信長のブチ切れ ! 光秀のブチ切れ!
日本贈答史における唯一の珍事に注目!
文献『信長公記』の講師を通算9年間
させて頂きましたが
『信長公記』の全編を通して
織田信長が諸侯や臣下から献上された
贈答品を即刻返品した記録は、唯一
一例だけ存在する。それは西暦1580年
の記録である。源文を引用するならば
『信長公記』
巻十二
天正八年
四月十五日、丹波より、惟任日向 、
御馬進上のところに、すなわち、
「 日向 に下さる 」の由にて、
御返しなされ侯。
と以上の如く短く簡潔に記録されて
いる。 惟任日向とは明智光秀の事
だ。しかし当時の武家社会に於ける
贈答品は外交儀礼で公式行事に相当
する。織田信長家臣団のなかで唯一
明智光秀の贈答品が、織田信長から
即刻明智光秀に返品された事になる。
この件について
ときに
突飛な行動もする人間
信長だから仕方ない事と
と解釈する人と
贈答品を即刻返品するなど
非礼千万 の事!
日本の贈答史に残る
明智光秀に対する
前代未聞
武門の恥辱と
解釈する人に
別れる事であろう。
織田信長は『信長公記』
には関東や東北の大名から
名馬を多数献納されており
少々の名馬を丹波から
明智光秀が献上しても
信長は即刻返納する場合や
可能性はあるだろう。
ここでひとつ異論を唱えるならば
信長が明智に返納した馬が四国産
や甲斐の黒駒 『日本書紀』に代表
される。甲斐からもたらされた名馬
であった可能性はゼロとは言えない。
近年は織田信長の四国政策の変更が
絡んだ本能寺の変の原因説も出ている。
さて
二次資料『淡海温故禄』には明智は
武田勝頼と内通していたと記されて
いる事である。また『信長公記』の
武田勝頼と織田信長の長篠合戦の
記録に奇妙な武田勝頼が戦場から
逃げて残しておいた勝頼「秘蔵の馬」
を信長の馬としておく記録が残っている。
『信長公記』
天正3年の記録には
武田四郎秘蔵の馬、小口にて、
乗り損じたる、一段乗り心ち
比類なき駿馬の由侯て、信長
御厩に立て置かれ、とある。
天正7年の明智、献納の馬を返納
した信長の行為は当時の武家社会に
於いては著しい不名誉な恥辱に該当
する。贈答が当時の公式儀礼「音信」
外交の贈答品そのものであるから、
明智光秀は信長から「公」おうやけに、
公式に突き返され恥辱された事に
相当する。
この事例を現代世俗の言葉で言えば
信長のブチ切れ !であろうか?
違う別の言葉で表現するならば
日本贈答史唯一の謎の珍事だろう!
光秀と信長と馬の因縁は
天正9年1581年の
『信長公記』の有名な記録にも
ある。
正月廿三日、惟任日向守に仰せ付
けられ、京都にて御馬揃へなさる
べきの間、各及ぶ程に結構を尽し、
罷り出づべきの旨、御朱印を以て
御分国に御触れこれあり。
とあの有名な織田信長の馬揃えの
奉行を明智光秀こと惟任日向守に
命じ、華々しく成功した事は良
く知られている。この長く実施さ
れなかった宮廷行事「馬揃」を
復刻するだけの有職故実の智識と
セレモニックな儀礼を成功させた
財力や明智の騎馬の智識には再度
注目する事も重要である。
さて戦国武将多しと言えども織田信長
殺害に成功したのは、唯一、明智光秀
ただ一人だ。文献『信長公記』には
本能寺の変の前日の明智光秀の様子が
以下の如く生々しく綴られている。
『信長公記』
巻十五
太田和泉守これを綴る
天正十年壬午 1582年
明智日向守逆心の事
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、
惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左
馬助、明智次右衛門、藤田伝五、
斎藤内蔵佐、是れ等として、
談合を相究め、信長を討ち果たし、
天下の主となるべき調儀を究め、
亀山より中国へは三草越えを仕り侯
ところを、引き返し、東向きに馬の首
を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津
の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し
触れ、談合の者どもに先手を申しつく。
にて、御返しなされ侯。と記録される。
~中略~
既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめ
され侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも
御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、
とあっけない織田信長の最期を記している。
本能寺の変の原因は未だに、諸説噴飯だが
現代世俗言葉で言うなら、これも
明智光秀のブチ切れ !であろうか?
