★星空日記コリメート風goo★

星や旅などの話題を「ひらい」が札幌から発信。2010年開設。2022年7月にteacupからgooへ引越しました。

北海道中央バスで通学した頃の遠い記憶

2025-01-27 06:00:00 | 家族の記事
 私が青森市から札幌市に転居したのは1967年(昭和42年)5月でした。青森市立筒井中学校2年生から札幌市立明園(めいえん)中学校2年生として転校。引っ越し当時の住所は中学校のすぐ北側、北23条東10丁目でした。

 その1年後、諸般の事情で札幌市篠路町内外太平団地に家族4人とネコさん1匹で転居。当時の内外緑地開発株式会社が造成した団地の一軒家を借りて居住。生まれて初めて風呂付きの家でした。


 中学3年生のときの生徒手帳と身分証明書です。画像を一部加工済みです。
 赤い丸が転居後の1968年の住所で、青い丸が転居前の1967年の住所です。中学3年生になった途端の転居だったため、転校することなく明園中学校まで越境通学していました。
 通学は自宅から20分ほど歩き、石狩街道のバス停「三番通」で中央バスに乗り「北21条東1丁目」で下車。中学校まで20分ほど歩くという片道1時間ほどの定期券通学でした。

 1968年の冬、明園中学からの帰り道でバス乗車後に居眠りしてしまい終点の「茨戸」で気がつきました。余分なお金を持っていないことからオロオロしていると、女性の車掌さんから「今度乗るときに払ってね」と言っていただき安堵しました。
 車掌さんは私のマフラーが緩んでいるのをきちんと締め直してくれ、バスから降りると気温は寒かったはずですが、優しかった車掌さんの対応で温かな気持ちで無事に帰宅できたことを今でもハッキリと覚えています。当時のバスには車掌さんが必ず乗車していました。今はワンマンバスが当たり前になっていますね。


 中央バスの札幌ターミナルです。2025年1月19日(日)に撮影。
 1968年当時と同じ場所です。街中に用事があって篠路町太平の自宅に帰る際は、この中央バスターミナルから乗車していました。茨戸・生振・厚田・浜益・幌などの札幌市外近郊路線はこの8番乗り場だったと記憶しています。
 なお、浜益線や幌線は2016年に路線廃止され、現在は石狩市が乗合バス形式で運用しているようです。


 乗車ホームは1番から8番あり、留萌・北見・網走・釧路などへ行く都市間高速バスが1番乗り場から7番乗り場、2025年現在は8番乗り場が市内北方面路線の乗り場になっていました。
 2025年1月19日に私が8番乗り場で待っている間、外国人観光客を大勢乗せた富良野行きが4番乗り場から発車して行きました。


 私が中学生の頃は、赤い丸で囲ったあたりが市内北方面路線の乗り場だったはずです。2025年現在では降車専用の場所となり、市内路線は8番乗り場になっていました。

 当時、茨戸行きのバスの多くは観光バスと同じ通路を挟んだ2+2の進行方向を向いた座り心地のいいシートでした。中央バスターミナルから茨戸方面へ乗車する際は、遠くの街まで行くような不思議な感覚になりました。市内路線のバスは対面式の座り心地がいいとは言えないシートでしたのでそんな風に感じたのかもしれません。
 少しだけ旅を感じながら中学校まで越境通学をしていたという50数年前の遠い記憶です。
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帯状疱疹とギックリ腰のダブルパンチ

2025-01-21 06:00:00 | 家族の記事
 前回のブログ記事 【 口径25cmドールキルハム望遠鏡(ファインダーの改良) 】からの続きで、今回は私の個人情報が満載された記事です。私の備忘録としても書いていますので、ご容赦ください。

 2025年1月1日(水)に発症した帯状疱疹で体の右側がまだ痛いなか、口径25cmドールキルハム望遠鏡の接眼部とファインダーの改良を終えた直後の1月13日(月)にギックリ腰が再発。
 昨年の2024年3月に続き3回目のギックリ腰です。泣きっ面に蜂、ダブルパンチとはこのことかー。

