1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

誇り高き選挙バカ 最終回

2013-01-02 02:58:00 | 雑談の記録
勝利報告のセレモニーが散会となり支援者が笑顔で事務所を後にしていきました。中には鏡割りやその後の乾杯がなかったことについて訝しげに呟く支援者の方がいましたが、車で来場している支援者のことを考えた新しいスタイルの勝利セレモニーだったと納得されているようでした。事務所の入口ではライトに照らし出された木原代議士が報道陣に囲まれインタビューに答えていました。ボクは喫煙所で一服していたのですが、隣にいた舎弟風の若者を連れた強面の男性が話し掛けてきました。「ぬしゃ、よかったぞ」二人は他の強面衆と高級乗用車に乗って駐車場を出て行きました。
インタビューも一段落し、入口付近に集まった有志のみんなで木原代議士を胴上げしました。続いてK団長も胴上げされ、もう何回見たかわからないK団長の涙顔にボクは大爆笑したのでした。そして、K団長はボクを思いっきりハグしたのでした。タバコくせぇのなんのって!

まだ、10時頃だったかと思います。我々有志は場所を繁華街に移して慰労会を行いました。有志諸君のはち切れんばかりの笑顔と自信に満ち溢れた表情が忘れられません。仲間をこれほど誇り高く思ったことがあったでしょうか。有志諸君は自分の利害に関係なく、中には害にしかならない有志諸君も含まれていましたが、我々は、出来ることを精一杯やったことに違いありませんでした。本当に嬉しくて仕方がありませんでした。
同級生の有志からは最後の挨拶について酷いダメ出しを喰らいましたが、後輩諸君からは半分はお世辞と思われる大絶賛の評価を頂きました。
「センパイの挨拶は、マジでカッコ悪かったっすけど、マジ、カッコよかったっス!」
後輩の有志諸君は、ボクがなぜ子供のメダルを木原代議士に渡したかという意味をボク以上にうまく説明してくれました。本当に嬉しく思いました。

興奮もあったのですが、睡眠不足に空きっ腹でした。酔いはアッという間にまわり、ボクは気を失いかけていました。そして、木原代議士が現れました。胸にはメダルが掛けられていました。安っぽいメダルです。ですが、ボクはそれを目にしたとたんに嬉しくて涙が溢れてきました。テーブルに突っ伏して泣いてしまったように思います。

酔いが限界に達しました。明日は仕事の予定で、車に乗らなければなりませんでした。酒量からすると既に明日の運転は厳しい状況にありました。ボクは席を立ち、木原代議士に軽く挨拶をするとその一座を離れました。靴を探しているとメダルをつけた木原代議士が現れました。
「ニシ、これほんとにこれ貰っていいとや」
「いいに決まっとる!うちには他にもメダルはイッパイあるけん心配すんな!もう、やったもんだろが!」
どこまでも真面目なその姿勢に酔いが醒めてしまうそうでしたが、勢いで付け加えました。
「オマエがおったけんじゃなか、みんながおったけんばい、それば忘れんなよ!」
ずいぶん前からキハラに言いたかった言葉です。ボクはレロレロになりながらも忘れずに言うことができました。
しかし、そう言ったあとに、心の底から本当に言いたかった言葉が湧いてきていました。

しかし、その言葉はその場所で言うことはできませんでした。
それが言えない自分が情けなくなりオロオロと店を出たのでした。

後ろからM上君が追いかけてきました。いつもみんなにイジリ回されているM上君でした。
「西君!よく頑張ったね!ほんと!今日はボクが送っていくよ!」
確かに、今日はタクシー代も持っていませんでした。M上君の申し出に甘えることにしました。M上君!あのときはありがとう!

翌日は出勤し、朝のミーティングではお礼の挨拶をすることができましたが、アルコールが残っていたために出勤はカミさんに送ってもらい、打合せに向う車もその日は社長に運転を務めてもらいました。

そして、投票日の翌々日からこの選挙バカシリーズを始めたと思うのですが、最初から決めていたことがありました。

それは、慰労会のときに木原代議士に言えなかった言葉を書き記すことでした。

キハラ、本当はオマエがおったけん、オマエがおったけん出来たことた、オレはいっぱい学ばせてもろうた、オマエには礼ば言わにゃいかん、ありがとう。そしてオレはオマエを信じているからな。

しかし、文章にすると何と陳腐この上ないことでしょうか。
ガックシです。泣!

