城郭 長谷川博美 基本記録

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佐々木六角氏の都市計画とビイスタ論

2022-05-21 06:52:25 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

佐々木六角氏の都市計画とビイスタ論

◆一般者

『近江與地誌略』にも収録されている

「源頼朝の隠し砦」見学会が4月23日

に迫ってまいりました。誰でも予約が

なく参加できるとの事で楽しみにして

います。jR河毛駅午前東口午前10時

でしたね?

 

◆みんな

そんな馬鹿な『近江與地誌略』にも

「源頼朝の隠し砦」が収録されたの?

 

◆長谷川

参加者が5名様でしたら当日の隠し砦

の縄張図や関係資料をコンビニでコピ

ーして配布しますから予約は不要です。

 

◆一般者

城郭ビイスタ論、展望論ってスゴイです!

よく考えてみれば長崎の「出島」なども扇

型に作られているのに学校では放射角度を

利用して幾何学的に作られているなどと?

全く教えてもらえなかった。城郭ビイスタ

論やはり戦前戦後を通して画期的な城郭論!

 

◆対談者

長谷川先生の城郭ビイスタ論動画再生

回数が2200回を超えて滋賀県中の人々

が驚いておられます。私自身もですよ!

 

◆一般者

そりやそうですよ!鎌倉自体がビイスタ工法

を応用した東国武家政権の都市であると先生

のブログに紹介されていて衝撃を受けました。

通常は鎌倉七口として知られてはおりますが?

都市計画、地域総合グランドプランとしてまた

ランドスケープ論として非常に斬新で興味深い

◆質問者

『吾妻鑑』で源頼朝が近江守護職の初期拠点

 東近江市の小脇に宿泊していますが小脇に

 もビイスタ構造やランドスケープ論は該当

 するのでしょうか?私は八日市と言います。

 

 

◆長谷川

非常に概略的概念的な図ですが

小脇館を中心とした地形は扇の形

に配置された景観が存在します。

後に小脇山城は城郭として充実

し堀切土塁曲輪が残っています。

 

◆質問者

近江佐々木六角氏の居城観音寺城に

ビイスタ工法は使われてましたか?

 

◆反論者

そんのある訳ないクダラナイ事だよ!

ふん!城や館を遠目で計測していた

証拠があるのかよ証明して見ろや!

 

◆長谷川

感情的にならずに江戸時代には

遠目で城を測量していましたよ

幕末の学者、吉田松陰日本の城

には「規矩」きくが備わったと

言っています。つまり私達現代

人が明治大正昭和平成令和忘却

していた「規矩術」曲尺「かね」

で分度を計算して行く数式です。

「規矩術」とは「幾何学」の事。

 

◆質問者「匿名」

繖山の近辺に住まいする者です匿名で

御願いを致します。佐々木六角氏居城

観音寺城は中世城郭としては石垣作り

の城郭としては日本最大級の中世石垣

城郭だと常々思っております。ズバリ

最近話題のビイスタ工法が観音寺城に

存在します?石垣を全山の城郭に使う

観音寺城は石垣の直線はこれ即ち直線

や幾何学で設計されたと考えています。

近世石垣城郭の先駆的城郭と考えます。

 

◆長谷川

あなたの御意見を、高飛車に最初から

否定する事は謙虚な学問する学者資質

に私が欠ける事になります。質問され

たら浅学ながら及ばずながらも観音寺

城のビイスタ工法の可能性に挑戦して

考察致します。先ずは佐々木六角氏の

山麓居館石寺地域には、所謂「お館」

「おやかた」近辺にビイスタ工法が読

み取れると思います特に館と日吉神社

の二局、二見の構成が潜在するように

思います。青線で表示する事にします。

▼六角館や日吉神社にビイスタ工法が

 観音寺城の城下町は壮麗荘厳な景観

 を石寺の城下も含め都市計画された。

 

◆一般観光客様

すごい!何度も繖山に石寺方面から登山

してますがこんなスゴイ城下の秘密があ

るとは全く知らず素晴らしいと感じます。

とくに六角館と日吉神社の配置が見事!

天正の教林坊のビイスタ工法も見事です。

 

◆反論者

ふん!あほらしい!しょうもない事を言うわ!