 帯状疱疹の痛みに加えギックリ腰の痛みで安眠できません。ギックリ腰を発症した翌日の1月14日(火)が帯状疱疹の再受診予約日です。ついでに整形外科も受診します。

 1月14日(火)の9時に自宅からゆっくり歩き札幌禎心会病院に到着したのは9時半。3階の皮膚科は空いていて9時40分に受診開始。受診予約した時刻より早く受診できて助かりました。
 発疹が増えておらず瘡蓋(かさぶた)状に移行していることから抗ウイルス薬の投薬は必要ないとのこと。
「帯状疱疹とギックリ腰らしい痛みが酷いので安眠できないんです」とA医師に伝えたところ、整形外科のほうで痛み止めを出してもらうことになりました。

 すぐに2階の整形外科受付けに行き「予約外の診察なので、結構待ちますよね」と受付けのお姉様に言うと、「ちょっと待ってくださいね」とパソコン画面を確認。
「ちょうど今は空いているので、診察室前で待っていてください」とのこと。ありがたい。

 診察室前で待っていると、何と1番目に呼ばれました。昨年3月に診てもらったE医師に「またギックリ腰になったようです」と伝え鎮痛剤などを処方してもらいました。



 この2薬はギックリ腰のための薬です。


 この薬は帯状疱疹のための鎮痛薬です。

 今回の受診は基幹病院で予約外の診療もあったことから診察が終わるのは昼過ぎを覚悟していましたが、調剤薬局で薬をもらい帰宅したのは10時半。拍子抜けする速さでした。

 しばらく休養しなさいという神様のありがたいお言葉と捉えておきます。(笑)
 幸いにも口径25cmドールキルハム望遠鏡の改良が1月13日で一段落したので、痛みに耐えながらネコさん動画を見たりして静養することにします。

 皮膚科と整形外科を受診した2日後の1月16日(木)には痛みのピークが6/10に達し、翌日からは少しずつ痛みが和らいできました。発疹の赤みも少しずつ薄くなってきています。このブログ記事を投稿した1月21日(火)の朝では痛みが4〜5/10ほどになりました。

 今回の痛みは少しずつ低減しているとはいえ、ギックリ腰によるドーンとした重い感じの腰痛と帯状疱疹による右上半身のビリビリした痛みが合算され、今後も長期間のお付き合いが続く予感がします。星を見に行く遠征はもう少しお預けです。


【1月21日10時20分:記事追加】
 調剤情報をブログに詳しく書いたことから、開成高校同級生のI医師から服薬について貴重なアドバイスを頂戴しました。ありがとうございます。
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帯状疱疹の再発か?

2025-01-09 06:00:00 | 家族の記事
 今から40年前の1985年5月から札幌市南区郊外の滝野という場所に個人用の天体観測所を作っていたとき、作業を開始して3ヶ月後の8月に帯状疱疹を発症しました。
 仕事がシステムエンジニアと忙しかったことに加え、休日になると朝早くから夜まで土木作業と建設作業で疲労が溜まっていたからだと思います。


 自分の観測所を持ちたい一心で、日没後も鉄骨に錆止めを塗っている私です。この数日後に発症しました。
 40年前は左の脇腹に見事な発疹が肋骨に沿ってというか神経に沿って並び、軟膏を塗布し2週間ほどで軽快した経緯があります。その頃は30歳代と若かったので早めに治ったようです。


 時は流れ、2025年の初日の出を新ひだか町の海岸で見終え、帰宅して元日の夕飯を食べていた時のこと。
 右腕の脇の下にちょっとした痛みを感じました。疲労かなと思い早めに就寝。

 1月2日(木)、起床すると右足大腿部にもピリピリとした痛みが出始め、40年前の痛みと似ていたことから帯状疱疹の再発を疑いました。
 元日夜から2日朝に見た初夢はとてもハッピーな良い夢だったのに、現実は帯状疱疹かとガッカリです。