プッツンと言う言葉も現代にはある。
さて本能寺の変後の明智光秀のやる事
なす事、全てが不調に終わっているの
に対して羽柴秀吉の、首尾は鮮やかだ。
光秀の言う当時の「天下」と信長、秀吉
の「天下」の意味は異なる。近畿畿内を
天下と意識する人と日の本「全日本」を
天下と認識する人の発想はことなる。
室町の昔、京都の公方「将軍」と関東の
「公方」の世界観は異なるのである。
畿内では三好長慶を宣教師が天下人だと
認識していた節もある。
★特別追記 明智と馬の民俗学的対談
質問者
明智と馬の逸話で有名なものあります?
長谷川
明智左馬之助の湖水渡りの伝説かな?
類ない水練と馬術を修めた左馬之助を
秀吉方の、堀秀政が追尾捕捉しようと
したが、余りにも武人として見事なの
で是に鉄砲射撃を加えて打ち取る事を
しなかった。武士の誉を汚す者は武士
に非ずといった後世的評価でしようか?
質問者
この人は「さまのすけ」読むのですね?
長谷川
江戸時代はそうです。しかし室町時代
は「さめのすけ」と通常読んだのです。
質問者
「さめ」って何ですか?
長谷川
佐目毛(さめげ)と言って白い馬の事。、
質問者
「さめ」と言う馬の飼育部門は古代に
ありましたか?
長谷川
馬寮(めりょう/うまのつかさ)は
、律令制における官司の一つ。唐名
では典厩(てんきゅう)。
左馬寮(さめりょう/さまりょう)と
右馬寮(うめりょう/うまりょう)に
分かれていました。
捕捉しますと
武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、
戦国時代の武将。甲斐武田氏18代・
武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。
官職である左馬助の唐名から「典厩
(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・
武田信豊も典厩を名乗ったため、
後世「古典厩」と記される。武田
二十四将においては武田の副大将
として位置づけられていました。
ですから信長の家臣明智左馬助の
名前は当時の近畿皇室「内裏」から
正式に下賜された官職である可能性
もあります。私も20歳の頃、東京
上野にある国立博物館で伝、明智
光満の甲冑の見事さに驚いた事が
あります。かの甲をよく観察すると
ウサギではなく馬の耳だと思います。
白いウサギではなく『日本書紀』に
ある甲斐の黒駒の印象を私は受け
ました、この具足の胴の裏面には
金の梨地の富士山が描かれています
おそらく富士の不二つまり無双と
言う意味かと思います。甲の裏面
の錣「しころ」には藤の意匠が描かれ
ています。胴の正面には天帝を表わす
「天」の文字が打ち出されています。
ちなみに
麒麟の花押を使った足利義輝の
最初の名前が
足利義藤(初名)→義輝です。
足利義輝に仕えていた
細川藤孝の本名は三淵藤孝
将軍・足利義藤(後の足利義輝)の
偏諱を受け、細川藤孝を名乗る。
明智光秀は進士藤延の説もあります。
質問者
滋賀には「さめ」地名はありますか?
長谷川
滋賀県東近江市 佐目 (さめ)
滋賀県東近江市 佐目子谷川 (さめこだにがわ)
滋賀県犬上郡多賀町 佐目 (さめ)
質問者
他に佐目の変形した地名は
滋賀にありますか?
長谷川
滋賀県米原市西番場の小字に「醒ケ原」
滋賀県米原市に醒ヶ井などがあります。
とくに滋賀県番場の語源は馬場かも?
質問者
この付近に城址はありますか?
長谷川
土肥氏の城と思われる番場城があります。
質問者
ありやすごい!
さてさて滋賀県犬上郡多賀町 佐目(さめ)
は最近話題沸騰してます。長谷川先生が
古くから調査されていると聞いていますが
滋賀県犬上郡佐目には「馬」関する地名が
残ってますか?
長谷川
馬城の小字が残っていますよ。
また犬上郡佐目は藤蔓「ふじずる」
の名産地として
古くから知られています。
この藤は彦根の葛籠座に
出されて足利幕府も是を
管理していたと言われてますが
はっきりと解ってはいません。
質問者
まさか?最近話題沸騰してる犬上郡佐目に
は城郭遺跡があるんじやないでしょうね!
長谷川
ありますよ!あったら一体どうします!
質問者
ええっ!ショツク受けます!衝撃的です!
長谷川
ええっ!?何が!?
支持者
そんな事昔からよく知ってますよ!
長谷川先生と何度も見学会してます。
私が思うのは何で長谷川先生が世の中
に登場されないか?全く解せないです!
本当に世の中の人々が長谷川先生を
知らないのか?私達支持者はイライラ
して、こっちが逆にブチ切れします!
長谷川
しょうがないですよ!
