城郭 長谷川博美 基本記録

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明智本能寺に来ず!柴田賎ケ岳に来ず!

2021-01-28 19:26:41 | 戦国武将
城郭ビイスタ論 上文字クリック

明智本能寺に来ず!柴田賎ケ岳に来ず!

◆柴田勝家は賎ケ岳には来てない!

◆一般者
今回の投稿のキモ要点とは何でしょうか?
例えばハンバガ―会社の社長はハンバー店
に来ないのが通例です。お偉いさんは現場
に来ませんね?抜き打ち工場現場視察社長
もいるとか?運転手の「手」の語源とは何?
選手の「手」の語源とは何?深いのでは?

◆長谷川
世の中には現場視察する社長はおられます。
信長は桶狭間合戦の現場をリサーチし現場
に居合わせたからこそ今川義元を打ち取り
足利義昭の為の二条城の築城現場にも信長
は現場に足を運んでいます。現場主義とは
唯物論現実論的思考の人間の行動理論原理
と言えます。天正10年織田信長は本能寺と
いう現場に居たからこそ、明智光秀の派遣
した軍勢に包囲されその生涯を閉じました。
一方光秀は果たして本能寺の歴史の現場へ
と現実に足を運んだタイプの管理職や人間
でしょうか?軍法軍学の常識や定型を重視
する型式主義の人間が明智光秀ならば現場
の本能寺に派遣された将兵は自分が一体誰
を何の為に攻撃しているのか現実には解ら
ないのが実態でしょう。2、26事件におい
ても事件を起した幹部達は処刑されました
が何も知らず直属指揮官に従った一般兵士
は無罪と言う事になっております。この兵
こそ何も知らずに軍務に従軍した「手の者」
現場に派遣された一般兵と言えます。この
手の者の意味こそ今回の投稿の重要点です。

◆神道の手長
神道有職故実では宮司の祝詞奏上とは別に
神饌「神への供物」を殿中において中継し
て行く所役を「手長」とも言います祭祀に
直接従事する人の事を言います。

◆対談者
天正11年4月「1583年」の羽柴秀吉と柴田勝家に
よる賎ケ岳の戦いでは北国軍の総大将柴田勝家は
賎ケ岳に実際には来ていませんね!?

◆長谷川
実際、賎ケ岳合戦当日は柴田勝家は「近江伊香郡
」現在の滋賀県長浜市木之本町賎ケ岳の現場には
行っておりません。実際の柴田軍の先鋒隊つまり
第一陣の佐久間玄蕃盛政の先手が賎ケ岳の近隣へ
布陣して本隊の柴田勝家は[近江余呉庄今市狐塚」
現在の滋賀県長浜市今市に布陣して勝家は佐久間
玄蕃盛政の大岩山岩崎山の攻略を後方援護する為
に第二陣つまり先手ではなく第二陣に本陣を構え
ていました。「控えの役割を」勝家が担いました。

◆長谷川
もし柴田勝家が余呉今市狐塚本陣で最期の戦いを演じ
たら歴史教科書は余呉庄狐塚の戦い柴田勝家の最期と
歴史年表1583年狐塚の決戦と掲載された事でしょう。
しかし柴田は自らの馬標「馬印」を側近の毛受庄助に
託して越前北庄城に帰って最期を迎える事になりま
す。余呉で戦死した死体を秀吉方が取り調べると死体
は勝家ではなく影武者を演じた毛受庄助だった件です。
さて文献『信長公記』で本能寺の変に直接来ていたら
ば光秀の馬標が見えたと書いてません。だから森蘭丸
は信長に「明智の手の者とみえます」と明智から派遣
された兵と述べています。

