つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

小平市

2019-10-26 21:30:00 | 晴れた日は仕事を休んで
第33回。小平市。

我が町練馬から新青梅街道を西に走ってわりとすぐなのだが、小平霊園くらいしか知っているところがありませぬ。
小平霊園には「シャボン玉」とか「赤い靴」の作詞家、野口雨情の墓とかもあるのだが、なんか、今ひとつ私の「日帰りツーリング心」に響かんのぉ。

小平という所は昔(江戸時代の初期。1654年頃)は水の便も悪く、人の寄り付かない無人の荒野だったらしい。
何がきっかけだったのか、そんな小平の土地を「開拓しよう」と思い立った酔狂者がいた。
武州多摩郡岸村(今の武蔵村山市)の小川九郎兵衛。
1656年。九郎兵衛は新田開発と馬継場の新設を幕府に願い出て、既に開削されていた玉川上水・野火止用水に続く小川分水の開削許可を受けるところまで漕ぎ着ける。

ところが。
「なんでわざわざ苦労してあんな荒地を耕さなきゃならないんだ」と誰も相手にしてくれない。
九郎兵衛は周囲に笑われながらも自分の夢を捨てず、遂には全財産を投げ打って農民を呼び寄せ開発を進めた。
このとき九郎兵衛が江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請して開山したのが醫王山小川寺(いおうざん しょうせんじ)。
境内の墓地には九郎兵衛の墓もある。

今ある1を10にするより、何もない0から1を生み出すことがどれだけ物凄いことか。

今では人口20万人近くを数える小平市も、最初はたった一人の男が何も無い荒野に水を引き、種を撒いたところから始まった。

三国志時代。空城になっていた合肥(がっぴ)に単身乗り込み、数年後には人口数万を超える魏国の重要軍事都市(※呉の孫権は10万の兵で100日攻めても合肥を落とせず撤退した)に育て上げた劉馥(りゅうふく)のような男が江戸時代にいたとは。

というわけで小川寺に行ってみました。
青梅街道に面した山門がいきなり見事です↓


禅宗のお寺らしい質素で凛(りん)とした佇(たたずま)いの本堂もなかなか。


境内のあちこちに菩薩や如来の石像があって見飽きることがありません。










小川九郎兵衛の墓はこちら↓


九郎兵衛の子孫は江戸時代の終わりまで代々、小川村(今の小平市)の名主を務めていた。
その小川家は小川寺からバイクで青梅街道を東に10分ほど走ったところにある「小平ふるさと村」の中に復元されている↓


この小平ふるさと村、こじんまりとした敷地内に小川家以外の建物や水車(今も動いてます)も復元されていて、お土産も買える。
かなりの穴場。








日本でブルーベリー栽培を最初に始めたのは小平市だということで、お土産にブルーベリージャムとブルーベリーケーキ、それに慶應義塾大学のイニシャル「K」の角六ベーゴマを買ってみた(よーく見ると「K」は最後の一つ)↓


ふるさと村の中をふらふら散策してたら、東京都の職員の方から呼び止められてアンケートに答える羽目に。
回答後に、「来年はオリンピックということで記念グッズを作りました。アンケートのお礼にどうぞ」とバッヂを貰いました↓


いや、でも・・・

マラソン、札幌に変更されちゃったぢゃん!








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