兵庫城と別所山城のビイスタ工法
◆兵庫様「匿名」
織田信長の家臣として前田利家を想起しますが
天正11年1583年、賤ケ岳合戦の伝前田利家陣城
は典型的な織田軍つまり織豊系陣城だ先月見学
して感じた。織田信長の側近から兵庫城を与え
られた池田常興の城にも城郭ビイスタ論は適応
されるのでしょうか?是非とも御教示下さい。
◆長谷川
4月16日のウッディパル、城郭フォーラム現地
見学会は確かに別所山陣城を見学しましたが
織豊系城郭としてのビイスタ工法が概略的に
アバウトながら概略的存在した可能性がある。
▼別所山陣城
横堀と土塁を見学する余呉城郭研究会の諸氏
▼滋賀県長浜市余呉町別所山陣城長谷川略図
▼滋賀県長浜市余呉町別所山陣城 写真B地点
被写体 余呉城郭研究会 生月茂会長
◆兵庫様「匿名」
現在は無くなってしまった兵庫城にもビイスタ工法
が存在するのですか?今巷間では長谷川先生の提唱
される城郭ビイスタ論は有識者専門家間で、大変な
話題になっておのますが頑強な城郭保守派から完全
否定する人もおられます。令和という新しい時代に
なり長谷川先生の城郭ビイスタ論と動画は全国区に
衝撃的新時代の令和新城郭研究手法の黎明の鐘を
連打されるような新取にして気鋭の学問躍動胎動
さえも感じます。是非とも長谷川先生に今はなき
織田信長家臣池田恒興の兵庫城の城郭ビイスタを
解説を願えないでしょうか?お願い申し上げます。
◆長谷川
兵庫では関西の名門城郭研究会『関西城郭研究会』
様の格別の招聘を賜り浅学非才の凡人長谷川博美
が2回も講演をさせていただける名誉な御配慮賜り
会員各位様には改め感謝御礼の言葉を申し上げます。
◆長谷川
先月4月の見学城郭は伝前田利家の別所山城でした
が先ず以下ウイッキペデイアより引用した池田恒興
の略歴を御紹介致します。
(信輝)・輝政父子により花隈城も落城した。その
功により、織田信長より兵庫の地を与えられた。
9年)花隈城には入城せず兵庫津に城を築いた。
その時の様子は、「池田信輝此津守領の時、花隈
城を毀り、其材石を移してここに築く」(『摂津
名所図会』)とある。しかし1583年(天正11年)
代官として入城した。呼称も兵庫城から片桐陣屋
がここに招かれており、その日記の中には、
「及館主所周以城池門設三重(略)支供官乃秀頼
、三重の門があったことが窺い知れる記載となっている。
◆長谷川
上記で着目したい記録は
「1581年(天正9年)花隈城には入城せず兵庫津に城
を築いた。その時の様子は、「池田信輝此津守領の時、
花隈城を毀り、其材石を移してここに築く」(『摂津
名所図会』)とある。しかし1583年(天正11年)池田
要するに兵庫城はこの時期の典型的織豊城郭の様式に
従って築城されたか考察する事が重要だと思います。
天正11年期築城廃絶の長浜市余呉町の織豊系陣城
別所山陣城と兵庫城比較研究する意義が深く大きい
思います。
◆長谷川
先ず古図に描かれた兵庫城の形状とは以下の如く。
主郭と馬出相当の主郭副郭供えた典型的織豊城郭。
城主池田氏とは出身が関ケ原より東の東国の人物。
◆長谷川
次に2方向からの城郭ビイスタを確認致します。
城館の通例の如く正方形には作られていません。
城外の2方向から縄張した城郭ビイスタ工法です。
◆長谷川
更に本丸とその周囲を形成する武家屋敷群の町割
は明らかに「扇形」城郭ビイスタ工法が読取れる。
▼扇形ビイスタ工法
▼放射状ビイスタ工法
◆一般様
長谷川先生すごいです。我々一般の人々にも解りますよ。
◆反論者
何が城郭ビイスタ工法だ!長谷川如きが偉そうに言うわ!
ワシャ絶対長谷川城郭ビイスタ工法など正解でも認めん!
◆対談者
城郭研究は学問です。そこには派閥や感情は一切不要!
敵意や感情を優先させた段階でもう貴方は城の失格者!
気分が悪いとか気に入らん等の言葉は学門でなく感情!