 1月3日(金)、痛む範囲が右肩全体と右脇腹にも広がり、右腕上部に15mm×7mmほどのウイルス性と思える発疹が出ていました。素人判断ですが帯状疱疹に違いないと思いました。

 1月4日(土)、ヒリヒリとした痛みが鈍痛に変化し痛みも3/10ほどの増加。寝返りするたびに痛むため安眠ができません。体温は平熱のまま。

 1月5日(日)、右脇腹にも35mm×15mmの発疹。背中の右側にも広い範囲で発疹が出始め、以上の経過をメモ書きした紙を持って休日当番病院に通院。偶然ですが、私が高血圧治療で定期通院している札幌禎心会病院がこの日の休日当番病院でした。


 私のメインバンクならぬメインホスピタルの札幌禎心会病院です。9時半に病院到着。日曜日の基幹病院なので激混みでした。受付番号は132番。どうやら私の診察は午後になるようです。


 診察待ちで溢れかえる場所から離れ、人がほとんどいないスペースでブログ記事の下書きを書いたりコーヒーブレイクして待ちます。100mほど奥の診察室前は椅子に座れない受診者さんが床に座わるなど大混雑しています。

 30分おきに診察室前のディスプレイで診察の進行状況を確かめました。受付番号の推移をみると、30分間で8人分しか進みません。私の診察時刻は15時過ぎと推察。まあ、これはある程度予想していたことですが、具合が相当悪い人もいて待つのも辛そうです。

 昼少し前から医師が増員されたようです。どんどん順番待ちが減っていき、私の診察開始は13時ちょうどでした。
 救急診察は以前の私の高血圧治療の主治医H先生でした。お久しぶりですと挨拶し経過メモと発疹を見てもらうと「お察しのとおり帯状疱疹ですね」と確定診断。H先生は非番でしたが応援要員として急きょ駆り出されたとのこと。医師も大変です。H先生から「今週中に皮膚科を必ず受診してくださいね」と再受診を促されました。

 会計を終え当番調剤薬局に向かうと、待合スペースが凄い人混みです。最低でも30分お待ちくださいとのこと。病院に戻り先ほどの休憩コーナーで昼ごはん。50分後に調剤薬局へ行き処方された7日分の抗ウイルス薬を手に、帰宅したのは1月5日(日)14時半でした。

 1月6日(月)、母の在宅訪問診療の主治医S先生に母の体調のことで電話すると、
「ひらいさん、帯状疱疹になったんだね」とS先生からいきなり告げられました。
「えっ、どうして知ってるんですか?」と電話口で聞いたところ、
「グループ系列の禎心会病院が激混みだと聞いて電子カルテを見ていたら、ひらいさんが帯状疱疹で受診したのを見つけたんだよ」とのこと。これにはビックリ。
 母の在宅訪問診療の際には私の体調も気遣ってくれるS先生のことを「セカンドオピニオンなどを相談できる私の家庭医」だと勝手に思っています。(笑)

 1月7日(火)、禎心会病院の皮膚科を受診。もっと強力な抗ウイルス薬と軟膏が処方されました。日曜日の激混みに比べると皮膚科はとても空いていて通院・受診・会計・調剤薬局・帰宅に要したのは1時間半でした。しばらく静養します。
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2024年の年末から25年の年始にかけての出来事

2025-01-03 06:00:00 | 家族の記事
 我が家の2024年末から2025年始の様子を書いておきます。


 母が作ってくれた年越し蕎麦を頂き、札幌の自宅を12月31日(火)の22時過ぎに出発。この頃は雪がちらほら降る程度。

 出発直後から降雪が急に激しくなってきました。


 国道36号線の清田区を通過する頃には吹雪模様となり、ワイパーの両端には氷結した雪が徐々に固まっていきフロントガラスの視界が狭くなってきました。信号待ちしている間に撮影。
 フロントガラスに氷結した雪を落とさないと危険になってきたので、途中のコンビニ駐車場で氷を取る作業をしました。

