僕はその飲み会の席で恐る恐るミハラに接近し、安物の刺身を前にミハラに率直に尋ねたのだった。何故、政治家になりたいのか。
ミハラは信じてもらえるかどうか戸惑い気味の様子で話してくれた。
今では広く知られていることだが、そのとき初めてキハラには重度障害の弟がいることを知った。
キハラは見てのとおり、背が高く二枚目でハンドボール部のキャプテンで学歴も申し分なく、その上、就職先も当時人気ナンバー1だった国民航空だ。口に出して比較せずとも、それが弟と対局にあることは明らかだった。背が高く二枚目であること以外は本人の努力の結果だが、そのことが彼を苦めていたかもしれない。いや、彼の幼少期を想像すると、健康な自分と障害を持った弟を見ながらの生活が彼に大きな影響を与えていたことは間違いないはずで、そして、それが政治家を志す大きな原動力になったことが容易に推測できた。
話しをもう少し詳しく聞くと、政治家を意識し始めたのは高校生の頃で、だから大学では歴史を専攻したとのことだった。また、いずれ政治家になるのであれば資金が必要であるから、一番給料の高い国民航空に就職したと、そして、パイロット候補にもなったがリスクを避けるため地上勤務を志願したこと、さらに勤務部署で社長賞を受賞したこと。
三原は淡々と話したのだった。
もう、その話で十分だったが、ミハラはその後退職し、政治塾に入り勉強しながら機を待って、この県の第一選挙区の民自党公認候補者の公募に応募したとのことだった。
こう言うのを筋金入と思った。コイツは半端じゃねぇ!。
ただ、そうした政治に関わる話は当時の我々にはまだ早かったように思う。ミハラもそれは感じていたのかもしれない。ミハラは自分のことをその席では殆ど語っていないのではないかと思う。ただ、ミハラは自分のことを話すのが苦手なタイプであることは、どうも間違いないようである。
我々の転機はなんと言っても小泉旋風が吹き荒れた2005年夏の衆議院議員選挙だった。ミハラの存在が政治を身近にし、ミハラ自身のこともようやく我々に浸透しはじめた頃だった。
梅雨が明けた夏のある日、同級生が勤務する会社の会議室に10人弱の男達が集まった。その男達は、同級生で組織する1988年の卒業年に因んだ「88会」の役員メンバーであり、招集を呼びかけたのは他ならぬ勝山だった。ただ、その会合から遡ること数週間前、勝山は88会の代表をホームページ上で突然辞ししていたのだった。その理由を我々は既に知っていたが、詳細については勝山の口から直接聞いておく必要があった。
勝山は深妙な面持ちで自分がミハラの後援会長を引き受けたことを話した。それは、ミハラの強い要望であると同時に、選挙戦略上の「都合」でもあった。
我々同級生たちは、昔から勝山を中心にまとまったような仲間だった。勝山が後援会長になるということは、自分達がどういうことになるのか想像に難くないことだった。我々に動揺が走ったのは言うまでもない。しかも、選挙、政治はど素人の当時36歳の集団だ。漸く社会的責任が生まれ、それぞれの家庭では子供はまだ小さく、それでいて遊びたいさかりの年代だった。
ミハラは立派なヤツだけど、俺たち、ミハラのことは実際よく知らんし、急に選挙といわれてもねぇ~、これが最初の印象だった。
しかし、勝山のいつもの強引と言おうか同情を誘うほどの熱心な言動に、我々同級生は否応無く「選挙」に巻き込まれていっただった。
このようにして、僕や周辺の同級生は選挙に巻き込まれていったのであるが、正直に言えば、活動の出発点は同級生や地元といった「シガラミ」にあると思うのだ。最初から崇高な目的など殆ど無かったと言ってもいい。しかし、活動に関わっていくうちに、我々の意識は次第に変化してゆき、社会や政治のあり方について真剣に考えるようになったのだと思う。そして、それは僕自身にも大きな影響を与える結果となった。このように、選挙ドキュメンタリーを書いていることも、その影響の現れの一つなのだ。
選挙や政治活動に関わることは、感情面においてはマイナスになることもあると前記したが、ドッコイその反対で、実は意識の変化に伴って言動も変わり、自分自身の成長に繋がっていくという側面を僕は経験することができたように思うのだ。そのことについては、後に触れることにする。
