ライ、クーダー ドリーム
何と飾り気のない色褪せた場末の
路地裏を行くような雰囲気の演奏
だろうか?ライのスライドギター
も深い哀調を秘めて、セピア色し
たピアノ演奏なども真に深い情緒
を感じる素晴らしい古典佳曲です。
木琴によるトレモロ演奏も流麗だ。
ライ、クーダー ドリーム
何と飾り気のない色褪せた場末の
路地裏を行くような雰囲気の演奏
だろうか?ライのスライドギター
も深い哀調を秘めて、セピア色し
たピアノ演奏なども真に深い情緒
を感じる素晴らしい古典佳曲です。
木琴によるトレモロ演奏も流麗だ。
石田三成辞世の句とは?
◆長谷川
8月22日眼下に望まれた景色こそ
が三成の言う筑摩江だったのです。
◆質問者
何故羽柴秀吉は秀長に命じ
て長浜市丹生谷の小原へと
木之本町黒田の住民を夫丸
に駆り出しているのです?
◆長谷川
長浜市高時川上流は丹生
谷丹生川と呼ばれてます。
小原は越前岐阜方面とも
間道を通し、通じてます。
秀吉は高時川上流丹生谷
へと作業員を派遣した人
間道閉鎖と警戒を彼は抜
かりなく怠ってません。
また古代は余呉が越前
への正式通路ではなく
高時川上流こそが元来
越前への正式な路でした。
◆質問者
余呉東野山城を見学しま
した。何故高時川上流の
丹生谷に掘を深く土塁を
高く構築してるのです?
◆長谷川
賤ケ岳の合戦は北国街道
余呉庄を中心とした合戦
なのですが歴史現実とは
常に異なっている事があ
ります。歴史は勝者が記
録しており自分達に都合
の良い事を書いています。
東野山城が丹生谷側土塁
が高い事は丹生谷に軍事
緊張が存在した証拠です。
城を見る基本は土塁が何
にむかって高く敷設して
いるかを、知る事が基本。
◆質問者
長谷川先生と余呉町の下
丹生砦や摺墨砦を見学し
て驚いた経験があります。
丹生谷に賤ケ岳合戦の時
の軍兵が進駐したのなら
堀秀政方の将兵は坂田郡
へと戦利品を持ち帰る事
は当時の社会現象だった
のでしょうか?
◆長谷川
伊香郡の将兵が犬上郡に
侵攻した場合伊香郡へと
戦利品を持ち帰ってます。
信長は今川義元の佩刀を
分捕ってますそれが戦国
戦利品は戦国期の社会の
特徴であつた現実歴史が
あります。例えば賤ケ岳
城の陣鐘は木之本黒田の
大澤の寺に返して欲しい
旨の嘆願書は残ってます。
◆長谷川
22年8月22日の米原歴史
紀行の結果報告をします。
先ず米原駅を出て米原氏
の城館の跡の水堀見学を
致しました。これが①番
次に小谷吉継の首塚見学
を実施致しました②番と
言う事になります。
そこからは米原太尾山城の
形状がよく視認出来る位置
でした。太尾山の東山麓に
は大谷と呼ばれる小字に館
が残っております。その道
は8月22日に見学解説して
います。
◆質問者
うかしいじやありませんか?
大谷吉継は長浜市小谷出身
説はもう定番になって来た。
何故米原に大谷吉継の首塚
があるのですか?変ですよ?
◆長谷川
そこは自分で考えて下さい。
◆長谷川
次の見学場所は願乗寺所蔵
の余呉町菅波地区から米原
に梵鐘が移動された件に関
太鼓櫓と梵鐘見学しました。
これが③番見学になります。
これは城郭の門矢倉の見学。
真宗寺院様で言う、太鼓門。
鐘の丸の語源は梵鐘を城内
で打った事が始まりで陣城
では陣鐘を使います。
◆歴史探訪愛好家
そんな素晴らしい探訪会なら
何故ブログで事前に紹介しな
いのですか?
◆長谷川
私のブログ誰も読んでません
読んでいてもせいぜい20名様
紹介しても意味がないのです。
◆質問者
うかしいじやありませんか?
何故余呉丹生谷菅波の岩本寺
六所権現の梵鐘が米原に存在
するのですか?
