モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

モールス音響通信の思いで(5)

2016年01月07日 | モールス通信
「書き残したこと」

モールス通信は1837年、アメリカの画家サミュエル・モースによって発明された。わたしはこれまで、この発明時の通信機は有線による音響式のものと思い込んでいたのだが、この思いでを書くうちに画家であった彼が、あの音響を聞き分ける能力を持っていたとは思えなくなってきた。

調べてみると、はやりモースの発明した「モールス機」は、<モールス符号を現字紙上に印出させて通信する電信機械>(広辞苑第一版)とあるのを知り納得がいった。発明当時はそのような方式で、徐々に音響通信に進化したらしい。

明治初期、わが国に初めの頃採用された通信機は、この印字式であったことは間違いないのだが、ではいったい、いつの時期、誰の手によって、それがわれわれの学んだ音響式へ進化、移行したのだろうか。ぜひ知りたい。

なお、広辞苑最新版には「モールス機」の言葉は見あたらない。現在の情報通信技術の先駆けとなった画期的な発明に対して、権威ありと評されている辞書にしてこのような扱いである。去る者日に疎し、どころの話ではない。

もうひとつの疑問は、音響通信の最後のことである。わが国のモールス音響通信は、昭和30年代、電報の印刷通信の自動中継交換の実施により、徐々に姿を消していったことははっきりしている。では、いつ、いずこの電信室で、われわれにとり青春の音とも言えるあの音響は最後となったのだろうか。記録を探したのだが、見つけることができなかった。これもどなたかに教えていただきたいことである。

ちなみに、電電公社のモールス無線通信は平成11年1月、長崎無線電報局の廃局によって終焉した。これはマスコミでも大きく取り上げられたので、はっきりしている。

ついでに、モールス無線通信は今だに国内でも国外でも趣味の世界で多くの熱烈な信奉者を持ち、生き続けているようだ。インターネットを覗くと「ハイスピードモールス通信世界選手権大会」まで開催されていることがわかる。それにひきかえ、わが有線によるモールス音響通信の痕跡は皆無に等しい。有線による音響通信と兄弟関係にある無線通信のいやさかを祈りたい。

以上、2つの疑問を記したが、あと少し、モールス通信とわたしの個人的なかかわりなどについて書かせていただきたい。

わたしのモールス通信の経験は、20歳前の短い期間のもので、技術もさしたるものではなかった。その経験は心の中で反芻するうちに、年の経過とともにわたしの内面にいろいろな影響をもたらしたようだ。能力がない、適性がないと思われることでも、真剣に取り組めば、人間なんとかなるという自信。人間誰でも、体系的、科学的な訓練と、本人の努力次第でできぬことはないという楽観主義。脳科学の発達した今日では常識となっている頭脳の融通無碍というか、無限ともいえる可能性への信仰。これらがわたしの中に根強く居着いてしまったようだ。このような楽観的、単純な自信と人間観が通用するほどこの世は甘くないこと、これまで十二分に体験してきたことではあるが…

昭和30年、電報局を離れてからも電報には結構縁があり、体で覚えた電信の経験はその後も大変役立ってくれた。 

電話事業の発展とともに昭和40年代の初め、電報事業のあり方が問題となり国会でも議論された。当時、電電の経理局に勤務していて議論の前提となった電報部門の損益状況の算定を担当した。米国のウエスタンユニオンなどを訪問して、同一の通信会社が電信、電話、その他複数事業を実施している場合、各事業の損益計算(部門収支)をどのように行っているかを調査したのも、その関係だった。

NTTを退職後の職場でも電報配達の仕事に関係した。もっとも、そのころの電報は商品としての慶弔電報がほとんどだった。「チチキトク」などという緊急電報は皆無で、青春時代に格闘した電報とはまったく異質なものとなっていた。

学園で学んだカナと欧文タイプ技術は、今もパソコン入力の高速ブラインドタッチとして生き、わたしの誇れる特技(?)である。

それから、これもモールス通信とは直接関係のないことだが、新制中学卒のわれわれ同期の多くは、電報の仕事に就いてから高校に通学することできた。勤務時間をやりくりしてもらったおかげだった。わたしも夜勤帯の勤務をしながら、3年1学期で中退したが、昼間、高校に通学した。あの時代、先輩、同僚の電信マンの皆さんからの暖かい配慮には、言葉では言いつくせぬ感謝の念を今も持っている。九州各地の同期の皆さんもわたしと同じ心情を共有しているものと信じている。

