城郭 長谷川博美 基本記録

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四国 国分山城のビイスタ構造

2024-09-12 23:24:43 | 四国の城のビイスタ

四国 国分山城のビイスタ構造

 

◆対談者

長谷川先生の城郭ビイスタ論

は奇妙な変な理論なのですか?

 

◆野球観戦者

我々は野球のストライクゾーン

と言う物を当然、知っています。

 

◆対談者

私は長谷川先生のブログで

丹波亀岡城にビイスタ工法

がある事を知り驚きました。

◆一般者

僕は丹波黒井城の扇がビイスタ

を知って驚いているところです。

◆美山住人

私は美山の島城にビイスタが

ある事に驚いているところで

◆滋賀住民

私は安土城城郭ビイスタは

絶対に信じる事をしません

◆対談者

あらでも近江米原番場城は

ビイスタ工法設計されてる

◆対談者

そうそう近江鎌刃城だって

ビイスタ工法で築城してる。

◆長谷川

  近江番場の領主土肥氏とは

元は関東から来た近江坂田郡

地頭職なんです。だから西国

の小早川氏と系譜をたどれば

同じ一族同族遠い親戚ですね。

新高山城なんかも小早川隆景

の城なのですがビイスタ縄張

している。小早川氏は土肥

氏の流れくむ一族と言えます。

◆長谷川

小早川隆景は三原城と城下を

ビイスタ工法で築城している。

◆長谷川

毛利秀元は九州で櫛崎城を

ビイスタ工法で築城してる。

◆野球趣味人

イチロー選手はセンターライト

レフトにヒットを打ち分ける人

 

◆対談者

そりやプロの大リーグ選手です。

打撃センスのある一流職人名手。

 

◆野球趣味人

投手は打者が打ちにくいコース

にストライクゾーンを広く使い

様々な角度の変化球を投げてる

さて大谷翔平選手は大リーグで

47本もホームランを打つ技量が

ある。これが一流プロな訳です。

 

◆野球観戦者

そんなの当り前でしょうがな

ビール飲みながら次の球イン

かアウトコースか予想します。

 

◆滋賀住民

長谷川先生なんて城郭の先生

知らない聞いた事ない。また

城郭ビイスタ論などは絶対に

認めない!感心がない訳です。

 

◆高岡住民様

高岡城の城郭ビイスタなど

知らない。知ってるのはね

漫画家藤子不二雄先生です。

▼高岡城 ビイスタ工法

◆対談者

チョツト待って下さい!城郭ビイスタ

を知らないと言う事は野球で言う所の

ストライクゾーンの事全く知らない人

が野球を語ってる事と同じじゃない?

◆長谷川

城郭ビイスタ論をお仕着せしません。

自分のお好きなお好み焼でよろしい。

私は広島焼と言われるタイプのお好

み焼が好きですがどの様なお好み焼

も美味しく食べられる事が幸福です。

 

◆長谷川

江戸時代の享保期までは日本国の

城はこの様に測量しいた記録があ

り、ある意味城測量の基本形です。

◆長谷川

藤堂高虎参画した江戸城本丸

西の丸にWビイスタが読める

◆長谷川

それは大垣城などにも読み取れます。

◆質問者

四国の国分山城にビイスタ

はあるのでしょうか?

◆長谷川

私には解らないのですが

最初からこれを否定して

城郭ビイスタ理論を拒否

していたら学問は進歩や

進捗致しません。国分山

城Wビイスタを駆使して

築城していると思います。

AとBを測量起点とする形

のWビイスタと思います。

◆長谷川

更に検討すると城下の街割り

痕跡をも含め城館の堀の形跡

を考え合わすとCのビイスタ

も求められると私は思います。

 

 

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丹波 美山 島城の特別解説

2024-09-12 19:45:03 | 近畿の城 ビイスタ工法

◆丹波 美山 島城の特別解説

◆一般者

長谷川先生の御案内と解説で

現地山城御案内に参加したい。

 

