いつか機会ありましたら訪いたいと
1月2日にコメントを投稿しました
貴重なコメントを賜りました事感謝
◆長谷川
『島記録』には島四郎左衛門尉と
あり彼は伊賀守を名乗っていたと
記され岩脇市助と姉川合戦にて
戦死したと言う事です。坂田郡
の今井氏家臣の島秀安の5女が
畑伊賀守の室であると記録ある。
此れを客観的歴史的に解釈する
と当時佐和山城主磯野丹波守に
属する南坂田郡の領主物性寺城
主の畑四郎左衛門と言えます。
島氏の本拠は旧坂田郡近江町
飯村「いむら」に相当します。
◆質問者
新庄駿河守直信頼の居城は米原
朝妻城後に茨城城に移り豊臣の
大名となり豊臣の歴城に赴任を
しましたが畑氏と新庄氏は近い
土地関係だったのですが?
◆長谷川
畑四郎左衛門は島秀安らと共に
姉川合戦で討ち死にしたと記録
を残していますが島氏の拠点の
飯村と新庄氏の朝妻城は近隣の
村落であり坂田郡の武士連中と
して新庄氏常陸麻生藩の家老職
と畑家は継続したと言う事です。
姉川合戦ですが、、、、、、、
残念ながら磯野氏は織田信長の
本陣に肉薄するも犬上坂田境目
の居城佐和山城に姉川の戦場か
ら帰還しています。我らの畑氏
は残念ながら姉川で岩脇市助と
戦死したと『島記録』に残る。
◆忠告者
長谷川先生は世間が見落として
る歴史や武将を取り上げられる
のは学術家や本格研究者や学者
として本物本格本物の証拠です
しかしだが今の時代世相は数を
集める時代で人集め上手な学芸
員が出世する世相。先生には
メジヤー学者へと登龍を願いた
のが私の本音だ!
◆長谷川
私は学問研究する身の学者です。
令和6年の
1月13日は畑四郎左衛門の仏性寺
城址も見学する予定になり終了。
◆みんな
行きたいよ!全長70mに及ぶ城
南坂田郡の有名武将だつた人物
畑四郎左衛門の本拠地仏性寺城
早速世話人様に電話予約したり
長谷川先生にメール予約です!
◆長谷川
城組の見学会は令和6年1月13日
に予定してます。御参加希望者の
方は世話人様か長谷川に連絡下さ
い。城址にて畑氏の菩提を弔う為
の黙とうを静かに捧げましょう!
集合は令和6年1月13日米原駅東口
午前10時の予定にして下さい!
◆長谷川
加えて畿内管領代初期近畿地方の
天下差配掌握者、角定頼の陣跡と
思しき木戸口城見学も実施す予定!
その全長は1000mを超えるもの!
畿内管領代にして大観音寺城主で
近江国の太守!守護職で大物だ!
その陣跡が1000m越る当然の事!
◆反論者
マジカよ!これ本当なら軽々に
長谷川批判していたら歴史真実
は歴史現実を見落とす事になる
◆みんな
さすがは我らの本物長谷川先生!
戦国史究明の着眼点や先駆性は
比類なき人でこれは絶対参加です!
毎回参加してますが絶対的中の
バズレなし長谷川ワールド品質!
◆長谷川
どれだけ素晴らしい武将の城郭跡
どれだけ大規模の城郭を発見して
も所詮私は無名の貧乏学者ですよ。
1月13日に有志で見学者しましょう。
◆田畑氏
鳥居本に多数の城郭遺構や石仏や
遺跡が密集してる事には驚きます
◆長谷川
彦根市荘厳寺町これ鳥居本学区
で元来は坂田郡です。荘厳寺町
を訪れても石造文化財の多さに
は驚くばかりと言えます。
◆田畑氏
偽書とされる『興福寺官務牒疏』
こうふくじかんむちょうそ では
荘厳寺をどの様に表現してます?
◆長谷川
『興福寺官務牒疏』は玉石混合の
書物なので文献としては参考資料
としての吟味が必要と思われます
荘厳寺と記す村名はかつて霊山寺
七ヵ別院の一、庄厳寺が所在した
▼荘厳寺砦の一部 長谷川図
◆田畑氏
それらの荘厳寺砦、こね坂砦を
見て私は衝撃を受けていますよ。
こんな場所に堀切や峠道が存在
する事自体が驚きの連続ですわ!
知られざる中世交通史の現実が!
◆田畑氏
長谷川先生に御指南申し上げ
たい事はもっと一般大衆向け
の歴史現場を案内する大衆的
事業や講演の講師で登壇して
欲しと常々思う。この様なる
寒村荘厳寺や仏性寺の城郭は
歴史の表舞台ではないマイナ
ー地域城郭と言えると思う。
◆長谷川
私には鳥居本を歴史の表舞台!
