◆対談者
城郭ビイスタ論が世界で通用
する事が解り学術的に大変に
高い評価と聞き及びます今後
の城研究にはに必須事項です。
◆反論者
この動画は絶対見てはならい!
◆質問者 たてめ
古代中国の蜀の王様は竪目だ
と言う伝説があると聞きます。
◆長谷川
古蜀王国の「蚕叢」なる王が
死した時に竪目だった伝説が
ありました。1986年に伝説の
王と思わる銅製品が中国三星
堆遺跡から発見、世界が驚愕
した記憶があります黄河文明
とは異なる長江文明の発見と
も解釈する人々もおられまし
た。銅面は口角が上がってい
てアルカデイックスマイルの
ようでもあり異様な迫力です。
※蚕叢(さんそう)は、古代
の蜀にあった古蜀を建国した
とされる人物。
◆ウイッキペデイアより引用
華陽国志に記述が見える。蜀侯であったという。
周王が衰退してから最初に王を名乗った。
蚕叢が死ぬと、石棺と石槨が作られたため
蜀の人もこの習俗に従うようになったという
。目が縦であったとされ、以降人々は石棺と
石槨の墳墓を縦目人塚というようになったと
いう。
◆質問者
この古蜀王国には都城が存在
しましたかビイスタ工法は?
◆長谷川
概略上図の様な城壁都市
であったと、されまして
凡そビイスタ工法の概要
が読み取れると思います。
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論
動画は国際的とも言えます!
動画視聴数が3900人突破した
評価されているのは学術性!
◆長谷川
上図は推定復元図なので正確
とは言えないと思います慎重
に物事を観察致しましょう。
貴方は長浜市木之本町に住ん
でいます。しかし木之本地蔵
の境内がビイスタ工法だとは
全く気付いていないでしょう。
身近な所にビイスタが潜む事。
貴方は城跡が大好きです。
でも安土城の小ビイスタ
に全く気付いてない人だ。
◆質問者
古蜀王国とは?
◆ウイッキペデイアより引用
古蜀(こしょく)は、古代の蜀にあった国。
東晋時代の地誌『華陽国志』にその歴史が詳
しく記されているが、司馬遷の『史記』では、
紀元前316年に秦の将軍司馬錯に滅ぼされた
ことが記されるのみである。
◆質問者
この城の城内はビイスタ工法
を読み取る事が可能ですか?
◆長谷川
東北からビイスタ工法が概略
読取れます。城郭は月亮とも
呼ばれる内城壁や西城壁や東
城壁も存在致します。近年に
北城壁も発掘で確認されてい
ます。
◆長谷川
特に南城壁は円弧を伴う
縄張プラニングが読取れ
ます。コンパスを使って
の設計と思われます。
古蜀王国の南城壁は円弧
で設計されているようで
す。▼
◆長谷川
中国河南省鄭州商場城つまり
古蜀が臣下の例を取った殷商
の国家もコンパスを用いたる
設計縄張と私は考えてます。
規矩術とは設計の基本です。
▼中国河南省鄭州商場城
◆長谷川
古代アッシリアの都
アッシールも同じです▼
◆質問者
中国古蜀三星堆の城壁構造
には重複型ビイスタありま
すか?
◆長谷川
複数の重複型ビイスタが存在
するようです。
▼Ⅰ類
▼Ⅱ類
◆長谷川
人類の作り出す都市や城郭
は測量に形成されている事
を今後認識する事が大切だ
と思います。城に行くから
城を考える人が増える事を
願っております。
◆三星堆遺跡
ウイッキペデイアより
華陽国志は初代古蜀王の目が縦など突飛な
事記述から空想の産物だと長らく思われて
いた。しかしながら三星堆遺跡から出土
した青銅縦目仮面が蚕叢の記述に合致し
縦目であったことから、事実とみなされ
、見直されて古蜀が現実に存在したと考
えられるようになった。ただし、詳細は
ほとんど明らかになっていない。
◆三星堆遺跡
ウイッキペデイアより
東は巴、南は越、北は秦、西は峨眉山に
接し、天府と称され、原名を華陽と言っ
た。武王の帝辛(紂王)討伐にも参加し、
周王室を奉っていたが、中原から遠いこ
ともあって春秋の会盟には参加できなか
った。周王室が衰退すると蜀がまず王を
称し、蜀王杜宇の時代には帝と称した。
その後は開明氏が代々蜀王となって
隣国の巴と争った。
周の慎靚王5年(前316年)、蜀王が弟
の葭萌を漢中に封じその城邑を葭萌と
名付けるよう命じた。号して苴侯と言った。
苴侯は敵国の巴王と好を通じたことに激怒
した蜀王に討伐を受け、巴に逃亡して秦に
助けを求めた。
楚を討伐する計画を立てていた秦では群臣
達の間で議論となり、「蜀は西方辺境の国
であり、戎狄の長に過ぎない。楚を討伐す
るのとは違います」という意見が出された。
これに対して司馬錯と田真黄が「蜀は、桀王
、紂王の騒乱の時からあり、その国は富ん
でいて、布帛や金銀を得ることができ、軍備
に用いるには十分な量を産します。水路は楚
に通じていて、巴には、大船舶を浮かべて、
東の楚に向かえば、楚の地を得ることが
可能です。蜀を得ることは、すなわち楚
を得ることになります。楚の滅亡は、
すなわち天下の併合となります」と意見
すると恵文王は「よし」と言って、張儀、
司馬錯、都尉墨らを石牛道から蜀討伐に
向かわせた。
蜀王は自ら軍を率い葭萌と戦ったが敗走
して武陽に至り秦軍に殺害された。宰相、
太傅、太子は逢郷まで落ち延び、白鹿山で
自害した。 冬十月、蜀は平定され苴侯と
巴も滅ぼされた(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))。
紀元前2000年頃もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである[1]。三星堆遺跡自体は、1929年の春に当地の農民が溝を掘っていた際に玉器を見つけたことで、1931年にイギリス人牧師であるVyvyan Henry Donnithorneによって発見されていた[1]。しかし、長く本格的な発掘はなされず、1980 - 1981年に、初めて四川省文物委員会等により本格的な発掘調査が行われて、大規模な住居跡が発見された。以後、発掘が継続して行われ、1985年10月までに、東・西城壁跡が発見されて、本遺跡が古蜀王国の都城跡と見られるようになった。さらに、1986年には本遺跡の上限が約5,000年前と見られるようになった。また、各種の貴重な玉器・金器・青銅器等が出土し、以上の成果により、1988年1月、国務院は本遺跡を全国重点文物保護単位に指定した。発掘調査はさらに継続され、1996年秋には日中合同の磁気探査などの科学的調査が行われた。2005年に基本的な発掘調査を終え、現在整理研究中である。以上の発掘調査で、本遺跡は東城壁跡約1,100メートル(ほぼこの延長線上に第二展示館がある)・南城壁跡約180メートル・西城壁跡約600メートルが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、のべ2000年近く続いた。4期に分かれ、第1期は4,800 - 4,000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。第2・3期は4,000 - 3,200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。第4期は3,200 - 2,800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5,000 - 6,000メートル、南に2,000 - 3,000メートルに広がり、総面積約12平方キロメートルで、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6平方キロメートルである。
三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3・4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を証明する有力な証拠となった。