◆長谷川
永禄3年桶狭間合戦では主戦場は大高城へ先陣の
松平元康が兵糧送り込みと鷲津丸根2砦の合戦で
今川の手先先陣となって働いたのは松平元康です
が本陣の駿河、遠江、三河、の大守とされる今川
義元の本陣は大高よりはるか遠方の今川義元本陣
を織田信長が義元本陣をダイレクト直撃した戦い!
信長は先陣の鷲津丸根砦を前年より普請構築して
義元先陣をこれに引き付けて自分は義元本隊へと
突撃する策戦にでた先陣の松平元康ではなく控え
の後方部隊の控え「今川義元本隊」を直撃に成功!
一方本能寺の変で『信長公記』は「明智の手の者と
思われる」と報告していますね?光秀本隊でない。

◆観光客
それなら賎ケ岳山頂の柴田勝家像は全く根拠なき
馬鹿馬鹿しい、フエイクや作り物なのでしょうか?

◆対談者
観光と歴史は別物、全く別次元の分野なのですよ!
観光は一般大衆が現実歴史を検分する分野でない!
観光は幻想やロマンを楽しみ歴史城郭は現実世界!
やはりそこには大きな文化的理解における側面の
巨大な断層と亀裂が厳然と存在しているのですよ!
幻想を好む人間が真実現実史実を求める人間性か?

◆野球愛好者
そりや野球でも監督つまり全軍の指揮はベンチで
指揮を執り投手陣は先発、中次、リリーフ押えと
順番に順次登場致します。先発し完投する投手も
勿論いますが、一番最初に登板するのが先発隊と
言う事になります。先発先陣は必須と言う事です。
また必ず予備投手陣「控え投手」も用意してます。

対談者
長谷川先生はNHK名古屋文化センターや米原市
近江公民館で『信長公記』の解説講師を長期的に
担当されていました。その解説内容は某学芸委員
や元大学教授までも聴講される秀逸な解析と分析
力を発揮された実に原文の真意をよく読み砕いた
内容で私元受講生として大変充実しておりました。
是非この様な講座や講演を拝聴したいと思います。


◆対談者
文献『信長公記』の本能寺の変の解説の時も信長
の寵臣「森蘭丸」「乱丸」が本能寺を包囲攻撃し
た際に「敵は明智の手の者と見えます」と報告し
た記事に対して長谷川先生はこの文言は明智光秀
が本能寺門前に到着したのではなく明智の手の者
と表現している事から光秀に指示され本能寺包囲
隊が本能寺に到着しただけで光秀本人は本能寺へ
到着していない可能性がこの文言から解ると言わ
れまして、これには受講者一同あっと驚きました。

◆大河ドラマ視聴者
あっと驚きませんよ!光秀が本能寺に来てないとは?
冗談言わないで下さい!明智が紅蓮に燃える本能寺
や焼け落ちた本能寺の煙にくすぶる瓦礫を見る場面
は映画やドラマでは再々登場して是が史実なんです。

◆対談者
それドラマでしょう?演劇効果や脚色の世界ですよ?
私が今討論している世界は真実現実の歴史事実です!
それ子供の頃から何度も見せられた刷り込み学習よ!
人間はウソを100回学習したら必ず信じ込む習性よ!
城だって石垣や天守の印象が焼き付き土から成る城
を大衆とは見ようとしませんのよ!これが城の本命。

◆長谷川
まあまあ、みなさん興奮した、論議をなさらずに是非
冷静に考えて見ましょう!古来より軍陣の先鋒戦陣に
立つ人を「先手」せんて、さきて、「先陣」せんじん
等と呼び慣わしております。「何がしの手の者」とは
首謀者から派遣された「手配された者」の文意があり
ます。手とは手先の意味があり寄親や総大将は本陣に
どっしりと控えて先陣の戦果の様相や様子や戦況報告
が遂次到着報告を待機する行軍こそ常識!近江、甲賀
の郡中惣と呼ばれる土豪連合体においても各土豪の城
の周囲には自分達の配下に守らせる端城が記録されて
ます。これは「手端城」てばしの城とも呼ばれる本領
の最も外にある城の事を意味します。従って「手」は
中世において、支配下の軍勢や兵員の事を意味します。
『信長公記』の本能寺の変の記述には「敵は明智の手
の者と見えます」と表現されていたら当然明智本隊で
はなく明智の指令に従った「明智の手の者」明智光秀
に従った「手先の軍勢」と言う事が文面から読み取れ
ます。是を逆説的に捉えるのならば明智光秀の本隊と
は少なくとも本能寺の外の別の場所に光秀が控えてい
た事を文献『信長公記』は暗喩しております。

