないから、「時間切れ」で書込人にたどり着けないことも多い。
 
法的な責任が時間切れで問えなかったとしたら、あとはクズ野郎たちの人間としての責任を問うしかない。

「人間としての責任」?
人間としての良心も矜持も持ち合わせていない彼らに対して?
そもそも彼らは、そういう感情がないからこそ、安易に指先一つで木村さんを死に追い込んだのではないのか?
 
テラハ事件を受けて、現在、国会でこの発信者情報開示請求手続の改正が議論されているが、一番手っ取り早く、かつ、効果的な改正は、掲示板やサイトの運営事業者や通信キャリアなどのインターネット・サービス・プロバイダ(ISP)に対して、法律で通信ログの保存期間を「一律5年とか10年」と罰則付きで義務付けてしまうことだ。
それだけの時間があれば、被害者はゆっくり発信者情報開示手続きを取ることができる。
いったん、書き込みをしてしまえば5年あるいは10年間は法的な責任追及を受ける可能性がある」ということは、匿名で誹謗中傷を書き込む人間に対する心理的な抑止効果にもなるだろう。

良心の呵責というものが期待できない人間に対しては、結局、こういう方法で対峙するしかない。
 
このブログで再三再四書いてきたとおり、匿名で、インターネットというツールの陰に隠れて、ぐちゃぐちゃと人を誹謗中傷する人間を私は断じて認めない。
彼らのしている行為は表現の自由でもなんでもない。
 
けれど、そういう卑劣で臆病で無責任な人間はどんな時代のどんな社会にも必ずいる。
ITリテラシーの向上とか、綺麗ごとを並べ立てても彼らがいなくなることはないだろう。絶対に。
誤解を恐れずに言い切ってしまえば、私も含めて人間というのは、そういう卑劣で臆病で無責任なダークサイドを心の中に持っている生き物だからだ。
 
アナキン・スカイウォーカーがフォースの暗黒面に走ってダース・ベイダーに堕ちたように、人間は誰もがクソ野郎になる資質を持っている。
木村花さんは、無数のダース・ベイダーによって殺された。
第2の木村さんを出さないために今、必要なのは、性善説に立って愛と教育とフォースの力でダース・ベイダーたちをジェダイの騎士に戻すことではなく(それが大切なことは否定しないけれど)、ダース・ベイダーのマスクをはぎ取って素顔を晒すための時間的余裕を被害者たちに与えることだと私は思う。