 

◆対談者

あほらしいと下品に感じる感受性よりも新しき

城郭の学問を進化させ近江滋賀を行楽観光産業で

活性化させる意義の方が学問的にも重要な事です!

 

◆長谷川

山岳山城部佐々木六角被官の山屋敷「山上城館」に

複数のビイスタ工法を用いた都市計画がなされた。

◆質問者「匿名」

これスゴイ見事やで!石段までビイスタ線

とシンクロしとるやないか?これスゴイ!

我らの近江大観音寺城は安土城に先行する

石垣大城郭の先駆として日本全国の人々に

発信して全く恥ずかしくないあの安土城に

も遜色ない壮大豪壮な城郭だと再認識した。

 

◆城郭研究家

これは衝撃と言うほかありません。私達

研究家は戦前戦後を通して山城や城郭は

自然地形に従った造形として自然地形論

に終始し切ってた我々は近視眼的に堀や

虎口の巧妙な配置に魅せられ束縛されて

戦前戦後の保守的な城郭研究の伝統手法

のみに固執する凡庸さを継承継続し続け

た。城郭遺跡全体を総括するき巨視的な

グランドプラン経始縄張城郭ビイスタ論

を凡庸な研究家が看破洞察できなかった。

長谷川さんの縄張図は繊細詳細を極めた

図面として以前から知られてたが城全体

の総括統括的グランドプランを巨視的に

言及考察する稀代の城郭研究家と誰1人

気付けなかった。

◆質問者

源頼朝は『吾妻鑑』で滋賀県東近江の旧

八日市、小脇つまり佐々木氏の初期拠点

に宿泊していますが小脇にもビイスタ論

やランドスケープ論的な展望配置要素が

読み取れますか?

◆みんな

薄々気づいていた人は滋賀にも潜在的に

昔から数多くおられます。滋賀県外出身

の私達は客観的に長谷川先生を高く評価

できる冷静さや物事の本質を看破洞察が

できる外部客観性を常に持ち併せていた

各地で催されるローカリズムの色彩を濃

く反映した地域歴史観に醸造された史観

や集団とは異なるグロバーリズム的視点

で「みんな」は長谷川先生を冷静に評価

しています。広い視野。広い歴史視座を!

 

◆長谷川

繖山の東峰にそびえる「布施淡路丸」も

掛線のビイスタ工法線に従属しています。

観音寺城の各屋敷や曲輪は通説はランダム

に各武将が思い思いに城郭や削平地造成や

石垣構築を自由勝手気ままには実施しては

いない。それは近江守護職佐々木氏の権限

が発動されて統制され観音寺城を築城した。

 

◆反論者

大名が山城に縄張りする時に大名自ら山城

の屋敷割を仕切るつまり指示した実例文献

があるのか!いい加減勝手な論説を言うな!

 

◆長谷川

歴史は感情や私情でありません冷静に願いします。

『信長公記』首巻「二宮山御こしあるべきの事」
一 、上 総 介 信 長 奇 特 な る 御 巧 み こ れ あ り 。

清 州 と 云 ふ 所 は 国 仲 、真 中 に て 、
富貴の地なり。或る時、御内衆悉召し列 れ ら れ 、

山 中 高 山 、 二 の 宮 山 へ 御
あがりなされ、 此 の 山 に て 御 要 害 仰 せ 付 け

ら れ 候 は ん と 上 意 に て 、 皆 々 、
家宅引き越し 候 へ と 御 諚 候 、 爰 の 嶺 、

か し こ の 谷 合 を 、 誰 々 こ し ら へ 候 へ
と、御屋敷下され、其の日御帰り、又、急ぎ

御出あつて、弥 、 右 の 趣 御 諚
候。」とあります。

◆長谷川

二の宮山への築城は小牧山に変更されましたが

この「信長公記」は大名みずから山城の構築の

指示を出した類例として貴重な文献と言えます。

 

近江観音寺城み都市計画ランドスケープ論とし

て用意周到城郭縄張したと私は思います日本史

でビイスタ工法「放射測量方法」看過できない。

 

