◆『魏志倭人伝』
『魏志倭人伝』に、189年に卑弥呼が女王となり、
248年に没し径100歩の塚が建造されたとある。
263年に、卑弥呼の宗女である壱与が即位とある。
◆『晋書』
『晋書』に、265年には、司馬炎が晋を建国して、
倭の女王(壱与と考えられている。)の使者が王朝
の交代の式典に参加した事がに記されている。
◆『晋書』
『晋書』に、翌266年、倭人『日本人」が来て、
円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合
わせたと記述され、前方後円墳の起源を記したもの
と解されている。倭人の墳墓の一形態とする前方
後円墳が266年には既に築造されている事が文献
から推測される。二至の祀りとは夏至と冬至の祭り。
◆倭人「当時の日本人は暦を持たなかった事の考察
『魏志倭人伝』を読むと当時の倭人は暦がなく一年
に2回の祭を実施していた事が解る一年を前期後期
とし一年を二年と計算していた可能性もあり大和の
初期の大王の年齢も異様な高年齢で記されている事
は倭人の暦が中国と異なっていたのではないのか?
倭人が一年に二期の祭祀を実施、前方部と後円部で
それぞれ異なる異なる季節祭祀を実施していたもの
か?そうすると、古くから方墳を中心に営んでいた
日本の地方豪族は中国秦の始皇帝墓の如く中国暦を
用いていた可能性もあるのではないだろうか?とも
かく今も日本人の習慣に残る年二回の祭りや半期毎
の集計感覚や上半期や下半期の感覚は遠くその根源
ルーツを遡ると古代倭人の一年を二期に分割する習
慣にまで遡れる可能性も考察してみたいと時に思う。
確かに『魏志倭人伝』を読むと倭国は二毛作の土地
だと記している事に留意したい現代でも二毛作地域
は限定されており邪馬台国の所在地を幻想的に想像
し日本人はあれこれと推測して楽しんでいる事にも
留意したい。卑弥呼の時代に日蝕が起きた事も九州
地域中心という天文学的科学的な計算が既に出され
ている。卑弥呼は天候の異変「日蝕」の発生により
巫女として信頼が失墜し諸侯からその責任を問われ
古代祭祀政権の斎主の座から滑り落ちて引退したと
解釈する学者もいる。卑弥呼が諸侯により殺害され
たのか?連合国家の斎主としての地位を無くし剥奪
されたのか??未だに明らかには、なってはいない。
◆余談
本能寺の変の前日も日蝕が有った!
日本では天照大御神を太陽神として日蝕を連想させ
る天の岩戸隠れ神話が残されている。卑弥呼ヒミコ
と関連づける学者も、存在した。弥生の九州地方の
日蝕は皆既日食であったが近畿地方ではこの弥生の
日蝕が欠けて見えた事になっている。『魏志倭人伝』
には邪馬台国の斎主女王「卑弥呼/ヒミコ」とは別の
王様 、狗奴国の男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ、
ひみくこ」と読む「ひこみこ」(彦御子)とする説も
がある)がおり、この男王の住む地域では日蝕が弓の
形状に見えた可能性を卑弥弓呼と表現したのだろうか?
とすると 狗奴国の男王卑弥弓呼は現代の西日本と言う
事になってしまう?倭人伝では狗奴国の官を狗古智卑狗
(一般的には「くこちひこ、ここちひこ」と読むが「くく
ちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説
もある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と男王卑弥弓呼は
は「素より和せず」と元来不仲の国だったがこの戦いの最中
に卑弥呼が死去した云々と、古代幻想疑問符が?延々と続く
◆本能寺の変の前日も日蝕が有った!
三島暦によると天正10年6月1日に日蝕があった事が
判明する。翌日天正10年6月2日に丹波から明智光秀
は主君織田信長を京都本能寺を突然包囲して死滅さ
せる。これは当時上様である信長を隠した事になる
古来日本では天皇の死を「お隠れになった」御崩御
と表現している。
この本能寺の変を起した人物が惟任日向守光秀であ
る奇妙な事に明智日向守の官途を名乗る人物が日蝕
の翌日に織田信長を打った事になる。信長の信奉す
る三島暦と京都の内裏暦には違いがあり信長は日本
の暦も三島暦に変更するよう内裏に進言していたと
言う。年号も元亀ではなく天正へ改元させたのも彼
織田信長の奏上によるものである。明智は日蝕とも
関連して織田信長を討滅したのか?疑問符が残る!
彼の発句光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」
の発句の意味は極めて非常に深いと私は思っている!
「ときは」
時とも 時節とも
土岐とも、明智=土岐氏
常磐「ときは/皇室」を意味する言葉
斉場「ときば/神占いをする斎場」
とも複数に重ねた忌言葉が重層的に潜在しているか?
◆近江弥生の伊勢遺跡に焼床が発見される。
大和朝廷が成立する以前より倭国には100余国が
存在した事が『魏志倭人伝』に記されている。
斉場「ときば/神占いをする斎場」
常磐「ときは/皇室」とすると何と!近江弥生の
伊勢遺跡には床を焼いて宮殿にタイルを施した
遺構が発見されている。これは倭王の宮殿の跡
のひとつであろう。
◆神代は縄をなって占いや暦を記録していた。
月末を晦「つごもり」とも言う。または晦日
「みそか」とも言う。30本の縄を床でなう事
つまり「三十/みそなう」とも言う現代でも30
代へ突入すると「三十路/みそじ」と表現する
一年の最終月が勿論、大晦日「おおみそか」で
ある。古来朝廷の政治は夜に作られたと言う。
縄なう占いで政治を決定していた。縄は土間で
本来綯う「なう」のが日本人の正式作業である。
近江弥生の遺跡遺跡には床にタイルが施されて
いる。これはある意味、常磐「ときは/斎場」で
あろう。日本人にとり縄文時代より縄は大切な
道具であり神道の注連縄「しめなわ」も縄文化
である。さて現代の政治談議でも明日の日本の
の政治を「占う」などの言葉が使われ「なう」
つまり縄を作る事が日本人の基本作業であった
事が暗喩的にわかる。会社の新入社員への訓示
でも我社の未来を担う「になう」諸君と社長が
挨拶するが、荷綯う「になう」荷物を結び付ける
縄を作る事が「なう」であり政治の行く末も占い
「うらなう」でもあろう?日本人は倭人の子孫で
あり現代の日常においても古代の倭人の縄文化を
潜在的無意識的継承しているのではないだろうか?
◆前方後円墳の分布
倭人「日本人」の墳墓の特徴の一形態で前方後円墳
は日本の東北から韓半島の南部にも分布している。
◆昼飯大塚古墳
昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)は、岐阜県
大垣市昼飯町にある古墳。形状は前方後円墳。不破
古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されて
いる。 岐阜県では最大規模の古墳で[注 1]、4世紀末
(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定される。