私のブログ読んでる人も
私を知りたい人も支持者
も世の中には全く
ゼロいないですから。
日本贈答史における唯一の珍事に注目!
文献『信長公記』の講師を通算9年間
させて頂きましたが
『信長公記』の全編を通して
織田信長が諸侯や臣下から献上された
贈答品を即刻返品した記録は、唯一
一例だけ存在する。それは西暦1580年
の記録である。源文を引用するならば
『信長公記』
巻十二
天正八年
四月十五日、丹波より、惟任日向 、
御馬進上のところに、すなわち、
「 日向 に下さる 」の由にて、
御返しなされ侯。
と以上の如く短く簡潔に記録されて
いる。 惟任日向とは明智光秀の事
だ。しかし当時の武家社会に於ける
贈答品は外交儀礼で公式行事に相当
する。織田信長家臣団のなかで唯一
明智光秀の贈答品が、織田信長から
即刻明智光秀に返品された事になる。
この件について
ときに
突飛な行動もする人間
信長だから仕方ない事と
と解釈する人と
贈答品を即刻返品するなど
非礼千万 の事!
日本の贈答史に残る
明智光秀に対する
前代未聞
武門の恥辱と
解釈する人に
別れる事であろう。
織田信長は『信長公記』
には関東や東北の大名から
名馬を多数献納されており
少々の名馬を丹波から
明智光秀が献上しても
信長は即刻返納する場合や
可能性はあるだろう。
ここでひとつ異論を唱えるならば
信長が明智に返納した馬が四国産
や甲斐の黒駒 『日本書紀』に代表
される。甲斐からもたらされた名馬
であった可能性はゼロとは言えない。
近年は織田信長の四国政策の変更が
絡んだ本能寺の変の原因説も出ている。
さて
二次資料『淡海温故禄』には明智は
武田勝頼と内通していたと記されて
いる事である。また『信長公記』の
武田勝頼と織田信長の長篠合戦の
記録に奇妙な武田勝頼が戦場から
逃げて残しておいた勝頼「秘蔵の馬」
を信長の馬としておく記録が残っている。
『信長公記』
天正3年の記録には
武田四郎秘蔵の馬、小口にて、
乗り損じたる、一段乗り心ち
比類なき駿馬の由侯て、信長
御厩に立て置かれ、とある。
天正7年の明智、献納の馬を返納
した信長の行為は当時の武家社会に
於いては著しい不名誉な恥辱に該当
する。贈答が当時の公式儀礼「音信」
外交の贈答品そのものであるから、
明智光秀は信長から「公」おうやけに、
公式に突き返され恥辱された事に
相当する。
この事例を現代世俗の言葉で言えば
信長のブチ切れ !であろうか?
違う別の言葉で表現するならば
日本贈答史唯一の謎の珍事だろう!
光秀と信長と馬の因縁は
天正9年1581年の
『信長公記』の有名な記録にも
ある。
正月廿三日、惟任日向守に仰せ付
けられ、京都にて御馬揃へなさる
べきの間、各及ぶ程に結構を尽し、
罷り出づべきの旨、御朱印を以て
御分国に御触れこれあり。
とあの有名な織田信長の馬揃えの
奉行を明智光秀こと惟任日向守に
命じ、華々しく成功した事は良
く知られている。この長く実施さ
れなかった宮廷行事「馬揃」を
復刻するだけの有職故実の智識と
セレモニックな儀礼を成功させた
財力や明智の騎馬の智識には再度
注目する事も重要である。
さて戦国武将多しと言えども織田信長
殺害に成功したのは、唯一、明智光秀
ただ一人だ。文献『信長公記』には
本能寺の変の前日の明智光秀の様子が
以下の如く生々しく綴られている。
『信長公記』
巻十五
太田和泉守これを綴る
天正十年壬午 1582年
明智日向守逆心の事
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、
惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左
馬助、明智次右衛門、藤田伝五、
斎藤内蔵佐、是れ等として、
談合を相究め、信長を討ち果たし、
天下の主となるべき調儀を究め、
亀山より中国へは三草越えを仕り侯
ところを、引き返し、東向きに馬の首
を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津
の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し
触れ、談合の者どもに先手を申しつく。
にて、御返しなされ侯。と記録される。
~中略~
既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめ
され侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも
御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、
とあっけない織田信長の最期を記している。
本能寺の変の原因は未だに、諸説噴飯だが
現代世俗言葉で言うなら、これも
明智光秀のブチ切れ !であろうか?