▼城郭ビイスタ論動画「於長浜臨湖会館」で撮影

◆滋賀県民

長谷川先生の講義を聞きたくても私達

は受講できなかった。しかたなく近江

公民館で『信長公記』の民間連続講座

皆で協議して開催して好評との事でし

た。しかし長谷川先生の城郭講座とは

数少ないし土日が忙しく無理なのです。

 

◆対談者

東海北陸近畿の要の駅

米原駅から徒歩7分の場所

来る4月28日、木曜日から

米原学びあいステーシヨン

午前10時~11時30分まで

連続講座が毎月城郭講座

が実施されます。500円

予約は0749-52-2240

米原学びあいステーシヨン

「木曜はお城でしよう」です。

▼日本各地の城郭ビイスタ論が飛び出す可能性も!?

 ▼諏訪原城のビイスタ工法

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小谷城下の都市計画ビイスタ論

2022-05-21 06:51:15 | 城郭

小谷城下の都市計画ビイスタ論

そして甲津畑「東近江市」新城

 

◆対談者

この投稿最後まで読みましようね!

 

 

◆対談者

長谷川先生の提唱されている城郭ビイスタ論

日本城郭研究史において日本の城や城下を語

る上においても凄く重要な事だと最近痛感し

ています。特に近江守護職佐々木六角氏居城

観音寺城に壮大なビイスタ構造が存在した事

を知り衝撃を受けました。布施淡路丸なども

ちやんとビイスタ工法の様式で作られている。

 

◆対談者

また観音寺城下の石寺など都市計画ランド

スケープ論として非常に秀逸に感じました。

多数の城知識も大切ですが歴史城郭構造を

大観できる大きな視点を供えておられます。

◆対談者

浅井と六角に関してウイッキペディアを引用します

野良田の戦い(のらだのたたかい)とは、永禄3年

1560年)8月中旬に近江野良田(現在の滋賀県

彦根市野良田町及び肥田町で行なわれた北近江の

戦国大名浅井長政軍と南近江の戦国大名・六角

承禎軍の合戦。この合戦で浅井長政が勝利し、

浅井家の北近江における覇権が確立した。」とあり

北近江の小谷城を根拠とする浅井氏の城郭や城下

にもビイスタ工法が存在したのか御教示ください!

◆長谷川

近江浅井氏の本拠小谷城の大嶽城には見事に

ビイスタ工法を応用した堅固な山城群が存在

致します真に幾何学放射状縄張ビイスタ工法

の典型とさえ言える見事な幾何学の城です!

 

◆一般者

こんな事は誰も教えて呉れないこん

な事は初めて聞き驚いております。

 

◆対談者

始めて聞くとはどんな意味かしら?こんな事

ぐらい学者、城郭研究科なら気付いて当然!

 

◆対談者

さて

永禄13年/元亀元年(1570)
6月21日『信長公記』には


小谷城の「町を焼き払う」

と記録されていますがこの

町屋つまり小谷城の城下町

には都市計画やビイスタ論

が適応出来得るのですか?

 

「たけくらべに一両日御逗留なされ、

六月廿一日、浅井居城大谷(小谷)

へ取寄り、森三左衛門、坂井右近、

斎藤新五、市橋九郎衛門、佐藤六

左衛門、塚本小大膳、不破河内、

丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り、

 

町を焼払ふ。

 

信長公は諸勢を召列れられ、虎御

前山へ御上がりなされ、一夜御陣を

居ゑさせられ、柴田修理、佐久間右

衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、

丹羽五郎左衛門、江州衆、仰付けられ、

在々所々谷々迄放火候なり」

と『信長公記』に明記されています。

 

◆長谷川

当時の小谷城下の様子は下図のような

城郭関連地名小字名称が残り凡そ小谷

城下がしのばれます。参照して下さい。

 

◆対談者

ダメ!駄目!ダメ!の参列発のダメ出しです!

長谷川さん寝ぼけた戯言を言わないで下さい!

質問は凡庸な知識より前進した具体的幾何学論

で小谷城の城下町には都市計画やビイスタ論が

存在し適応するか?です!ビイスタ工法が存在

したかと質問してる訳ですよ!本町などの地名

だけの文字づらを追う事などは図書館に行けば

誰でも朝飯前に調べられる事?それ新聞の受け

売りと同じ「人から聞いた」事の次元の問題!