◆大河ドラマ視聴者
そんな馬鹿な事は長谷川氏の勝手な推測でしょうが!?
明智が本能寺の変当日どこかに居たとでも言うのかい!

◆対談者
ドラマ「劇」と歴史「現実」は別の次元でしょうがな?
劇は演劇であり創作脚色ありの演劇部門の世界ですよ?
私が今話題にしているのは現実歴史の世界の事ですわ!
長谷川先生と図書館の書物や新聞にも掲載されてない
大きな城を発見したり城郭遺跡発見したりする瞬間は
つくづく長谷川先生の分析解説は冷静的確さに驚きます!

◆明智光秀は本能寺に来ていない。
◆明智光秀本能寺不在説の件のニユースによると
古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山
県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書
いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川
図書館近世史料館所蔵、3巻本)。史料の存在は一部で知
られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた
。このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員
(日本中世史)が読み解いて明らかにした。
 萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した
上巻にある。寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の
斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に
関わった利宗(としむね)が、おいで加賀藩士の井上清左衛門
に語った内容として収録されていた。利三と、光秀重臣の
明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、
光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと
書かれている。奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために
書き残し、他人に見せることは厳禁とある。萩原さんは
「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、
重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、
信頼性が高い記述ではないか」とみる。光秀本人が本能寺を
襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の
吉田兼見(かねみ)の日記(1570~92年)などに「惟任日向守
(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されてい
たためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。



◆長谷川
本能寺襲撃隊と信長危機の報告を聞きつけて京都へと
帰洛する四国攻めの為に大坂にいた四国攻めの総大将
織田信孝の軍勢やその副将丹羽長秀や畿内在住の織田
諸将が信長の本能寺救援に駆けつける事を防ぐ為には
鳥羽布陣でしょう。
鳥羽伏見は関西方面から京都に入る交通の要衝です。
戊申戦争でも鳥羽伏見の戦いが展開され関ヶ原合戦
の前哨戦でも伏見城の戦いが展開された要衝の地です。

◆一般者
しかし、そんな事言っても本能寺の門前に光秀が登場
しなければ演劇にならにないしドラマの絵に成らない。

◆長谷川
そこに創作劇つまり演劇と歴史事実の断層があります。
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5 コメント

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疑問が解けました。 (近江八幡.H)
2021-01-26 18:15:22
本能寺攻めで、総大将たる光秀本人が、のこのこと門前に現れるはずがないと思っていたので、腑に落ちました。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2021-01-26 18:22:21
今川義元は大高城に到着していない。柴田勝家は賎ケ岳に到着していない。総大将たるものは先陣を切らない。本能寺の変の明智の手の者の文言は非常に重く重要なのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-01-26 21:06:44
またも歴史城郭の金田一耕介とも言える長谷川先生の推理と言うか的確な歴史考察が見て取れます。それに比べて愚論を連発する人もいて本当に辟易してしまう事もあります。歴史や城跡を真面目に研究している人達が長谷川先生に覚醒する事が最近では自然に肯定出来ます。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-01-28 04:18:09
冷静な考証に衝撃を受けました。そう社会や会社の幹部とは必ずしも現場に居合あわせたとは限らない。現場で実践活躍するのは、いつも第一線で活躍する現場の人。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-02-04 03:23:37
大河ドラマは言うまでもなく歴史再現劇ではなく創作劇です。勝手に歴史的事実と思い込む事は歴史解釈の誤認です。
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