今度、木原代議士にあって直接言わなければなりません。笑!

この選挙バカシリーズもいよいよ終わりです。
個人的な記録ですが、ここまで読んで下さった読者の皆さんに心から感謝申し上げます。

本当にありがとうございました。
これからも宜しくお願い致します。

平成25年1月2日未明
西 英典
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誇り高き選挙バカ×41

2013-01-02 02:44:00 | 雑談の記録
事務所は既に支援者と報道陣でいっぱいでした。駐車場もテレビ中継用の大型車によって殆んど占拠されていました。
カミさんと運転を交代して事務所に向かいました。中は熱気に満ちていましたが冷静な空気も僅かに残っていました。また、当確の安堵感が漂うものの、実際は開けてみなければわからなないという微妙な不安感も薄く混じったような状態でした。

ボクはまずK団長を探しました。恐らく撮影を試みているはずで、報道陣のカメラが所狭しと並ぶ事務所後方を首を伸ばして探してみました。奥に入って行きましたが、K団長の姿を捉えることはできませんでした。
ひょっとしたら直ぐにでも勝利報告のセレモニーが始まるのではないかとの懸念がよぎりました。報道スタッフも中継準備に余念がない状況でした。ボクは選挙長の松村先生を探しました。事務所の入口付近に松村先生を見つけると、人ごみをかき分けて先生のところに進み出ました。
「先生にお話があるのですが、少し時間はあるでしょうか」
先生は直ぐに踵を返すと、ボクを2階に通じる人気のない階段の踊り場に連れて行きました。ボクは余計ないことは一切言わずにポケットから息子のメダルと原稿を取り出して、これをキハラに渡したいのですと言いました。
先生は人差し指を鼻に当て、いっとき間をおくと、「喋りたいってことね」といって階段を降りていきました。そして、先生は振り向くとついて来いと目配せするのでした。松村先生は選挙対策本部長の藤川先生をスタッフに呼ぶよう頼んでくれました。藤川先生は事務所の奥から前のめりになってテレビにかじりついている支援者の人たちの前を腰をかがめながらこちらに向かってきました。松村先生は耳打ちするように話すと藤川先生はフンフンと頷きました。藤川先生は、お前かぁという苦笑いとも言える笑みを見せると式次第が書かれた紙を見ながら、「それじゃぁ、花束贈呈の後でいいか、前のほうに座っててね」と自分に言い聞かせるように言いました。そして、松村先生は一転厳しい表情になって「短かくね!」と言って自分の持ち場に戻って行かれました。最後の役目が決まった瞬間でした。

事務所の一番奥でカメラの準備をしているK団長が目に入りました。ボクは支援者と報道カメラの狭い間を縫うようにしてK団長に向かって歩きました。K団長と目が合いました。とたんにK団長の涙腺が緩むのがわかりました。ボクらはがっちり握手を交わし、そしてこれからの自分の役目を話しました。最後はどんなふうなるかわからないけど、このメダルはオマエがキハラに渡すようにと話したのでした。K団長は目を真っ赤にしながら何度も頷いたのでした。

その後、ボクは後輩諸君の計らいで正面向かって左側の最前列に座りました。振り向くと同級生の一団は中央付近のやや前列側の真ん中付近に座っていました。喋りかけるのには遠すぎる距離でした。その頃には支援者もぞくぞくと入場してきて奥の休憩場所となっていた所も支援者で埋め尽くされていきました。当初、ボクの隣にはキレイな後輩女性がいていつもだったら軽口をたたいていたと思うのですが、それも出来ずにいるといつの間にか周囲は強面の男性陣に取り囲まれていたのでした。

緊張していました。本当に緊張していました。ボクの斜め前付近に座っていた校区の後援会長であるS田さんがボクの様子を見て心配になったのかもしれません。ボクの前に膝まついて両手をボクの膝にのせると、もう時期ちゃんと発表があるよと言ってくれたのでした。ボクはS田さんのシワくちゃの手に自分の手を添えると、そうですねと返事をし、これまでのことについて簡単にお礼を言い添えました。