 

本物の研究家とは

 

①新しい城を発見する能力を持っている。

 新城を発見出来る歴史地理能力を持つ!

 

②新しい城郭構造論ビイスタ工法を発見。

 新規理論を発見!新研究論を推進する!

 

この2点だと私は常に思っているのです。

もう既に解っている城の縄張図を描いて

も先人の論文を踏襲してもそれ所詮は研

究ではない「物まね」コピー模倣の世界!

長谷川さんは常に新しい城を発見する人。

長谷川さんは常に新しい理論を模索する。

これ学者や研究家の本質真髄を備えてる

事に何故?世間や社会は気付かないの?

小谷城下のビイスタ論を考察して下さい!

 

◆長谷川

そんな難解な事は私ごときが解明できま

せん!私の取柄は引っ込み試案の素朴人!

第一条里制度で言う浅井郡と伊香郡条里

による圃場区画も境目に相当する位置で

特に小谷城下の都市計画論ビイスタ論を

軽々に述べる事は学者として慎むべき事。

 

◆対談者

「喝」です!しつかりせい!天下の安土城

ビイスタ理論を述べた長谷川先生でしょう?

希代の城郭研究家がここで尻込みして何と

します?そもそも男子として生を受けて城に

足を踏み込んだ以上は千里の苦難を走破して

汗血馬の如く、龍馬の如く飛翔するのが男児

たる人の本懐です!難題に挑戦し新発見する

事こそ男児の本懐!城郭道の真骨頂骨です!

 

▼長崎出島ビイスタ論 だれが見てもビイスタ工法は一目瞭然!

▼近江小谷城 城下の小字名称

◆長谷川

確かに小字地名は貴重な城郭関連地名ですが

日本の五大戦国山城と呼ばれる小谷城下都市

計画はアバウト出来合いの無計画性都市景観

と言えないでしょう。天正3年まで羽柴秀吉

は小谷に在城した事は文献『信長公記』にも

明確に記録されています。小谷城下都市計画

町割りは自然地形に制約されながらも浅井氏

は素晴らしい城下経営のビジョン展望計画を

ビイスタ工法を用いて都市計画を営んだ事と

私は考えています。谷間は自然地形なが街区

を形成する明治期の地図を参照に小谷城下の

都市計画「ビイスタ工法」を検討してみます。

◆一般様

これはズバリ素晴らしい小谷城下ビイスタ工法!

北陸と東海を結ぶ北国道の隘路に堂々たる町屋に

戦国城下町をビイスタ工法を用いて城下経営した。

余呉城郭研究会!すげえ!流石に研究会は斬新だ。

◆長谷川

現代地名で言いますと清水谷を主軸とする

中央に★正中線があり当然清水谷の入り口を

防御する水堀跡が過去には存在しました。

郡上を中心とするビイスタ工法や現代小谷

寺方面へのビイスタ工法も読み取れますね。

小谷城下は用意周到に計画された都市計画

が施工されたのでしょう。更に検討します。

★正中線「構造物や建築物を構成する中心線」

◆みんな

長谷川先生は既存の城下の解説も斬新ながら

本当に城郭を研究しておられるから新城をも

発見される例が多いのです。その城は50年後

には城郭見学の場所に取り入りられている事

かと思います。しかし人間の生命に限りあり

学問の発展進捗には常に感情的反論を唱える

類例は人間社会には常に存在すると言えます。

 

◆長谷川

元亀元年(1570年)の

『信長公記』には次の様な記録があります。

「千種峠にて鉄砲打ち申すの事


五月十九日御下りのところ、浅井備前、鯰江の城

へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止む

べきてだて仕り候。然れども、日野蒲生右兵衛大輔、

布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走(奔走)申し、

千種越えにて御下りなされ候。左候のところ、

杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎にたのまれ

、千種山中道筋に鉄砲を相構へ、つれなく、十二、三間

隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。され

ども、天道昭覧にて、御身に少しづつ打ちかすり

、鰐の口を御のがれ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。」

とあります。

 

◆質問者

長谷川先生と東近江市の速水氏の

甲津畑の城を見学したいと思って

おります。

 

◆反論者

知ってるよ!それ永源寺町の人々なら

誰でも知っている城山の事でしよう?