◆長谷川

私のブログは誰も読んでない

私の人気はゼロなのですから

他会に是非とも行って下さい

 

◆質問者

京都府南丹市に所在する

島城と川勝氏の略歴をお

願いです。

 

◆長谷川

※城主

川勝兵部大輔継氏

 

※従属主君

天正元年織田信長に加勢し

細川藤孝に従軍し石成友道

の淀城攻めに参加。天正10

本能寺の変で明智光秀には

従わず。息子の秀氏は秀吉

から丹波に領地を下賜され

る。川勝秀氏は徳川家康か

ら西軍加担の科を許されて

徳川家康配下に丹波黒井城

を預かる。川勝氏は徳川氏

の旗本として継続した。

 

◆一般者

長谷川先生の城郭ビイスタ論

これ好評ですよ。例えば丹波

黒井城のビイスタはどうなの?

 

◆長谷川

普通に扇型ビイスタ存在です。

◆質問者

丹波 美山の島城の縄張を是非

御教示を下さいませ!

◆長谷川

Ⅰ郭は連続竪堀、隅櫓土壇

石垣、銃座、虎口、堀切が

Ⅱ郭は長土塁、土塁、段築

Ⅲ郭は郭馬出「角馬出」様式

凡そ概略はこの様な縄張です。

また機会があれば美山島城へ

善良な人と行く事に致します。

 

◆一般者

素晴らしい!流石は城郭遺跡

解説の専門家長谷川先生です!

一般的城郭探訪とレベル違う!

 

◆忠告者

何を言っているのですか?

昭和、平成と、城郭学者は

大切な城郭学の進化進捗を

怠ってきたのです。土塁や

堀切の解説などはもう当前!

令和には令和の城郭学

を創出するほどの気概

が必須です。日本男児

城の遠足だけして人生

終わりは余りにも情け

ない凛と城を見学希望

です本気こそ城郭見学!

◆忠告者

長谷川先生日本国の城郭には

城郭ビイスタがあるのでしよ?

これ見逃したら日本男児泣く?

 

◆長谷川

ふふふふ 日本一駄目な不人気

城郭研究家長谷川です。巷には

猫の子一匹私の解説を受ける人

は一億人に1人もいない事こそ

痛快無比諧謔的とも言えますね。

捨てられた不要なる物、捨石の

長谷川の人生の裏街道ですよ。

◆長谷川

先ず北の1から放射線状に扇型

に島城は縄張を取っています。

これ扇型ビィスタと言います。

2にも扇型ビイスタあります。

4と5はクサビ型ビイスタを

相対させて縄張しています。

これを相対型ビイスタと言う。

◆一般様

すげえ!令和城郭ビイスタ論

ピッタシカンカン的中してる。

令和城郭ビイスタ論必須です。

◆長谷川

まだ様々ビイスタが島城には

存在致します。この様に総合

的に5のビイスタ起点も存在

◆長谷川

まだまだ様々なビイスタ

が島城には存在致します

 

◆長谷川

まだまだ様々なビイスタ

が島城には存在致します

◆長谷川

まだまだ様々なビイスタ

が島城には存在致します

◆亀岡太郎

長谷川先生は令和の縄張の藤堂

高虎とも言われています。滋賀

の湖東方面で人気があるとか?

 

◆長谷川

人気はありません。昔のレコード

で言うならば絶賛売れ残り中と言

うトホホ状態の不人気研究家です。

 

◆亀岡太郎

丹波亀岡城もしかしてビイスタが

あるのですか?もしかして存在を

したら長谷川先生は東洋第一の

幾何学縄張研究家と言う事です。

 

◆長谷川

世辞や賞賛は私は好みません!

この城が日本国の城なら日本の

城のしきたりに従ってビイスタ

で作られていたと言えます。要

はこの事に気付かない人が多い!