◆長谷川
そこは自分で考えて下さい。
井戸町踏切も見学しました。
有名な井戸村与六作職書付
(さくしきかきつけ)を是
非思い出してください。
これが本日の④番目見学。
◆長谷川
次に向かった場所は岩脇山
城跡と岩脇氏舘跡を見学し
ました。岩脇山山頂にて早
めの昼食を取らせて頂いた。
岩脇山が⑤番見学、館跡が
⑥番見学です。⑦が善行堂
で城郭の懸造り「懸造」の
学習目的としたものです
◆長谷川
次に岩脇山山麓の太平洋戦争
末期に掘削された蒸気機関車
用の退避濠を2箇所見学です。
これが第⑦番の見学でした。
◆長谷川
次に西円寺山砦の竪堀を遠望
しました。これが第8番見学
◆長谷川
次に岩脇道踏切を見学しま
した。これは小字岩脇道か
ら踏切名称がつけられてる
勿論中世はこれが北国道で
あり太尾や番場へと連結
する重要な要衝、通路で
この岩脇道が第9番見学で
す。我々は米原高校へと
向かう途中にトトロの森
女山を見学第10番見学で
またこの土地が「小字」
「ふとんぼ」で太尾坊の
意味です。これが⑪番見
学です。米原坂で合戦が
あったと言う事でここが
米原坂古戦場で⑫番見学
◆長谷川
我々は太尾山「盗人岩」の
巨岩の岩場で暫時休息して
太尾城北城へと向かいます。
これが⑬番⑭番見学場です。
◆長谷川
次に我々は太尾山城南城へ
と大小の櫓台の見学をする
これが⑮番見学と言う事に
▼楼閣のイメージ
◆長谷川
無事下山して山麓の湯谷神社
に参拝休憩した後に解散しま
した。これが16番見学でした。
◆歴史探訪愛好家
是非参加したい見学会の様子
です。城郭と歴史と交通歴史
を関連づけて見学されてます。
◆一般様
随分と余呉と米原は関係が
深い事を知って驚きです!
◆長谷川
余呉城郭研究会ですからね。
◆対話者
近所の年配の方が自分の
家屋敷の航空写真を見て
激怒され修正を求められ
た。その人が言うには父
から親からウチの屋敷は
四角四面だと聞いている
航空写真のウチ屋敷の写
真は間違っていると激怒
された話なんですけど?
◆対談者
それ文字や言語による
伝達媒体です。図書館
で言えば書は読んでる
が図は見ていない形状
不認識タイプの人です。
◆長谷川
それ文字や言語学習に
よって父祖から刷り込
まれた固定概念認識と
言うものです。その方
自分の土地を四角四面
と教え込まれ文字言語
学習の強固な固定概念!
◆一般者
ウチの孫ちゃんブロク
で遊ばせてます。これ
は知育脳活の為の訓練。
四角のブロックは四角
のパズルに当てはまり
ます。台形は台形へと
当てはめるゲームして
ます。観察力や応用力
を幼少期から養う為に
前方後円墳
羽子板
◆一般者
日本の文化を理解している
と羽子板でも古墳でも開い
た設計をしています。将棋
は中国から来ましたが開い
ている。扇や唐笠とは勿論
中国からもたらされた幾何
学物です。
◆長谷川
城館の場合正方形のものは
少ない傾向にあり大多数が
台形で作られております。
◆長谷川
日本の城の櫓台は正方形の
ものが少なく1234辺の長さ
が計測すると異なる事こそ
それが日本の城の常識です。
貴方は四角四面と決めっけ
ていたものが実は台形だと
認識する事が城見学の基本
になります。ビイスタ理解
の近道にもなります。四辺
を見ない人は万年正方形と
盲信する傾向が脳内形成さ
れます。貴方の脳が最初か
ら正方形と断定するタイプ
の人は城郭ビイスタ論とは
心には響いてきません。淀
城の図を見ても心に反応し
ない人間になってしまう訳
※徳川将軍休憩所の考察
◆一般者
前回投稿の伊勢田丸城の秘密
興味深く読ませて頂きました。
◆長谷川
前回の田丸城の投稿に対する
閲覧者は30名を超えて感謝!
なんとか閲覧者を30名を保持
したいのが本音です。
◆対談者
以前ある人と滋賀東近江市
能登川伊庭御殿跡に行きまし
たが何故か幻滅してしまった。
しかし暫くして長谷川先生が
偶然安土城に行かれる事とて
伊庭御殿跡も行きましょうと
言われイヤイヤ行きましたが
◆対談者
北近江出身の小堀遠州の作と
も言われる徳川将軍の為の茶
屋で休憩所である場所との事
前回行ってウンザリでしたが
今回は長谷川先生と個人授業
と言う事で私は先生に今、大
変話題のビイスタが伊庭御殿
にありますかと質問しました
ら作庭、作事も含め伊庭御殿
のビイスタ工法を素朴に解説
を受けて私は衝撃を受けまし
た片桐石州や小堀遠州や藤堂
高虎は特殊な才腕や技術所持
者は近江出身の人に多いです。
▼伊庭山城イラスト長谷川作
また能登川では徳永石見守寿昌
の事や伊庭御殿の裏山にある伊
庭山城の図面も教示を賜り興味
深く楽しく時間を過ごせました。
▼城郭ビイスタの概念「見栄え」
▼伊庭御殿のビイスタ工法
◆番外質問者
長谷川先生は素朴に人々の
疑問に答えて下さる先生と
聞いております。江戸時代
の江戸城浜御殿にビイスタ
工法は存在するのですか?