さて、これまであやふやな遠い記憶をたどりながら個人的なモールス通信とのかかわりについて書いてきたのだが、わが国のインフラとしてのモールス音響通信の社会的、歴史的な役割、存在は確固としたものであった。その果たした役割あるいは通信ステムの評価などは、別の次元から眺めなくてはならないと考える。特にそのシステムを長らく温存した国の通信政策、産業政策については、これからの世代によって、多角的に検証されることを期待したい。1月号で、モールス通信の功罪云々などと不遜な言葉を使ったのは、このようなわたしの気持ちからでたもので、ご容赦いただきたい。

明治初期の大混乱のなか、当時としては世界最先端のハイテク技術をいち早く採用し、明治2年(1863)東京・横浜間で電報事業を開始し、それからわずかの間に九州~北海道間の電信ルートは完成されたという。あの国家的な困難な時代のなかでの明治人の壮挙はただごとではない。それにしてもあの建設、改革のエネルギーは、その後の通信事業のなかで持続されたとは思えない。

わたしなどは、愚かにも戦前戦後の逓信事業を世界に冠たるものと思い込んでいたのだが、モールス通信を支えた人々の優れた技術とは裏腹に、そのシステム、設備は決して誇れるものではなかった。

われわれの九州逓友同窓会会員(昭和18年7月熊本逓信講習所普通科卒)の大塚虎之助氏は「極秘電報に見る戦争と平和:日本電信情報史」の会誌相親掲載を終えられ、これを上梓された氏は昨年8月号に「かくて日本の情報戦争は敗北するべくして敗北しました。」と淡々と書いておられる。これが平成5年から平成14年までの長期にわたり渾身の力を注ぎ、ついに世に高く評価される大著を完成された氏の結びの言葉である。[後記参照]

わが国の戦前の情報通信、とりわけ電信情報を運ぶ電信システムが、もう少し早い時期に、近代的なものに整備されていたならば、太平洋戦争という民族の悲劇を電報の記録を通して書かれた氏の力作は、この世に生まれてこなかったのではあるまいか。

最後に九州逓友同窓会について一言。
このたび、伝統ある会は解散することになった。永い間、会の維持発展に尽力された関係者に感謝します。ただ九州から離れて住む関東地区支部会員には、九州の恩師、先輩後輩の消息を知るすべがなくなったことは残念で、別の穏やかな選択肢を模索できなかったのかとの思いは残る。

されど、卒業生の胸のうちに母校は生きており、母校から世に出されたわれわれ同窓の出自も不変で、同窓がこの世に生きている限り互いの絆は消えようがないと考え、今回の決定も、会員の老齢化、時代の流れを考えると止むなしと諦めよう。

それでは、皆さまへモールス音響通信の最後の挨拶、THANKSのKSを送り、ひとまず打ち止めとします。― ‐ ―  ‐ ‐ ‐ 

 

【後記】
ここに書きました疑問は、その後ほぼ解明できましたので、今後ここに追記するか、稿を改めて書いてみたいと思っています。

・紹介
極秘電報に見る戦争と平和 : 日本電信情報史
・大塚虎之助 著 ; 増田民男 監修
・出版事項 熊本 : 熊本出版文化会館 ; 東京 : 創流出版 (発売), 2002年5月 493P
「日本図書館協会選定図書」選定 2002年8月
「熊本日日新聞社 熊日出版文化賞」受賞 2003年2月
書籍内容(ネット販売書店各社の紹介より)
明治初期から膨大に飛び交った電報は歴史の真実を証言する第一級の史料。「極秘」とされた外交電報、軍事電報は戦争や外交交渉の実態を赤裸々に白日の下に暴露している。 緊迫した状況での暗号解読、情報戦、オトリ電報作戦、敵スパイを利用した逆無電など歴史の裏面を明らかにする日本電信情報史。佐賀の乱から敗戦まで電報による歴史再発見。


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