プッツンと言う言葉も現代にはある。
さて本能寺の変後の明智光秀のやる事
なす事、全てが不調に終わっているの
に対して羽柴秀吉の、首尾は鮮やかだ。
光秀の言う当時の「天下」と信長、秀吉
の「天下」の意味は異なる。近畿畿内を
天下と意識する人と日の本「全日本」を
天下と認識する人の発想はことなる。
室町の昔、京都の公方「将軍」と関東の
「公方」の世界観は異なるのである。
畿内では三好長慶を宣教師が天下人だと
認識していた節もある。
★特別追記 明智と馬の民俗学的対談
質問者
明智と馬の逸話で有名なものあります?
長谷川
明智左馬之助の湖水渡りの伝説かな?
類ない水練と馬術を修めた左馬之助を
秀吉方の、堀秀政が追尾捕捉しようと
したが、余りにも武人として見事なの
で是に鉄砲射撃を加えて打ち取る事を
しなかった。武士の誉を汚す者は武士
に非ずといった後世的評価でしようか?
質問者
この人は「さまのすけ」読むのですね?
長谷川
江戸時代はそうです。しかし室町時代
は「さめのすけ」と通常読んだのです。
質問者
「さめ」って何ですか?
長谷川
佐目毛(さめげ)と言って白い馬の事。、
質問者
「さめ」と言う馬の飼育部門は古代に
ありましたか?
長谷川
馬寮(めりょう/うまのつかさ)は
、律令制における官司の一つ。唐名
では典厩(てんきゅう)。
左馬寮(さめりょう/さまりょう)と
右馬寮(うめりょう/うまりょう)に
分かれていました。
捕捉しますと
武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、
戦国時代の武将。甲斐武田氏18代・
武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。
官職である左馬助の唐名から「典厩
(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・
武田信豊も典厩を名乗ったため、
後世「古典厩」と記される。武田
二十四将においては武田の副大将
として位置づけられていました。
ですから信長の家臣明智左馬助の
名前は当時の近畿皇室「内裏」から
正式に下賜された官職である可能性
もあります。私も20歳の頃、東京
上野にある国立博物館で伝、明智
光満の甲冑の見事さに驚いた事が
あります。かの甲をよく観察すると
ウサギではなく馬の耳だと思います。
白いウサギではなく『日本書紀』に
ある甲斐の黒駒の印象を私は受け
ました、この具足の胴の裏面には
金の梨地の富士山が描かれています
おそらく富士の不二つまり無双と
言う意味かと思います。甲の裏面
の錣「しころ」には藤の意匠が描かれ
ています。胴の正面には天帝を表わす
「天」の文字が打ち出されています。
ちなみに
麒麟の花押を使った足利義輝の
最初の名前が
足利義藤(初名)→義輝です。
足利義輝に仕えていた
細川藤孝の本名は三淵藤孝
将軍・足利義藤(後の足利義輝)の
偏諱を受け、細川藤孝を名乗る。
明智光秀は進士藤延の説もあります。
質問者
滋賀には「さめ」地名はありますか?
長谷川
滋賀県東近江市 佐目 (さめ)
滋賀県東近江市 佐目子谷川 (さめこだにがわ)
滋賀県犬上郡多賀町 佐目 (さめ)
質問者
他に佐目の変形した地名は
滋賀にありますか?
長谷川
滋賀県米原市西番場の小字に「醒ケ原」
滋賀県米原市に醒ヶ井などがあります。
とくに滋賀県番場の語源は馬場かも?
質問者
この付近に城址はありますか?
長谷川
土肥氏の城と思われる番場城があります。
質問者
ありやすごい!
さてさて滋賀県犬上郡多賀町 佐目(さめ)
は最近話題沸騰してます。長谷川先生が
古くから調査されていると聞いていますが
滋賀県犬上郡佐目には「馬」関する地名が
残ってますか?
長谷川
馬城の小字が残っていますよ。
また犬上郡佐目は藤蔓「ふじずる」
の名産地として
古くから知られています。
この藤は彦根の葛籠座に
出されて足利幕府も是を
管理していたと言われてますが
はっきりと解ってはいません。
質問者
まさか?最近話題沸騰してる犬上郡佐目に
は城郭遺跡があるんじやないでしょうね!
長谷川
ありますよ!あったら一体どうします!
質問者
ええっ!ショツク受けます!衝撃的です!
長谷川
ええっ!?何が!?
支持者
そんな事昔からよく知ってますよ!
長谷川先生と何度も見学会してます。
私が思うのは何で長谷川先生が世の中
に登場されないか?全く解せないです!
本当に世の中の人々が長谷川先生を
知らないのか?私達支持者はイライラ
して、こっちが逆にブチ切れします!
長谷川
しょうがないですよ!
私のブログ読んでる人も
私を知りたい人も支持者
も世の中には全く
ゼロいないですから。