▼江戸期の江戸浜御殿図
◆対談者
もうこの浜御殿の形見れば
正方形でないのでビイスタ
工法で作られてると思うわ!
◆長谷川
では早速検討致しましょう。
▼浜御殿遠隔ビイスタ工法
◆長谷川
素直な城郭を見る感性を備え
ておられます!感心致します
御明察です。江戸城浜御殿は
遠隔型ビイスタ工法該当です。
◆一般者
対談者さんスゴイね!私達が
解らない事に気付く眼力また
洞察力は長谷川先生の御指導?
◆長谷川
対談者様は素直な性格の方で
す。城の本丸が四角四面90度
の本丸か台状の本丸かを確実
に認識理解されている訳です。
私は難解な事ではなく素朴で
純心な方々と城を勉強したい。
◆反論者
何が城郭研究家長谷川だよ
素人初心者のくせに生意気
なんだよ!城郭ビイスタ論
なんざ絶対に存在しない!
絶対に城郭ビイスタ動画を
見てならんぞ絶対見るな!
◆長谷川 ▲江戸浜御殿
江戸浜御殿は様々な作庭作事
の工夫にビイスタ工法を採用
◆みんな
すごいね!ビイスタ論って!
動画再生数が3600回超えた!
これ令和の本物の城郭論だ!
◆質問者
徳川三代将軍、家康、秀忠、
家光の為に作られた近江国
の永原御殿の縄張の御教示
を長谷川先生是非願います。
▼近江野洲 永原御殿跡図
◆長谷川
先ず念頭に置くべき事は日本
の城の測量方法の基本で享保
18年段階ではこの様な幾何学
測量が存在した事、これ日本
の城郭測量文化の基本ですね。
◆長谷川
徳川幕府開祖者徳川家康晩年
の隠居城、駿府城においても
中央ビイスタ型と遠隔型扇状
ビイスタを併用している事に
着目比較研究を致しましょう。
▼駿府城中央ビイスタ型縄張
▼駿府城遠隔ビイスタ型 扇型縄張
◆長谷川
徳川将軍の為に作られた永原
御殿にも駿府城の如く中央に
中央測量起点のある中央型の
ビイスタ工法が読み取れます。
▼永原御殿 中央型ビイスタ
◆長谷川
ちなみに天正12年(1584年)の
家康小牧山本陣も中央ビイスタ
◆長谷川
徳川の永原御殿には
遠隔ビイスタ工法も
扇型ビイスタも併用
し定番どおりの工法
◆若者様
すげえよ!こんな解説初めて
聞いた!ゴルゴ13の射撃にも
匹敵する確実で完璧理論だ!
▼永原御殿
南ビイスタ工法
◆反論者
絶対この様な理論認めないぞ
長谷川城郭研究など異端者め
何故ならば我々こそ正当派!
◆一般様の質問様
あのう~徳川の水口御殿
の水口城にビイスタは?
◆反論者
騙されたちやいかんよ!
水口城は四辺の角度が
みな90度直角なんだよ!
水口にビイスタなんぞ
ある訳が絶対ないんだ!
◆対談者
そうやって、明治、大正
昭和、平成と城郭幾何学
を顧みなかった日本城郭
研究は否定論を第一とす
マイナス思考文化論です。
積極的に検証検討する心
が欠落した否定の概念が
日本の城の学問の進捗と
進展を阻害して来ました。
否定なら子供でも出来る。
◆長谷川
失敗を恐れず学問に取り組
ましょう。思わぬ成果可能
性があるかもしれませんね。
◆長谷川
水口城の外郭も含めると中央
ビイスタ存在したと思います。
いや其ればかりか方円の高度
な幾何学を応用した見事な城
であった可能性も考察します。
主郭部が角の聞いた「方」な
ら外郭にはコンパスを用いた
縄張「円」も読み取れますね。
それからビイスタ工法定番の
クサビ型ビイスタ読み取れる。
◆みんな
すげえ!今回の投稿は図書館
に行って調べても、大学に行
って、尋ねても、全く解答の
無い、新しい「令和」の城郭
研究の新視点が提示されてる。
こんな城郭ビイスタ論動画が
大切な理論だと日本の誰もが
言及し気付いてない事に驚く!
◆長谷川
上図の如く別角度からも
水口ビイスタ工法を検討
しましよう。素晴らしい
縄張が展開されています。