 

◆対談者

ちょつと待ってください!既存の図書や

既存の観光案内に従って城址を探訪する

事は「カタログ型/目録型」の城郭行動

規範に従属する形骸論とも言えますよ。

甲津畑と速水氏は長い歴史履歴がある。

 

◆長谷川

そうなんです。甲津畑は長い歴史伝統

が残り歴代速水氏は甲津畑の時代に合わ

わせた要所に城郭を構えて変遷してきた

可能性があります。江戸時代の柳生陣屋

の裏山には中世の山城柳生城があるよう

にね、元亀の争乱の折に、織田信長は

岐阜への帰路を佐々木六角と浅井氏に

阻止され、布施氏や速水氏の先導にて

無事岐阜へと帰還しています。信長が

着目する近江の武将は非凡な築城能力

を持ち合わせていたと私は考えてます。

従って従来の城山だけでは速水氏築城

術を知る事は出来ません。信長は武将

の持つ人材を看破洞察して登用する事

関し優れた人傑にして、甲津畑の城山

だけ見て速水氏の能力は評価出来ない。

 

◆反論者

ふん!もう甲津畑には特異な構造を持つ

山城なんぞは絶対無いに決まってます!

 

◆みんな

何故決めつけるの?確認してから無いと

と答えなさいよ!それが常道で誠意的と

言うものでしょう?否定の言葉なら誰で

も出来るわ!新しく城塞を発見する事の

法が100倍も難しく困難を伴う事でしょ?

 

◆長谷川

私の城郭の先生は現地の城郭です先生

は辛辣なほどに厳しくお前には甲津畑

の隠し城など到底読み取る事は不可能

だと新しい城郭遺跡を発見してこそ本

物の歴史地理を知る城郭の研究者だと

甲津畑の地形地理や交通史も含めて厳

しく城郭自体が私に問い掛けて来ます。

 

◆反論者

ふん!長谷川ごときが甲津畑に新城

を発見したら仰天するわ!しかし俺

俺は学問よりか員数の論理と人間の

多い所に集合する!それが俗世の人

間の本心と言うもので学問など無用!

 

◆みんな

本物の城郭の先生に本物の城郭遺跡

を見学解説して欲しい!どんな著名

な城に関する人が御当地に来られて

城郭遺跡を確実に調査し捉える事が

できる質実伴う先生の解説が欲しい!

 

◆田畑氏

ふふふふ本物に近道なし!ありえない

所に要害や砦を構えて敵を迎撃する事

は兵法の常だふふふふ近頃、フエーク

ニユースや、偽情報が町じう蔓延して

偽物が大流行する日本城郭ブームです。

▼イラストに南と表記された矢倉基壇の跡

▼イラストに西と書かれた部分の斜向する土塁

▲土塁が輪を描くように普請されてる。

文字どおり曲輪「くるわ」が存在する。

 

◆長谷川

甲津原某所に所在する新発見の城は

主郭部の全長が東西30間54.9mです。

土塁は主郭の南西北部にうねる様に

設定されています。その土塁の外郭

の強烈な竪堀群が残存しておりこの

城は西に防御を置いた非常に異形な

形態を示す城郭遺跡と言えましょう。

全国的視野から見れば連続竪堀群の

城と簡単に評価されるような全国区

的な観点からは評価されるべき城郭

で主郭中心部から放射状に連続竪堀

群を縄張りしてる事が読み取れます。

ディフエンス「防御正面」は西に設定

されていますがスゴイ砦の跡ですね!

◆探訪家

長谷川先生この砦の存在する場所を教えて

下さいよ!行きたくてウズウスしますよ!

 

◆長谷川

自分で城郭を探せるだけの力量歴史地理力

自ら身に着けてください!城の先生は城な

ので城と言う先生は丁寧に親切に城のある

場所を城を勉強しようとする場所へと人を

導いてくれます。城郭目録や城郭観光に載

っている「目録見学者」や「カタログ見学」

の方は既知の城を見学される人で私は城郭

分布調査員だったので分布図に矛盾があれ

ば欠落した部分を調査に行ってるだけの事

野球で言うと、一塁と三塁の図面があれば

「二塁」に相当する砦を調査に行くだけの

単純な事です。極めて素朴な事なのですよ。

 

◆対談者

貴方の崇拝する城郭の先生は何故?自ら

城郭を新発見されない訳よ?長谷川先生

と山に行くと何故この山に行かれます?

