城郭 長谷川博美 基本記録

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穆佐城(むかさじょう)城郭ビイスタ

2024-10-20 17:13:22 | 南九州型城郭の城郭ビイスタ研究

穆佐城(むかさじょう)城郭ビイスタ

◆討論者A

私は山城が如何に人口加工され

designデザインされたか

を考えており長谷川先生の教示

の意味かせ解ります。

 

◆討論者B

根本的に自然地形ありきです

その様な奇妙なビイスタ理論

は考える必要は無用なのです。

 

◆気付者

城は自然地形と言う言葉の呪縛に

よって城の測量や設計腺を日本全

国の城愛好家が見逃していたとし

たら日本の城郭測量文化研究とは

全く進歩進捗しないと思います。

百年二百年と城跡に集合して催事

を催しても学問的進歩が全くない

日本は過去に技術大国でした現在

は技術追従国に成り下がってます。

 

◆質問者

長谷川先生に他所の会に行って

下さいと言われた人は多いです。

 

◆長谷川

当然の事です。私は完全な素人

の城郭研究家です。著書は一冊

もありません。ブログも誰1人

読んでおられません。そう言っ

た5流の研究家に近ずく事など

は社会学的にみて完全に不利益

です。信用ある良い先生や良い

会へと移動される事が賢明です。

 

◆質問者

しかし見学会で長谷川先生と面会

するとブログの印象と異なります。

 

◆長谷川

そりやそうです。著書一冊も無い

5流無名研究家ですから参加者様

には安全面を考えて必死対応です。

 

◆質問者

南九州型の城は各曲輪が群れを成

し群郭式の配置で決して統制取れ

てないと考えていたのですが先生

のブログを読むと城郭ビイスタの

原則に従い曲輪配置されている事

をし知り愕然とする思いがある事

 

◆長谷川

私に質問する意義ないと思います。

私は5流貴方は一流の城見学者様。

 

◆質問者

穆佐城むかさじょうに城郭ビイスタ

存在致しますか?

 

◆長谷川

この様に測量され計画された人工

施設こそが城郭遺跡だと私は考え

ます。これを検討するか頭から否

定するかによって日本国の城郭の

学問が進捗するか停滞するかの鈎

を握っていると私は思います。

◆長谷川

この様に12345678と細分化

された測量技術城郭工事の

規格性が存在したと思います。

穆佐城(むかさじょう)は、宮崎県宮崎市高岡町小山田にあった日本の城平山城)。伊東四十八城の一つ。

概要

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別称を穆佐院高城ともいい、新納院高城(宮崎県児湯郡木城町)、三俣院高城(別称は月山日和城、宮崎県都城市高城町)と並んで、日向三高城の一つに数えられる。

城域は東西に延びる比高50mの丘陵にあり、3つの堀切により区分され、4つの城郭群が形成されていた。主郭は中央東側の一番高台に建てられ、その西側は高い土塁と堀切が設けられていた。また、中央東側の城郭群の東端には「坪の城」という郭があり、島津氏第9代当主である島津忠国はそこで生誕した。

歴史

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穆佐城が初めて史料に現れるのは南北朝時代建武3年(1336年)発給の『土持宣栄軍忠状』であり、この前年12月に南朝方であった伊東祐広穆佐院政所に立て籠もったのを土持氏が攻略したとするものである。また、築城年代もこの頃とされる。これ以降は、足利尊氏の直轄城とされ、畠山直顕が城主として差遣された。

15世紀初めには島津氏8代当主である島津久豊が入城し伊東氏と戦をするが敗北遁走し、文安2年(1445年)に城は伊東氏の支配に帰した。10代当主の伊東義祐の頃には「伊東四十八城」の一つに数えられる。

天正5年(1577年)に伊東義祐が豊後国へ落ち延びると島津氏の城に帰するが、慶長20年(1615年)の一国一城令により廃城となった。

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