3月に始まった新シーズンの息子の背番号は「1」。
練習試合では、あわや完全試合という好投もあった。
本人も調整とフォームチェックに余念が無かった。投球日と投球数をきめ細かく決めて、無理のないような調整を実施していたし、鏡を見ながらのシャドウのほか、自分で動画を撮影してはそれを入念にチェックしていた。
この時点でチーム状況は、規定による選手不足で全日本選手権の予選には出場できないことがほぼ確定していた。それは、つまり、僕ら親子が目標としていたワールドシリーズへの道が完全に閉ざされたことを意味していた。
しかし、息子は、己が全力を尽くせば、連盟の春季大会で九州を制することができると信じていたようだった。ただ、練習に励む息子には明らかに「力み」が見られた。力を抜くよう言うべきだったが、それを受けつけないような凄みが息子にはあった。怪我だけが心配だった。
春季大会は3月10、11日に福岡で行われた。
息子は1回戦に投手として先発出場していた。しかし、その日は次女ホースケの卒業式のため、ボクとカミさんは熊本にいた。
雨で試合開始時間がずれ込んだために、昼過ぎに連絡があった。初戦敗退の連絡だったが、結果以外の内容も含まれていた。それは息子の怪我に関するものだった。
4回を投げ終えた時点で、自らもう投げることができないと監督に申し出てマウンドを降りたそうだった。その後は、守備にもつかず打席にも入らなかったとのこと。トニカク、右肘をかなり痛がっている様子とのことだった。
夕刻、息子とケイタイで話すことができた。
「痛いか?」
「痛い」
「投げれんくらい痛いとや?」
「ウン、もう投げれんね」
「トニカク、明日、そっちに行くけん、おとなしくしとけ」
「ワカッタ」
男親子の会話は素っ気ないものである。息子の声に暗さはマッタク感じられず、ボクは心配に値するような怪我ではないと思った。しかし、これはバカバカしくて誰にも言わなかったことだが、電話のあとから自分の右肘が痛み出したのだった。そして、これは後から判ることだけど、そのときの息子は投げるどころか歩くときの振動でさえ肘に激痛を感じていたのだった。
・・・続く・・・
練習試合では、あわや完全試合という好投もあった。
本人も調整とフォームチェックに余念が無かった。投球日と投球数をきめ細かく決めて、無理のないような調整を実施していたし、鏡を見ながらのシャドウのほか、自分で動画を撮影してはそれを入念にチェックしていた。
この時点でチーム状況は、規定による選手不足で全日本選手権の予選には出場できないことがほぼ確定していた。それは、つまり、僕ら親子が目標としていたワールドシリーズへの道が完全に閉ざされたことを意味していた。
しかし、息子は、己が全力を尽くせば、連盟の春季大会で九州を制することができると信じていたようだった。ただ、練習に励む息子には明らかに「力み」が見られた。力を抜くよう言うべきだったが、それを受けつけないような凄みが息子にはあった。怪我だけが心配だった。
春季大会は3月10、11日に福岡で行われた。
息子は1回戦に投手として先発出場していた。しかし、その日は次女ホースケの卒業式のため、ボクとカミさんは熊本にいた。
雨で試合開始時間がずれ込んだために、昼過ぎに連絡があった。初戦敗退の連絡だったが、結果以外の内容も含まれていた。それは息子の怪我に関するものだった。
4回を投げ終えた時点で、自らもう投げることができないと監督に申し出てマウンドを降りたそうだった。その後は、守備にもつかず打席にも入らなかったとのこと。トニカク、右肘をかなり痛がっている様子とのことだった。
夕刻、息子とケイタイで話すことができた。
「痛いか?」
「痛い」
「投げれんくらい痛いとや?」
「ウン、もう投げれんね」
「トニカク、明日、そっちに行くけん、おとなしくしとけ」
「ワカッタ」
男親子の会話は素っ気ないものである。息子の声に暗さはマッタク感じられず、ボクは心配に値するような怪我ではないと思った。しかし、これはバカバカしくて誰にも言わなかったことだが、電話のあとから自分の右肘が痛み出したのだった。そして、これは後から判ることだけど、そのときの息子は投げるどころか歩くときの振動でさえ肘に激痛を感じていたのだった。
・・・続く・・・
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