と質問すれば「城がある場所の地理地形

や交通史」勘案すると、ここに城郭があ

るから城郭を調査に行きますと言わます。

 

◆みんな

チョツト待て!野球の監督は二塁がある

事など当然知ってる訳!城で言うならば

2塁を「新砦」発見できない人とは?

もしかしら野球も城郭も知らない人?

 

◆長谷川

嫌味を言う事は紳士的城郭道そして

学問の「道」を探す事に反します!

社会とは官民仲良くよりよい学問

を進捗させて行く事が城郭道です。

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さきたま古墳群 ビイスタ工法の一考察

2022-05-21 02:36:02 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

さきたま古墳群  ビイスタ工法の一考察

◆長谷川

城の図面ばかり見ていると疲れる時がある。

私は「さきたま古墳群」の図を疲れた目を

して見ていた。倭族、和種とは何故?前方

後円墳を作るのだろうかと?前方後円墳は

韓半島南部から日本列島東北部にまで分布

する古墳の一様式である事に間違いがない

が稲荷山古墳の中堤には、古墳祭祀の場と

して作出部が青線の如く存在する。これ等

はビイスタ工法を応用して青線の如く土木

工事を施している。勿論前方後円墳の前方

部は放射状ビイスタ工法そのものである。

前方後円墳の萌芽や系譜は既に弥生時代

の前方後円周溝墓に既に発生の起源があり

幾何学の基本は四角、矩形の方眼状升目を

を基調とする90度角度とする直角を基調と

する方眼状グリッドと放射角度を基準とす

るものとコンパス「矩」を基調とするもの

に大別する事ができる東洋史では、規矩術

と表現している。東洋で放射状に形成され

る器物で身近な物は唐笠、団扇、将棋、羽子

等の数多くの物品が放射状に設計されている。

さて中土堤の巨大な作出は地方王墓の古墳

としては異例の様にも思えた。また前方後

円墳、稲荷山、将軍塚山、二子山、愛宕山、

瓦塚、鉄砲山、奥の山、中の山古墳の前方

後円墳には機内大和の大王墓とは異なる、

矩形の二重周壕を巡らせいている事例も、

地域の首長墓の独自性やアイデンティテイ

を強く打ち出している。稲荷山、将軍塚

山、双子塚、瓦塚、鉄砲山の各古墳には

直接後円部に左片袖の作出部「赤点」を

備えている。ま各古墳は赤線の如く赤線

の如く複数腺で一組のグループを形成し

ていると考察した。

◆長谷川

私は独自に赤の放射腺状の王墓、青の放射腺の

王墓、緑の放射腺の王墓、黄色の放射腺の王墓

を仮説として群集前方後円墳のビイスタ工法論

的配置の一考察として仮説論として表現した。

私の赤、青、緑、黄色など古墳配列の意味は

1ーーーーー2ーーーーーーー4ーーーーー5

「親」ー「子」ー「孫」ー「曾孫」ー「玄孫」

の様な地方首長の王族系譜を物語るものか?

現代会社組織でも血族相続形式のフアミリー

会社を形成する組織もあるが血族に関係ない

リダーシップを執る会社経営が行われている

人間社会においても血族間で利権争いや相続

を争う血族相克は源頼朝など源氏でも発生し

ている。このさきたま古墳群の被葬者達も必

ずしも血族相続者の首長墓群とは限らない。

◆無関心様

今回の投稿戦国と関係ないっしよ!オレ興味

全然ゼロなんすよ!

 

◆長谷川

失礼致しました。貴方は戦国にも古代も興味

が無いのですね?

 

◆無関心者

戦国は興味アリすよ!古墳なんかは知らんし!