続く、、、
ミハラは信じてもらえるかどうか戸惑い気味の様子で話してくれた。
今では広く知られていることだが、そのとき初めてキハラには重度障害の弟がいることを知った。
キハラは見てのとおり、背が高く二枚目でハンドボール部のキャプテンで学歴も申し分なく、その上、就職先も当時人気ナンバー1だった国民航空だ。口に出して比較せずとも、それが弟と対局にあることは明らかだった。背が高く二枚目であること以外は本人の努力の結果だが、そのことが彼を苦めていたかもしれない。いや、彼の幼少期を想像すると、健康な自分と障害を持った弟を見ながらの生活が彼に大きな影響を与えていたことは間違いないはずで、そして、それが政治家を志す大きな原動力になったことが容易に推測できた。
話しをもう少し詳しく聞くと、政治家を意識し始めたのは高校生の頃で、だから大学では歴史を専攻したとのことだった。また、いずれ政治家になるのであれば資金が必要であるから、一番給料の高い国民航空に就職したと、そして、パイロット候補にもなったがリスクを避けるため地上勤務を志願したこと、さらに勤務部署で社長賞を受賞したこと。
三原は淡々と話したのだった。
もう、その話で十分だったが、ミハラはその後退職し、政治塾に入り勉強しながら機を待って、この県の第一選挙区の民自党公認候補者の公募に応募したとのことだった。
こう言うのを筋金入と思った。コイツは半端じゃねぇ!。
ただ、そうした政治に関わる話は当時の我々にはまだ早かったように思う。ミハラもそれは感じていたのかもしれない。ミハラは自分のことをその席では殆ど語っていないのではないかと思う。ただ、ミハラは自分のことを話すのが苦手なタイプであることは、どうも間違いないようである。
我々の転機はなんと言っても小泉旋風が吹き荒れた2005年夏の衆議院議員選挙だった。ミハラの存在が政治を身近にし、ミハラ自身のこともようやく我々に浸透しはじめた頃だった。
梅雨が明けた夏のある日、同級生が勤務する会社の会議室に10人弱の男達が集まった。その男達は、同級生で組織する1988年の卒業年に因んだ「88会」の役員メンバーであり、招集を呼びかけたのは他ならぬ勝山だった。ただ、その会合から遡ること数週間前、勝山は88会の代表をホームページ上で突然辞ししていたのだった。その理由を我々は既に知っていたが、詳細については勝山の口から直接聞いておく必要があった。
勝山は深妙な面持ちで自分がミハラの後援会長を引き受けたことを話した。それは、ミハラの強い要望であると同時に、選挙戦略上の「都合」でもあった。
我々同級生たちは、昔から勝山を中心にまとまったような仲間だった。勝山が後援会長になるということは、自分達がどういうことになるのか想像に難くないことだった。我々に動揺が走ったのは言うまでもない。しかも、選挙、政治はど素人の当時36歳の集団だ。漸く社会的責任が生まれ、それぞれの家庭では子供はまだ小さく、それでいて遊びたいさかりの年代だった。
ミハラは立派なヤツだけど、俺たち、ミハラのことは実際よく知らんし、急に選挙といわれてもねぇ~、これが最初の印象だった。
しかし、勝山のいつもの強引と言おうか同情を誘うほどの熱心な言動に、我々同級生は否応無く「選挙」に巻き込まれていっただった。
このようにして、僕や周辺の同級生は選挙に巻き込まれていったのであるが、正直に言えば、活動の出発点は同級生や地元といった「シガラミ」にあると思うのだ。最初から崇高な目的など殆ど無かったと言ってもいい。しかし、活動に関わっていくうちに、我々の意識は次第に変化してゆき、社会や政治のあり方について真剣に考えるようになったのだと思う。そして、それは僕自身にも大きな影響を与える結果となった。このように、選挙ドキュメンタリーを書いていることも、その影響の現れの一つなのだ。
選挙や政治活動に関わることは、感情面においてはマイナスになることもあると前記したが、ドッコイその反対で、実は意識の変化に伴って言動も変わり、自分自身の成長に繋がっていくという側面を僕は経験することができたように思うのだ。そのことについては、後に触れることにする。
続く、、、