会場が一斉に喚起の渦となりました。木原候補の登場でした。どの時点が本当の当確かボクにはわかりませんでしたが、もう全ては間違いではなかったようです。心の中では「花束贈呈の後だぞ」を何度も繰り返していました。岩永後援会長の紹介とともに岩永先輩が元気良く右手を挙げて「ハイっ」と言いました。そうだ、元気よくハイって言わなくちゃ言わなくちゃ、、、、花束贈呈が終わり写真撮影が終わり、、、気持ちだ!これしかねぇ!、、、藤川先生が紹介してくれました。

「ハイっ」

後は動画を見ての通りです。
なぜ、みんなが笑うのか全くわかりませんでした。
ほぼ絶叫しているだけの見苦しい姿なので仕方のないことかもしれませんが、みんなに笑われれば笑われるほど、絶叫して気持ちを伝えることしかできなかったのです。最後はもうメチャクチャでした。K団長を壇上に呼んだものの、すし詰め状態の中、こちらにやって来ることの遅いこと遅いこと。ボクは一刻も早く壇上を降りたくて、、、、。

パイプ椅子にようやく戻れました。鼻水まで垂らしていました。また、バカをやってしまったという思いと、最後のK団長のエールこそがボクの夢見ていた瞬間でした。涙が止まりませんでした。

木原代議士の話は耳には入ってきませんでした。いつの間にか勝利報告会は散会となっていました。たくさんの人たちが良かったね良かったねと握手をしてくれるのでした。こちらこそ、良かったですねという気持ちでした。
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誇り高き選挙バカ×40

2013-01-02 02:32:23 | 雑談の記録
投票日は穏やかな天候でした。ボクは朝から仕事の予定で仮眠を取ってから会社へ向かいました。日曜なので当然人はいないのですが、その日はワックス掛が予定されていたらしく、事務所にはビル清掃の業者さんがいました。業者さんとはその日の選挙戦の行方について話し、ワックスが乾くのを待って事務所に入りました。ピカピカに輝く床の室内で、静かに一人で仕事をするのは悪くない気分でした。その日は本当に穏やかな日で窓を開けていても寒さは感じられず、差し込む日の温かさに今日が投票日であることが信じられませんでした。翌日の打合せ資料が完成したのは午後4時頃でした。開票の時間はまだですが、選挙戦の趨勢はほぼ決まっている時間だと思いました。

最後の作戦へ向けた準備が必要でした。しかし、その準備も選挙に負けてしまえば無に帰するものでした。
ボクは家に戻り、リブビングのテーブルにA4用紙を置いて正座をしました。そして昨晩の決意の瞬間から考え始めた言葉の数々を幾度となく反芻し、それと同時に半月に渡った選挙活動における様々な光景がボクの脳裏をよぎっていくのを感じていました。

言葉を発するのは他でもない肉体です。であるならば、その原稿も肉体によってしか生み出すことはできない。そう思いました。
さらに、勝利者にふさわしいものは何か、そしてそれを贈るのであれば誰が一番ふさわしいのか。

やはり、ずいぶんと時間を要しました。

原稿は十数行にしか満たない短い文章でしたが、時間も差し迫っていました。同級生には7時頃に事務所に行くと約束していましたが、気がついたときには時計の針は間もなく8時を指そうとしていました。ボクは、カミさんにバレないように玄関に飾ってあった息子のメダルを上着のポケットに忍ばせました。そして、カミさんと一緒に家を出たのでした。

車に乗り込もうとする時でした。携帯電話が鳴りました。液晶画面には普段見慣れない父の名前が表示されていました。父は、キハラが当確になったことをボクに告げました。まだ8時を過ぎたばかりで信じられませんでしたが、テレビ局の速報ではそれを知らせているとのことでした。キハラの当確の話はある意味嬉しいことに違いはありまんでしたが、これまでの2回の選挙や様々な方面から聞いていた状況を考慮すると、この時点では喜ぶに喜べない気持ちでした。
ボクは無愛想に電話を切りましたが、父から電話を貰ったことは少し嬉しく思っていました。父は昔からボクがなすことの全てにケチをつけて、自分の経験と照らし合わせてボクの劣っているところをあぶり出すと同時に自分がいかに優れているかを長々と話す、そこら辺にいる「オッサン」となんら変わらない人物なのですが、今回は本気で気に掛けてくれていたのでした。