◆長谷川
どうぞ是非とも冷静に静粛にお願いを申し上げます。
さて前回港湾環濠自治集落「泉州堺」のビイスタ論
検討考察致しまし。▼泉州堺の十字路と短冊形街割り
▼泉州堺の城郭ビイスタ=扇形縄張
◆世界百科事典から兵庫津を引用







ここは奈良時代には大輪田泊(おおわだのとまり)
と呼ばれ,12世紀中ごろには平清盛による大規模な
修築が行われた。鎌倉時代に入ると兵庫津と名がか
わり,清盛の築造した経ヶ島を中心に町が形成され
た。応仁の乱で町は一時衰退するが,江戸時代に西
廻航路が発達すると再び隆盛に向かい,幕末の開港
まで海上交通の要衝として繁栄した。とあります。
◆質問者
源氏の源義朝は鎌倉の扇ケ谷に居館を構えており
東国武士団の信頼を受けてた。現在の大河ドラマ
では鎌倉幕府を中心にドラマが展開しております。
そう源頼朝の東国武家政権の本拠は鶴ケ丘八幡宮
若宮大路を中心に置いた鎌倉湾に門戸開いた都市
港湾総合体か『吾妻鑑』の鎌倉城の全貌でしょう。
◆長谷川
歴史上、平相国入道清盛ほどの貿易商業に長けた
傑物が、大輪田泊(おおわだのとまり)の修築を
した時点において兵庫湊のビイスタ都市工法施工
の起源が存在した可能性があります。残念ながら
清盛は経ヶ島なる人工島をアレクサンドリアの都
パロスの灯台の如く構築したが現在は失われてる
との事です。清盛築く経ケ島のが何処に存在した
のか歴史ロマンとして非常に興味ある事案ですね。
◆質問者
経ケ島の形状はどのようなものだったのでしよう?
◆長谷川
経が島(きょうがしま)は、日宋貿易の拠点である
に竣工する。その広さは『平家物語』に「一里三十六町」
とあることから、37ヘクタールと推定されている。
経ヶ島・経の島とも書く。後世、兵庫津にちなんで
兵庫島とも称された。塩槌山を切り崩した土で海を埋
め立てた。工事の際、それが難航したために迷信を信じ
ことになる。一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに
埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて
埋め立てに使う(経石)。その後、事故などもなく無事
したこの島を「経が島」と呼ぶようになったとされる。
とあります。
◆長谷川
私が注目している事は経ケ島の「経」とは
仏法をしるした『扇形』の島なのか?また
それとも築城を「経始」とも書きますので
そ港の計測「経」を意味するのか興味ある。
◆質問者
鎌倉幕府は西国に平家を滅ぼした後に奥州藤原氏
の平泉を攻略しますが奥州藤原氏の栄華の跡とも
言える毛越寺にビイスタ工法が存在しましたか?
◆長谷川
建造物は見栄が肝心です可能性はあろうと思います。
◆質問者
安芸の宮島は平家一門が崇敬した海に開いた神社
ですが厳島神社にもビイスタ工法は存在するの?
◆長谷川
神社仏閣堂塔伽藍とビイスタ工法は切り離せな
い神道「しんとう」で言う正中線「中心中軸腺」
も明確です十分ビイスタ工法の可能性と言うよ
そのもの左右対称のシメトリクに近い社殿配置。
尚ウッイキペデイアを引用しますと「平安時代
の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けた。
現在と同程度の大規模な社殿が整えられた[* 5]。
平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家
の氏神となった。
◆長谷川
厳島神社の場合「大鳥居」が海からの玄関や
神社遥拝の正面玄関口と言えます。日本国に
おいて宮殿建築の正中線、中央基軸線が読み
取れる最古級の類例は弥生の遺跡奈良の纏向
宮殿遺跡と言えましょう。中国史、東洋史学
、日本史をも大観して、人類が創造してきた
ランドスケープ論「国土土地都市設計論」や
城郭ビイスタ論に取り組んで日本人の普遍的
歴史建築物基礎設計を冷静に観察しましよう。
▼纏向宮殿遺跡のビイスタ工法
▼大和毛原寺の複合型ビイスタ工法
▼伊賀国の国分寺跡のビイスタ工法
▼出雲国の二基の前方後円墳のビイスタ工法
▼大和朝廷型 前方後円墳のビイスタ工法
▼九州 オサホ メサホ 塚古墳のビイスタ工法