数多くの中世城郭遺跡が満載
された地域ですが私は鳥居本
人脈と全く繋がりがなく数多く
の城塞見学学習会の機会は先ず
ないと長年悲観しております。
まさに寄る辺なき無名学者。
◆田畑氏
しかし仏性寺荘厳寺は城郭遺跡
が多く密集して驚愕すべき地域。
◆長谷川
全ての遺構を城郭とみなす事より
山寺地名から前身や山寺利用した
城塞群を形成していたと考えます
上仏性寺城や下仏性寺砦等含めて
有志の方々と見学希望をします。
◆質問者
長谷川先生は城館遺跡を探訪され
感じられる事は一体何ですかね?
◆長谷川
やはり余呉東野豊前守の宝篋印塔
を見たり浅井山田の山田氏城館や
墓石や長浜公分田城館跡近辺墓石
を見たり米原西円寺の今井氏墓石
を見たり磯野で巨大な宝篋印塔を
見ると驚愕します。中世のいぶき
が現代まで余韻として残っている
石田屋敷近辺から発掘された墓石
群も土豪石田氏由縁のものですね。
それから米原の梅ヶ原には平野氏
の館があったとされ集落の中には
石仏や宝篋印塔が今も見られます。
◆田畑氏
でも史書には平野館や荘厳寺領主
の畑四郎左衛門は登場していない
◆長谷川
『島記録』に
天文四年(一五三五)と推定される
二月二一日の六角定頼書状に
「多賀・畑・平野館」が今井一族
の手により放火されたとあります。
だからここは歴史の現場な訳です。
◆田畑氏
六角定頼は初期畿内の天下人です
よね?従い観音寺城が巨大な訳で
法号「江雲寺殿」と言う人ですね
◆長谷川
観音寺城から安土城を築城する
時に織田信長とは甲賀衆に件の
『江雲寺御殿』を移築して見物
させています。つまり新たなる
天下人は織田信長と言う、自己
顕示を信長は六角定頼を祀る仏
殿『江雲寺御殿』を甲賀衆に見
せてる。これ時代が織田政権に
変わった事表明し顕示して意味
する信長流のプロパガンダです
つまり城示す統治する意味です
◆長谷川
さて鳥居本の畑四郎左衛門ですが
『島記録』には畠四郎左衛門が登場
『元禄八年大洞弁天寄進帳』には
「庄厳寺村屋敷主畑四郎左衛門」と
『江州佐々木南北諸士帳』では
佐々木末流で野淵氏を称したとも
記してる近江こまざらえにも登場
している何れにしても仏性寺砦や
荘厳寺砦も所有する鳥居本の名門
土豪層、従い荘厳寺畑城左衛門の
墓石群も石田屋敷の様に発見出来
ると良いです!
◆長谷川
今回は下仏性寺砦を見学しま
よう。またそこから荘厳寺の
方へと下山を試みてみます。
◆田畑氏
あらまあ?宝篋印塔と石仏が見える
これまた何でしょうかと呆けます?
◆長谷川
これ畑伊賀守四郎墓地と言えない。
◆長谷川
慶長二年(一五九七)の奥書がある
不動尊縁起(天津神社蔵)には当地に
石滝寺奥之坊・荘厳院があったと
あり荘厳院は庄厳寺の事でしょう。
また金水山高荘厳寺が寺院の正式
名称と思われます。この寺院後身
は当地の金水山 明願寺さまかと
私は思います。
◆長谷川
荘厳寺の領主畑伊賀守四郎左衛門の
墓の戒名は貞松院殿登心了春大居士
と言う事で大居士は大名や国人級の
人物と言え複数の城を持つ人物です。
◆歴史愛好家
この投稿すごく興味が湧きますね。
坂田郡鳥居本学門は何処でしてる?
◆長谷川
私には人気が無い人で城址見学会
の仕事は令和6年からゼロで皆無
益々人気がなく人気がない事です
◆田畑氏
この仏生寺城は彦根城等にも
民俗学的に影響与えています?
◆長谷川
畑四郎左衛門の居城仏生寺
跡城地元では金亀城の別称
や城山と書き「じょうやま」
と表現しています。城址は
現在も残っておりますよね!
畑四郎左衛門からみて家系図上、末に当たる者です。本日、家系図を見ながら畑家の本貫地の荘厳寺城、仏生寺城をインターネットで調べておりましたら、偶々こちらのブログを見つけ、タイムスタンプを見て記事がつい数日前に書かれたのを見て驚きました。
いつか機会ありましたら訪いたいと思っております。
貴重なコメントを賜りました事感謝を致します。
私城郭遺跡見学の仕事や仕官のあてもなく霊仙や
鈴鹿山中に城郭を求めさまよい歩く世捨て人です。
1月2日にコメントを投稿しましたUnknown(畑)です。コメントを記事にまでして頂きましたのに半年近くもご無沙汰にしてしまい申し訳ありません。
近江時代に領地を失ったあと、常陸国の麻生藩新庄家に招かれ代々家老職に在ったそうです。父方の元の本籍がこちらにあって、私も一度訪ねたことがありましたが、近江時代については殆ど知りませんでしたので、長谷川先生のブログ記事が大変勉強になりました。本当に有り難うございます。