 

◆長谷川

丸墓山は石田三成の本陣だと一目見て解るセンス

が貴方に欲しいですね!つまり此処は豊臣秀吉軍

2万人が後北条方の忍城を包囲した歴史現場です。

古代は此処が関東の表舞台だった。戦国期も此処

が表舞台の一つだ。稲荷山古墳の被葬者は大和の

天皇を補佐する人物だった。王を補佐する人の事

を王佐之才「おうさのさい」と呼びます秀吉の天下

創業を補佐した人物こそ、石田佐吉こと石田三成

すよ。歴史は普遍的に繰り返されているものです。

 

      石田三成本陣

読み・・・いしだみつなりほんじん

所在地・・・埼玉県行田市埼玉(旧行田市)

築城年・・・1590年

築城者・・・石田三成「本来は円墳」

主な城主・・・石田三成

 

水攻めの本陣

1590年、豊臣秀吉が小田原攻めをした際、

石田三成は忍城を水攻めにしたが堤防決壊し

た。その本陣こそが丸墓山古墳であったと言

われ、古墳の南北に堤(石田堤)を築いた。

◆反論者

でも古墳と戦国関係無いっしよ!?織田信長

とかに関係なし勝家とか光秀も関係ないし。

 

◆対談者

姉川合戦の信長本陣が辰が鼻「茶臼山古墳」

山崎合戦の光秀本陣が「御坊塚」前方講演墳

賤ケ岳合戦の勝家本陣が余呉の狐塚でしよ?

秀吉は余呉湖畔の山中「茶臼山」に一時的に

布陣しています。「保崎谷古墳」勿論大阪城

の茶臼山も古代の古墳が起源な訳なんですよ。

 

◆対談者

所で古墳が築造されていた時代に文字が存在

したのでしょうか?一部の有識文化層のみが

漢字を使ったと思われますが、、、、、、?

 

◆長谷川

当該稲荷山古墳の鉄剣象嵌文字が著名。

以下ウッイキペデイアより稲荷山古墳。

銘文発見の経緯[編集]

1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の

発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量

埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年

腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線によ

る検査が行われた。その際、鉄剣の両面

に115文字の漢字が金象嵌で表されている

ことが判明する(新聞紙上でスクープとな

り社会に広く知れ渡ったのは1978年9月[1]

その歴史的・学術的価値から、同時に出土

した他の副葬品と共に1981年に重要文化財

に指定され、2年後の1983年には国宝に指定

された。当初、古墳の発掘は愛宕山古墳

行われる予定であったが、崩壊の危険がある

ため稲荷山古墳に変更された。

銘文の内容[編集]

(表)

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝
其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名
多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人
首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時
吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

漢字六書の仮借から銘文の漢字一字を読み一字

とした場合、書かれている文字に読点を打って

解釈すると、

辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、

名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。

其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ

(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。

其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、

名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し

来り今に至る。ワカタケル(『ワ、ワク、カク』+

『カタ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺[6]

シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の

利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

(以上は裏面)」

特色[編集]

115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの

例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な

基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上

で大きく役立つことになった。

また、1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(当時

は白川県)にある江田船山古墳からは銀象嵌の銘文を有

する鉄刀が出土した。この鉄刀の銘文にも当時の大王の

名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の

部分も字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては

「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」

(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記

)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の

金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「治天下獲

□□□鹵大王」 と読み、「獲加多支鹵大王(ワカタケル

大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。

このことから、つまり5世紀後半にはすでに大王の

権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される[8]

 

◆質問者

東国王オワケの臣とは

時代を体表する偉大な東国の統治者だったですか?

為政者とは巨大なランドスケープ計画を創立する?

 

◆長谷川

①藤原宮の壮大な都市構想「藤原の宮」のビイスタ

方形グリッドと放射グリッドを併用して都城を構築

②平清盛の兵庫港の後身兵庫城  西国交易の重要拠点

③源頼朝の鎌倉府 東国武士政権の巨大な府城

④倭国統治創業を補佐したオワケの臣等陵墓群

 圧倒的な土木量を投入し作られた巨大古墳群

◆対談者

長谷川先生もしかしたら!私はビイスタ論動画

の視聴者数がてっきり25名程度かと馬鹿にして

ましたがもしかすると2500名様も賢明な皆様が

御覧になられビイスタ論の動画が到達するかと

と不安を抱いております私達の講師長谷川先生

はせいぜい受講者様は5~6人名が良い所ですよ!

それが2500人を超えると言う事自体異常な現象!

 

コメント (1)
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