丹波亀岡城 扇形ビイスタ縄張

 

 

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高岡城の縄張の謎

2024-09-12 09:38:45 | 北陸の城 ビイスタ工法

高岡城の縄張の謎

◆対談者

勉強の為に前田利長の高岡

城のビイスタ縄張を御教示

下さい。

◆長谷川

私に質問しても日本一無名の

不人気研究家ですから意味が

ないと思います。普通だれも

私の城見学会に参加希望する

人も絶対いない事が確定です!

 

◆対談者

人気とか得票など芸能や政治家

の世界です。私が聞きたいのは

高岡城の織豊系城郭としての縄

張ビイスタを専門家長谷川先生

に御教示願いたいのですよ!

長谷川

私の知る限り前田氏の長岡城は

天正11年の高山右近の岩崎山城

と全く異なる城郭です高山右近

の縄張云々とは異なる城郭だと

思います。長岡城は聚楽第型や

尾張型に属する縄張だと感じる。

前田利長が高岡城の築城主体で

すから利長は初名を利と名乗

ていたので柴田家の玄蕃尾城

の縄張に長岡城はビイスタ学的

に考えても近いと言えましよう。

◆対談者

長岡城に遠近の見所を意識した

ビイスタ縄張は読み取れますか?

▼長岡城

◆長谷川

読取れます。先ず遠隔ビイスタ

を復元する事が可能です。

▼長岡城遠隔ビイスタ

 

 

◆長谷川

近距離ビイスタも読み取れます。

◆質問者

織豊城郭の故地尾張型の

様な重複ビイスタはある?

◆愛知県人

消滅した鳴海城もビイスタです。

 

 

◆長谷川

重複型ビイスタ読取れます。

これ尾張型のビイスタです。

 

▲富山城の重複ビイスタ

▼富山城の重複ビイスタ

◆質問者

高岡城の重複ビイスタから城

の中心点は読み取れますか?

 

◆長谷川

上記図の青腺が正中線「遺跡中央腺」

です。中心は青腺が交わる場所です。

◆長谷川

中央ビイスタと扇型ビイスタ

を併用した極めて優れた城郭

が前田利長の長岡城なのです。

◆長谷川

織豊天正大坂城も基本的

には尾張型のビイスタを

駆使して縄張しています。

◆長谷川

ビイスタ学的に言えば安土城

天守台の縄張と類似する織豊

城郭のビイスタと言えます

◆質問者

まさか前田利長と織田信長は

縁戚関係を持っていました?

◆長谷川

信長の息女

永姫を正室にした。

 

◆長谷川

長岡城は多数のビイスタを

読取る事が出来ます。

◆以下ウイッキペデイアより引用

永姫(えいひめ、天正2年(1574年) - 

元和9年2月24日1623年3月24日))は、

織田信長の四女。前田利長の正室。院号は

玉泉院、法名は玉泉院殿松厳永寿大姉。

生涯

1605年慶長10年)6月28日富山城に隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の1609年(慶長14年)3月18日[4]、富山城下の町人地から出火した火災の類焼により城内の建築物の大半を焼失したため[5]、同年3月22日魚津城に移り[4]、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野に築城の許可を貰う。

利長は築城の方針に伴うため、資材調達を小塚秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、魚津城から築城の指揮を取り、同時に城下町の造成も始めた。縄張(設計)は当時の前田家の客将だった高山右近とされている[6][7]。同年9月13日、利長は「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城した[4]。殿閣は先代利家豊臣秀吉から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられる。しかし、1614年(慶長19年)5月20日に利長は死去(享年53)し、隠居城として使われたのはごく短期間であった。

