モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

関東大震災と東京中央電信局(1/2)

2016年09月01日 | モールス通信
◆関東大震災当日の9月1日

大正12年(1923)9月1日午前12時2分前、関東大震災※が発生し、南関東から東海地域に及ぶ広範な地域に甚大な被害をもたらした。
このとき、東京の街は、瞬時にして阿鼻叫喚の巷と化し、建物の倒壊に加え、市内各所から出た火災は、1日と翌日にわたって燃え続け、地震で残った建物の多くを焼失した。

東京府の死亡者(行方不明を含む)は7万387人、全壊全焼家屋は18万8,349棟にのぼった。
※関東大震災のマグニチュードは、内閣府「災害教育の承継に関する専門調査会報告書・平成18」では、7.9と推定している。本稿の被災数値は、この内閣府のデータによった。

関東エリアの被害は、東京府と神奈川県が大きかった。エリア全体の死亡者(同上)は、10万5,385人、全壊全焼家屋は29万3,387だった。死亡は、火災のよるものが多く、東京市※は96%、横浜市は93%が火災による犠牲だった。
※東京市とは、宮城周辺の都心部の麹町区、神田区、日本橋区など15区が明治22年、東京府下の東京市となった。昭和18年、東京市は東京府と合併して東京都となったとき廃止された。

この未曽有の関東大震災は、東京の電信も電話も、瞬時に壊滅した。3階建ての東京中央電信局(中央区江戸橋1丁目)の局舎は、第1震により北、東両側の外壁が崩れ落ち、内壁はいたるところに亀裂を生じ、続いて屋根、天井、床が陥落し、器具機械が破壊され、ついには魚河岸を燃やした炎に包まれ灰燼に帰した。午後8時のことだった。

この時の在局者は1千余名だった。幸いに死者、重傷者はなく、全員避難した。
第1の激震により、すべての回線連絡を断たれた。その後に襲いきた余震に局舎は倒壊の危険にさらされ、局内に止まることができなくなった。加えて、市内各方面からの火の手が迫ってきた。

この状況に、局長は応急命令を発し、午後1時には女子及び少年に、午後3時、主事、主査以上の幹部を除く男子局員に帰宅を命じた。帰宅時の注意として、なるべく局員同志同道すること、帰宅経路または自宅が危険となったときは、女子は南寮寄宿舎へ、男子は芝公園の逓信官吏練習所に避難することなどを周知した。

一方、次のような善後策をさし向き実行することにした。
(1)高等通信機と重要書類をできる限り搬出し、これを安全地帯にあると考えた逓信官吏練習所に移す。(2)幹部は随時官吏練習所に移り事務開始に最善を尽くす。若干名は局舎付近に残留し、夜通し局舎監視に当たる。
 
搬出すべき荷物については、余震の続く中、局舎各階を回り、電報原紙、高等通信機、重要書類を集め、時を移さず自動車、荷車あるいは各自の搬帯により、苦闘しながら芝公園まで荷物をようやく運んだ。この時のことを続東京中央電報局沿革史は、次にように記している。

「旋風火災を捲き、瓦礫雨と降り、右往して進路絶たれ、左往阿鼻叫喚の死地をくぐり活躍したるこの間の努力には、既に帰宅の自由を与えられた人々の協力が与ってゐたことを特筆せねばならぬ。自宅の安危を顧みるの暇なく、奉公一途の念に出でたるもので、眴に涙ぐましいことである・・・以下略」



そのうち、愛宕、芝口方面に迫った火の手は、折からの強風にあおられて、南進し、絶対安全と思われていた官吏練習所もまた危険となり、立ち退かざるを得なくなった。これが2日の午前1時のことだった。

こうなったからにはと、更に一段の決心と覚悟を固め、数々の物品を背負ったり、担いで、避難の群衆が殺到し混雑を極めている芝公園内を必死に縦横に脱出し、午前3時、紅葉館※の林中に籠ることにした。
※官吏練習所から1Km余ほど西にあった明治14年(1881)設立の会員制料亭。これは、7年間で閉鎖した鹿鳴館の後の役割を担ったようだが、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失。その跡地には東京タワーが建っている。

官吏練習所の校舎の焼失は午前5時半頃で、死守しようとした中電の物品の大半を、ここで失ったのは、痛恨の極みだったが、いかんともできなかった。<<(2/2)へ続く>>


◆出典; 
東京中央電報局沿革史  東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和33年12月)
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)











   


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