 北広島市に入ると雪が止み、千歳市に入ると星がチラホラ見え始め、1月1日0時の時報は新千歳空港の傍を通過中でした。


 2時15分に新冠町の高台に到着。望遠鏡を組立てし、経緯台モードでのアライメントを行いました。気温はマイナス7度。

 何度試行錯誤してもアライメントがうまくいかず、何度も繰り返しているうちに薄明が始まったので5時20分ごろ撤収し、初日の出が見やすい場所へ移動。


 新ひだか町の海岸線に到着したのは日の出20分前の6時40分ごろ。

 なお、初日の出の様子は1月1日のブログ記事 【 2025年、初日の出 】に書いておきました。

 初日の出を無事に見終え、帰路の途中にある温泉で冷え切った体を温めてから帰ることにしました。


 鵡川町の道の駅に到着したのは9時20分ごろ。
 温泉の営業開始は10時からなので車内で仮眠します。

 10時になり520円の料金を支払おうとしたらJAF会員割引きがあるとスタッフから教えられ、420円で入浴できました。


 入浴後、休憩スペースで休憩。元日の日差しが穏やかです。休憩スペースは空いていました。

 休憩後、母へのお土産を大人買いし自宅へ向かいました。13時30分に札幌の自宅に到着。往復走行距離は331kmでした。


 1月1日(水)の夕飯です。母が頑張って作ってくれました。

 私は12年前に年賀状を出さないことを知人に宣言済みなので、年末年始は年賀状の心配から解放されています。

 今シーズンは珍しく忘年会と新年会のお誘いがないなあと寂しく思っていたところ、天文指導員のOBさんから1月2日(木)の新年会のお誘いがありました。とても嬉しいです。


【2025年1月3日7時:記事追加】
 サイバー攻撃の影響で1月2日午前5時半ごろからgooブログにはアクセスできなくなり復旧を急いでいる旨のニュース報道がありました。
 1月2日17時でもアクセス不能でしたが、18時になってアクセスできるようになりました。しかし、1月3日7時現在になってもリアクション表示など一部の表示がなされないなど完全復旧にはなっていないようです。
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99歳になった母の誕生日と私の誕生日

2024-10-25 06:00:00 | 家族の記事
 1925年(大正14年)生まれの母は2024年10月で満99歳になりました。白寿です。

 ささやかですが、ケーキでお祝いしました。


 夕飯の支度は母がまだ対応してくれています。母は「生きるのに疲れたー」と言っていますが、鬼息子の私は母をこき使ってます。(笑)

 夕飯は母の希望でファミリーレストラン「とんでん」の握り寿司をテイクアウトしてきました。美味しそうに食べ、残った分を私が日本酒の獺祭(だっさい=高級酒です)を飲みながらいただきました。

 母は徐々にですが体力が落ちてきているので、手摺りの増設が必要になってきました。増設の様子は近日中にブログアップの予定です。


 なお、高級酒「獺祭」の一升瓶は9月の私の誕生日に星仲間のM.Sさんから贈られてきたものです。ありがとうございます。感謝しながら晩酌を楽しんでいます。
 右側の赤い袋は誕生日に搭乗したJALのCAさんからプレゼントされたA350の航空機プラモデルとメッセージカードです。搭乗の際に私からは何もCAさんに伝えていなかったのですが会員登録情報で分かったようです。CAさんからのプレゼントを手渡しされた際、座席のお隣の方からも「誕生日おめでとうございます」と祝福していただきました。

 余談ですが、9月の敬老の日に地域の民生委員さんがお祝い金を持って自宅まで来てくれました。
「いつも母にありがとうございます。」と民生委員さんに謝意を伝えると、「これは息子さんの分ですよ。」と言われ苦笑してしまいました。そうです。私もめでたく老人の仲間入りを果たしました。(笑)
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