城郭 長谷川博美 基本記録

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戦国2/1の法則 1+1=2 2÷2=1の法則 2-1=1勝利の法則

2021-01-05 05:24:51 | 戦国武将
戦国2/1の法則
1+1=2 2÷2=1の法則

対談者
文明の進歩した現代選挙戦でさえも両候補
の何れが勝利するか全く予想できない場合
がせよくあります。

長谷川
人間は言葉や文字や肩書や心象やイメージに
誘導と騙さる愚かな集団生活動物と言えます。
合戦で兵員の多寡や選挙で得票の員数を読め
無いのが常と言えます。この様な時に大衆の
心理として群集心理は有利な方に加担する事
著名人が多い方になびくものです寄らば大樹
の景の心理です。1名よりも2名の方が勝つ
大衆の心理は働くものです。

古今の合戦で1+1=2法則で勝利したものは?

長谷川
1 厳島合戦
天文24年 10月1日(1555年10月16日)に、
安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との合戦で
毛利は村上水軍と厳島で合流した結果とし
て1+1=2法則で陶晴賢に勝利しています。

2
古今の合戦で2-1=1法則で勝利した例は?
長谷川
天正12年(1584年)3月から11月にかけて
、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田
信雄・徳川家康陣営の間で行われた小牧長久手
の戦いです。実戦で秀吉は家康に敗れますます
が調略で織田信雄を懐柔して徳川+織田=2の
組織を2-1=1にし外交調略の総合戦略で勝利
します。当然の事ながら戦争の英語には戦闘の
バトルと戦争のウオー2種類の語彙があります。
実戦に勝利しても政治経済総合戦で敗れる事も!

◆永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い

今川義元と松平元康「徳川家康」は
元康は大高城に大守義元は田楽挾間
に陣を取った。大高城包囲の為の2
砦、鷲津、丸根、の2塁は永禄2年
より築城して大高城を包囲していた。
何の為に?信長が義元を尾張に引き
だして是に集中スポット殲滅攻撃す
る為の2砦は敵をおびき寄せる罠だ
った勿論大高城に入った元康、義元
戦死を確認すると待望の三河帰国を
実現している。これは出来レースで?
予定調和、最初から企てた計画戦だ!
勝つべき可能性を最大に利用した策!

2÷1=1の今川義元を1の信長1が急襲!
突撃急襲に成功!清洲城に即時退却!
織田軍勝利!松平三河帰国し徳川に!

結論
〇鷲津砦
〇丸根砦 
この2塁は今川義元誘殺の為の囮の城

対談者
しかし当時、駿河、遠江、三河三国
の大、今川義元を破る事など、誰も
予想出来なかった!

長谷川
戦場に赴くにあたり塗輿で臨む人間
室町幕府様の武家貴族形式を戦陣で
履行する義元を唯物現実主義と言え
る信長が是を一点集中攻撃成功した。


天正元年8月(1573年9月)
◆小谷城刀禰坂の戦い
朝倉義景1浅井長政1 1+1=2
信長は先ず朝倉を越前大野で自害させ
残る小谷城を攻撃落城させ勝利2÷2=1

勿論その前段階で織田信長方は
横山城、虎御前山の2塁を確保修築した。
またその前段階で近江坂田郡の長比城を
を守り鎌刃城を本拠にしていた坂田郡の
有力国人、堀、樋口、を調略で懐柔して
長比、横山、虎御前と言う、織田の湖北
進出の為の1ホップ2ステップ3ジャンプ3
と言う3塁を手堅く確実に確保して行く
過程で活躍した藤吉郎秀吉のプロジェクト
と言えます。彼は長比城①横山城②虎御前
山城③小谷城③長浜城等北近江侵攻指揮官
から一躍信長の中国方面指揮官として姫路
城へと展開しやがて本能変後に明智光秀を
山崎に柴田勝家を賤ケ岳に破り覇道を進む。

結論
〇横山城
〇虎御前山城
この2塁は大国越前朝倉義景を本国から誘き
だす為の囮の城の役目をしていた事になる。

本能寺の変
四国統一した長宗我部氏これ四国の覇者。
四国の覇者長宗我部氏と縁戚を持っ斉藤
利三を参謀に持つ明智光秀当然明智こそ
四国問題解決の織田家軍事窓口担当顧問。

羽柴秀吉の策
四国の旧主三好と提携し四国を長宗我部
と三好に分割つまり2/1にして長宗我部を
弱体化して織田の覇道を盤石にする策戦
を信長に進言!長宗我部これに従うも既
に四国征討軍は四国攻めて準備していた。

明智光秀の策
四国の長宗我部と連携して織田家臣団の
中で自己保身する策戦。処世術生きる道。

織田信長の策
敵対または何れ天下平定過程で四国統一を
した四国の覇者長宗我部を見逃しておく事
は下策とみた。長宗我部2/1に弱体化させて
是に従わなければ長宗我部を征討させる策。
藤吉朗秀吉の長宗我部征討策は織田家の為!
藤吉郎の2/1の定理は自らの着想に的を得る!

信長宿泊本能寺をした確認した明智光秀

身辺警護極めて少ない、後継者の信忠も京
にいる。戦国乱世に産まれ明日をも知れぬ
生命、ここで信長を打ち、長宗我部と連携
し筒井、高山、中川、親戚細川を味方に加
えれば畿内覇者としてサバイバル生存可能
と信長を打っ事は当時の武士の才覚、調略
、外交、戦略、戦闘、として最大の好機だ!

現実結果
有力大名の助力を得られ無かったばかりか
秀吉に加勢味方する者の続出、山崎に敗死す。


賤ケ岳の戦い
天正11年1583年
北陸の大守柴田勝家を秀吉が破り勝利!

第1段階 3月
秀吉余呉天神山砦2塁を築城させて柴田
軍を誘き出し策戦を計画するも失敗する。

第二段階 4月
秀吉堀切なき大岩山岩崎山の2塁を築かせ
柴田勝家1と佐久間玄蕃1を2塁に巧妙に
誘導して賤ケ岳で丹羽長秀と合流し勝利。
柴田1佐久間1此れを2/1に分割させる策戦。
秀吉は丹羽と賤ケ岳に合流1+1=2の算段
柴田1秀吉2では当然勝利する勝利の方程式。
佐久間はまんまと2塁におびきだされ壊滅。
秀吉は大岩山砦岩崎山砦を最初から捨石に。
これは信長が鷲津、丸根、を見殺しと同じ。


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2 コメント

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新年 (閑斉)
2021-01-05 15:05:13
戦国2/1の法則 1+1=2 2÷2=1の法則
新年早々、楽しく読ませていただきまいした。
今年もよろしくお願いします。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2021-01-09 08:08:32
閑斉様
今年も宜しく御願い申上げます。
返信する

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