城郭 長谷川博美 基本記録

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明智光秀の身分は高くなかった。随分の意味を解釈する。

2020-01-11 16:33:28 | 戦国武将
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明智光秀の身分は高くなかった。随分の意味を解釈する。

◆先ず文献『信長公記』の天正7年の記録には随分の文言
とその意味が判明する文献が存在する。

◆『信長公記』天正7年の記録は

「赤井悪右衛門退参の事
八月九日、赤井悪右衛門楯籠り侯
黒井へ取り懸け、推し詰め侯とこ
ろに、人数を出だし侯。則ち、
焜と付け入るに、外くるはまで
込み入り、随分の者十余人討
ち取るところ、種々降参侯て、
退出。惟任、右の趣、一々
注進申し上げられ、永々、
丹波に在国侯て、粉骨の度々の
高名、名誉も比類なきの旨、忝くも
御感状くだしなされ、都鄙の面目、
これに過ぎず。」

とある。

◆『信長公記』解説者長谷川としての解説

①赤井悪右衛門=(赤井 直正(あかい なおまさ)の事
②退参の事=城から敵が退き逃げる事
③八月九日=天正7年 西暦1574年
④楯籠り侯=籠城による立て籠もり
⑤黒井へ取り懸け=丹波黒井城攻略に着手した事
⑥推し詰め侯とこ=黒井城の包囲戦になった事
⑦数を出だし侯=明智、惟任方が黒井城に出撃した
⑧則ち、焜と付け入るに=時の声を上げて突撃させ城に付け入った
⑨外くるはまで込み入り=黒井城の外曲輪=外郭まで攻め込んだ
⑩随分の者十余人=赤井氏に随う者、家臣10余人
⑪討ち取るところ、=打ち取ったところ
⑫種々降参侯て、退出=籠城中の様々な人が降参し退城した
⑬惟任、右の趣、=惟任光秀、明智光秀右の様子を
⑭一々 注進申し上げられ、=ヶ条書きにし織田信長に戦況報告した
⑮永々、丹波に在国侯て、=光秀は長期的に丹波の国に滞在して
⑯粉骨の度々の高名、=身を粉にして戦い数々の功名を立てた
⑰名誉も比類なきの旨、=その名誉は他と比べようもない様子だった
⑱忝くも御感状くだしなされ=主君信長んら光秀に忝けない感謝状がだされた
⑯都鄙の面目、これに過ぎず。=都も田舎も日本全国に明智の面目に過ぎたものがない

◆随分の意味と解釈がこの文面では違い
「随分の者」の意味が明確に記録されて
いる。つまり
丹波黒井城の城主で地方領主たる
赤井悪右衛門(赤井 直正(あかい なおまさ)
はこの文面からは丹波黒井城の領主や
城主で殿とよばれる当時の社会階層である。
随分の者とは当時明智方に
打ち取られた、領主赤井氏に従属する
す立場の赤井氏の家臣10余名である事
が上記の文面からは明らかである事が
判明する。
すなわち信長と同じ時代を生きた
太田牛一の言う随分の者の意味は
領主赤井氏ではなく赤井氏に従属
者の家臣の10余名である事がこの
文面からは明白に解明できる。

◆『太田牛一旧記』
同じく太田牛一の著述『太田牛一旧記』では、
朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」
とある。
つまり明智光秀は越前朝倉氏に仕官奉公していた
時期においても光秀自自身が一人の従者を従える
程度のの軽輩であったと書き記している。

◆『立入左京亮入道隆佐記』
また同時代を生きた近江国の住人
立入左京亮入道隆佐による日記には
『立入左京亮入道隆佐記
(たていりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』には
明智光秀の事を「美濃国住人ときの随分衆也」と記述
しており、太田牛一『信長公記』や同じく同氏の記し
はた『太田牛一旧記』の記述に従う限り明智光秀の元来
の身分は美濃土岐一族の随分の衆と言う事になり、領主
、殿様階層の個人ではなく、衆つまり領主に随う集団の
一員と言う事になり「随分」つまり美濃土岐氏に随行す
る身分の低い明智光秀と言う従者つまり随分の衆であっ
た事が判明するのである。立入や太田の言う隋とは、
つまり高い身分が高い意味ではなく美濃土岐の随員や
随行者「おつき」随伴者と言う意味で使われいると私
長谷川は解釈する。大名家に出仕する御伽衆や同朋衆
や馬廻衆の意味は決して大名家や領主階級でなく従者
である事を認識しておきたい。

これは貴人や当時の殿階級の従者であると
考えるべきと思われる。おつきの者とは
即ち従者随員で室町時代の中間に相当する
ものであろう。また光秀と同時に記された
一級史料『多門院日記』に明智光秀が細川
氏の「中間(ちゅうげん)」と記している。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (長谷川博美)
2020-01-14 05:54:46
岡平さん
グッド
ありがとう
ござます。
感謝します。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2020-01-12 11:39:24
良いね!
一名様
ありがとう
ございます。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2020-01-12 11:02:39
グッド一名様
良いね一名様
真にありがとう
ございます。
返信する

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