しかし、キハラ当確の知らせは、これからやろうとすることの現実味を増幅させることと同義でした。運転している手足から次第に血の気が引いていくのがわかりました。
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誇り高き選挙バカ×39

2013-01-02 00:10:44 | 雑談の記録
こうして、投票前日の夜は電話とショートメール作戦で朝方近くまで最後のミッションに明け暮れたのですが、電話作戦中に一本の電話が入っていたのでした。
電話の主は今回始めて選挙ボランティアに携わったT口君でした。T口君は、今夏、済済黌野球部が甲子園への切符を手にするまでの県予選の殆んどを観戦、応援をしていました。そして、昨秋の大会から始まった済済黌野球部の試合をFB上で実況中継し続けた通称ヤーテツチャンネル(同級生でエースだったY下君の名前に因んだネーミングで名付け親はT本君)の帯同メンバーの一人であり、甲子園バスツアー企画のほか、その後の記念反省会の立役者でした。今回の選挙では、時間の許す限り事務所でボランティア作業をする一方、外の活動ではスーパーカブにまたがり一人で驚異的な成果を挙げたうえ、合い言葉は「よろしく!メカドック!」の元気一番の同級生でした。

電話の内容は感情のトラブルとも言うべき問題でした。T口君は今回の選挙戦におけるいろんなことを率直に話してくれました。ボクもその話に大変共鳴したのでした。自分も以前PTAや息子の野球チームの運営に深く関わっていた頃に経験していたことに加え、それはどこの職場においても起こり得ることだからでした。
「、、、悪いけど、一番頑張ってるニシ君が、馬鹿に見えてくるとよ、、、」
電話のやり取りとは言え、T口君の感情の昂ぶりはボクの心に深く食い込んでくるのでした。
「、、、その気持ちは、キハラに直接言うべきことのような気がする、、、」
確かではないですが、そのように答えたように記憶しています。
実際のところ、今回の選挙でも大小長短はあるもののいろんな人から感情的になった言葉や愚痴を聞かされいました。それは、我々が感情の生き物である以上仕方のないことなのですが、それこそがボランティアに携わる我々の「苦労」にほかならないと思うのです。
選挙ボランティアであるので、中には利害にまみれながら作業に精を出す人がいるのは当然でそれを否定するつもりは毛頭ありませんが、同級生の我々は、キハラを本物の政治家にすることを目的に集まった集団です。そして、求められるものは「当選」という至極困難で簡単なものなのです。
当然、その過程においては出来るだけ「苦労」は排除すべきことなのですが、前述したように我々人間はいつも損得感情によって支配されているために、その「苦労」というものは排除しようにも排除できないシロモノのように思うのです。そして、そのことは、候補者が一番知っておかなければならないことと思うのです。
T口君の話しからボクはそのようなことを学び、そして、その時に決心したのでした。その時点でT口君には約束できませんでしたが、とにかく、それが自分の最後の役目ではないのかと思ったのでした。

話はかわりますが、この選挙シリーズを連載している最中に、個人的な意見あるいは指摘を受けたことを記録しておきます。その中にボクの考えと全く同じことを綴ってくれた同級生がいました。本人から許諾は得ていますが紹介はY君とだけに留め、一部抜粋で紹介したいと思います。

「国のため、日本の子供達の未来のため、一国民としての義務として、木原を応援する」ということも言われてますが、同窓生の皆が従事しているそれぞれの職業に日本という国のためになっていないものなんて一つもないと思います。平日に充実した仕事をするために土日は図書館にこもって勉強している人たちもいます。皆にとっては自分の仕事こそが、この国における自分の持ち場であり、自分にとっての選挙活動への参加であり、もし戦争にでもなれば自分にとっての戦いであるということになるのではないでしょうか。
西君が、西君たちがこれからも木原の選挙活動への協力を呼びかけて行くのは大いに結構だと思います。ただ私が言いたいのは、ともすれば上記のような「応援したくてもできない人たち」の都合を理解し、忘れないように注意してもらいたいということです。
選挙活動というものは大体が加熱しがちで感情的にもなりがちです。私もごく若い時にいろいろなトラブルを目にしてきました。いろいろと思い出すうちに以上のようなことを言いたくなりました。

T口君、Y君、本当にありがとう。二人の勇気は一生忘れないから!

今日はこのくらいにしておきます。明日にはこのシリーズも終わると思います。

続く、、、
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