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元亀天正の衝撃 令和平板測量の衝撃 虎御前山城伝秀吉陣

2024-09-12 09:30:57 | 滋賀の城 ビイスタ工法

元亀天正の衝撃 令和平板測量の衝撃 虎御前山城伝秀吉陣

▼経緯

◆長谷川

2024年9月7日私はNPO法人

自然と歴史ロマンの会の会

に参加する事になった。同

山の伝秀吉陣跡の平板測量

が完成し現代測量法による

城塞の平面構造が明らかに

された意義は織豊城郭研究

ひいては歴史研究上著名な

武将「信長」「秀吉」陣城

形状や縄張を的確に知り得

る機会を得られた事は私個

人にとり貴重な機会だった。

私文献『信長公記』の講師

をNHk名古屋文化センター

様や旧近江公民館で講師を

長年担当させて頂いた経緯

もあり灌漑深い城塞群とも

言える公記には天正元年年1

573年浅井氏の小谷城を陥落

させるまで秀吉が定番となり

一時は信長は横山城に待機す

る等当時の対朝倉氏浅井氏と

駆け引きは高い軍事的緊張

が存在した事が『公記』から

読取る事が可能であるさて伝

秀吉陣はあくまでも伝承であ

り虎御前山顕彰会による測量

結果は測量順位を後世に客観

的に残す為便宜上遺構番号を

F区と仮称された事は意義が

深いと私個人は考えている。

 

◆長谷川

城の設計を経始、縄張とも言う

が虎御前山城伝秀吉陣において

も城郭中央から縄張した中央型

測量の部分を伝秀吉陣から読み

とれよう。それは戦闘指揮官の

陣城として周囲を俯瞰指揮可能

なもので家相学をも含む物であ

ろう。

◆長谷川

中央から測量して城の形状を

決定する手法は後続する安土

城天守台や天正大坂城の中央

測量へ継承された事であろう。

 

 

▼天正大坂城郭ビイスタ

◆長谷川

虎御前山城伝秀吉陣が果たし

て秀吉当人の陣城かは現在は

これを冷静客観的に証明する

事は困難であるが虎御前山城

顕彰会の平板測量は正確であ

り令和と言う時代に元亀天正

の頃の陣城という人口構造物

を白日のもとに大衆や諸賢に

紹介できる事が幸いと言える

顕彰会の平板測量測量が如何

に正確かは戦国当時の測量点

が令和の現代でも読み取れる

事は生涯学習の観点や研究や

向学心の観点からは有益であ

ろう。▼虎御前山城伝秀吉陣

◆長谷川

伝秀吉陣は我々の想像を超える

歴史上の著名人物たる羽柴秀吉

のもと展開された虎御前山築城

プロジエクトが如何に豪放精緻

な平面測量術を駆使していたか

を令和に生きる我々知る可能性

優れた城郭遺跡群と言えよう。

 

◆長谷川

織田方の攻城対象たる浅井氏居城

小谷城を攻囲する陣形や縄張とは

私が赤色で掛腺した放射状の城郭

ビイスタ工法分析でも整合性認め

られる。

◆長谷川

江戸時代の享保期までは日本国の

城はこの様に測量しいた記録があ

り、ある意味城測量の基本形。

徳川系の城の縄張にこれが多い。

◆長谷川

藤堂高虎参画した江戸城本丸

西の丸にWビイスタが読める

◆長谷川

城郭測量の基礎原則ビイスタ

は当該秀吉陣にも読み取る事

が可能である事はこの遺跡が

太閤秀吉の事績を顕彰しつつ

長浜市の観光振興指針と合致

する案件でもあるので虎御前

山城の顕彰や小谷城とも共立

しながら長浜市の観光発展が

促進する事を長浜市出身の私

としては切に願う事である。

この遺跡は秀吉縁故の代表

的遺跡である事に再認識を

市民各位様には御願したい。

城の測量法は伝承継承され

るがその測量文化は時代の

経緯とともに忘れられる。

◆長谷川

伝秀吉陣ひとつとっても多数

のビイスタ測量起点を読み取

れる事が重要であろう。

◆長谷川

秀吉の築城技術やプラニング

縄張は近江八幡山城に継承を

されてい行った。

◆長谷川

彦根城に本丸に中央ビイスタ

と言う城の中心測量位置ある。

 

 

◆長谷川

天正秀吉大坂城にも多数の

放射状ビイスタが読み取れ

私は2~3人の人々とこれら

をストイックに内省的なが

ら勉強したいと希望する。

 

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