第10回。渋谷区。
若者の街っぽく語られる渋谷区ですが、実は2.26事件の首謀者たちが処刑された場所にある慰霊像とか、江戸の三大相撲のひとつ金王相撲跡とか、日本で初めて航空機の試験飛行が行われた日本航空発始の碑とか、明治神宮とか、大人の私(おっさんともいう)が歩き回っても魅力的な名所旧跡が多い。
ただ、今回、行ったのは恵比寿駅と目黒駅の間にある恵比寿南橋。通称、アメリカ橋。
ここ↓
歩道部分には、ちゃんと「アメリカ橋」と↓
恵比寿側↓
目黒側↓
橋のすぐ横はエビス・ガーデン・プレイス↓
アメリカ橋の横、エビス・ガーデン・プレイスは、今から35年前はサッポロビールの恵比寿工場だった。
そのすぐ近く。恵比寿駅から歩いて15分くらいの入り組んだ古い住宅地の木造おんぼろアパートに一人の貧乏な学生が住んでいた。
金がないので、昼は通っていた専門学校の授業の合間を縫って品川でオフィス向けの弁当の配達、夜は銀座の居酒屋で日付が変わるまで働いていた。
おんぼろアパートは玄関共同、トイレも共同。風呂はもちろんなく、10分くらい歩いた所に銭湯があった。
陽当たりは悪く、部屋に太陽の光が届くのは朝のわずかな時間だけ。
クーラーなどもちろんなく、夏は扇風機が送ってくるねっとりした温風に汗だくになりながら寝た。
おんぼろアパートの家賃はたしか1ヶ月29000円。
白内障が進んでほとんど目の見えない大家のおばあさんが電気メーターの針を読んで、店子たちに電気代を毎月請求していた。
あまりに毎月の電気代が高いので、不審に思った貧乏学生は東京電力に電話して、先月の電気代を聞いてみた。
彼が大家のおばあさんに払った額の1/3以下だった。
来月の家賃を払うためにアパートの隣にある大家の家を訪ねた際に、おずおずとそのことを切り出し、少しでもいいので払い過ぎた電気代を返してくれないかと頼んだ。彼にとっては1000円札一枚でも大切な生活費だった。
彼の話を横で聞いていた大家の娘(といっても50代くらいのおばさんだったが)が、「因縁つけるなら、こんな金返してやる!」と激昂し、彼の顔に、ぐちゃぐちゃに丸めた1000円札を2枚、投げつけてきた。
額(ひたい)に当たって大家の家の玄関の土間に落ちた2枚の1000円札を彼は黙って拾い、履き古したジーンズの尻ポケットに入れて大家の家を出た。
その夜、返してもらった2000円で300円のノリ弁を買った。
まだ1700円ある。一週間は生き延びられる。
買ってきたノリ弁を部屋で食べながら、貧乏学生は一人で泣いた。
あの時の盲目のおばあさんはとっくに他界しただろう。
おんぼろアパートは駐車場になっていた↓
彼が通っていた銭湯も今はもうない。
貧乏は嫌だった。
大嫌いだった母親の口癖、
「金が無いのは首が無いのとおんなじだ」
は真理だと思った。
親から毎月何十万も仕送りをもらい、毎週週末に六本木でパーティを開いて遊ぶ同郷の友人が羨ましかった。
この先、無名の専門学校しか出ていない田舎者が、東京で生きていけるのか。
将来は暗闇の中で、現在は四面楚歌で、出口が見えないおんぼろアパートで、付き合っていた彼女と日曜日ごとにセックスした。
ある夏の日、故郷から出張で東京に来た親父が彼の部屋に泊まりにきた。
翌朝、「母さんには言うな」と言って5万円を彼に渡して帰って行った。
嬉しかった。
おんぼろアパートも銭湯もなくなり、大家のおばあさんも、親父も母親も今はおらず、貧乏だった学生は今、四谷三丁目で弁護士をしている。
今から35年前。
アメリカ橋のすぐ近くの木造おんぼろアパートに一人の貧乏学生が住んでいた。
泣きながら食べたノリ弁の味を思い出させてくれるのは、今はもう、アメリカ橋だけである。
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