城郭 長谷川博美 基本記録

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滋賀近江安土城

2020-02-19 06:42:10 | 社会観察
滋賀近江安土城
『フロイス日本史』の第3巻
安土城が焼失前年1581年に、イエズス会
の巡察師ヴァリニャーノがこの安土城天
主閣を訪問した記録は当時の海外の人か
ら見た貴重な記録と考えられその一部を
紹介してみる事にする文中の★印内の解説
は長谷川の解釈となっている。1581年と
は天正9年に該当し生々しく消失前の信長
の安土城天主を的確に記録している。

「信長は、中央の山(★安土山)の頂に宮殿
(★御殿/殿舎)と城(★軍事的要塞)を築
いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗
さにおいて、それらはヨーロッパのもっ
とも壮大な城に比肩しうるものである。
事実、それらはきわめて堅固でよくでき
た高さ60パルモを超える―それを上回る
ものも多かった―石垣のほかに、多くの
美しい豪華な邸宅(★居館)を内部に有し
ていた。それらにはいずれも金が(★塗金
/金具)施されており、人力をもってしては
これ以上到達し得ないほど清潔(★塵の無い
畳の間)で見事な出来栄えを示していた。
そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ
一種の塔(★安土城天主閣)があり、我等
ヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり
壮大な別種の建築である。この塔は七層から
成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築
技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに
描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、
(★彩色された障壁画)そのすべてを埋めつく
している。外部では、これら(七層) の層ごと
に種々の色分けがなされている。あるものは、
日本で用いられる漆塗り、すなわち黒い漆を
塗った窓を配した白壁(白壁に黒漆窓は火頭
窓と思われる。彦根状のような白壁と火頭窓)

となっており、それがこの上ない美観を呈して
いる。他のあるものは赤く、(★赤格子窓)あるいは青く
塗られており、(★青格子/緑色)最上層はすべて金色
(★金閣寺鹿苑寺の様な姿)となっている。この天守は、
他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る
限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それら
は青色のように見え、(★唐人一貫に唐様に瓦を焼せた)
前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。
(★金泥軒丸瓦)屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした
形をした雄大な怪人面が置かれている。(★精緻な鬼瓦)
このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物と
なっているのである。(★意匠造形ともに万人を納得させ
る芸術的美しさ)これらの建物は、相当な高台(★安土山城)
にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように
何里も離れたところから望見できた。(★高層建築安土城の
天主閣は遠方からでも望見できた。)それらはすべて木材で
できてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、
(漆喰や木材、竹やぬさ、藁を混ぜて作っている事)むしろ頑丈
で堅固な岩石と石灰でつくられているかのようである。」
(中公文庫『フロイス日本史3』p.112-113)より引用

安土城天主の内装は文献『信長公記』
(★彩色された障壁画)には次の如く
記されている。この記録は信長と
同時代を生きた太田牛一の筆によ
るものである。『信長公記』
天正4年の記録より引用すると
「御座敷の内、悉く布を着、黒漆なり。
西十二畳敷、墨絵に梅の御絵を、狩野永徳
に仰せつけられ、かゝせられ侯。何れも、
下より上まで、御座敷の内、御絵所、
悉く金なり。同間の内に御書院あり。
是れには遠寺晩鐘のの景気かゝせられ侯。
其の前に、ぼんさんヲをかせられ、次の
四でう敷、御棚に鳩の御絵をかゝせられ
侯。又、十二畳敷、鵝をかゝせられ、
則ち、鵜の間と申すなり。又、其の次
、八畳敷、奥四でう敷に雉の子を愛する
所あり。南に叉、十二畳布、唐の儒者達
をかゝせられ、叉、八でう敷あり。東は
十二畳敷、次に三でう布、其の次に八でう
敷、御膳拵へ申す所なり。叉、其の次に
八畳敷、是れ叉、御膳拵へ申す所なり。
六でう敷、御南戸、叉、六畳敷、何れも
御絵所金なり。北の方に御土蔵あり。
其の次、御座敷、廿六でう敷の御南戸なり。
西は六でう敷、次、十でう敷、叉、其の次十
でう敷、同十二畳敷、御南戸の数七つあり。
此の下に、金灯爐置かせられなり。
三重め、十二畳敷、花鳥の御絵あり。則ち
、花鳥の間と申すなり。別に一段、
四でう敷御座の間あり。同花鳥の御絵あり。
次、南八畳敷、賢人の間に、ひよう
たんより駒の出でたる所あり。東は麝香の間、
八畳敷、十二でう敷、御門の上。
次、八でう敷、呂洞賓と申す仙人、幷に、
ふえつの図あり。北廿畳敷、駒の牧の
御絵あり。次に十二でう敷。西王母の御絵
あり。西、御絵はなし。御縁二段、広
縁なり。廿四でう敷の御物置の御南戸あり。
口に八でう敷の御座敷これあり。
柱数百十六本立つるなり。
四重め、西十二間に、岩に色々木を遊ばされ、
則ち、割の間と申すなり。次、
西八畳敷に龍虎の戦ひあり。南十二間、竹色
貼かゝせられ、竹の間と申す。次に、
十二間に松ばか星色貼遊ぱされ、則ち、松の間
と申す。東は八畳敷、桐に鳳凰かゝ
せらる。次、八畳敷、きよゆう耳をあらへば、
そうほ牛を牽いて帰る所、両人の
出でたる故郷の体。次に、御小座布七畳敷、
でいでばかりにて、御絵はなし。北は
十二畳敷、是れに御絵はなし。次に十二でう敷、
此の内、西二間の所に、てまり
の木遊ぱさる。次に八畳敷、庭子の景気、則ち、
御鷹の間と申すなり。柱数九十三本立つ。
五重め、御絵はなし。南北の破風口に四畳半の
御座敷、両方にあり、こ屋の段と申すなり。
六重め八角四間あり。外柱は朱なり。内柱は
皆金なり、釈門十大弟子等、尺尊
成道御説法の次第、御縁輪には餓鬼ども、
鬼どもかゝせられ、御縁輪のはた板に
は、しやちほこ、ひれうをかゝせられ、
高欄ぎほうし、ほり物あり。
上七重め、三間四方、御座敷の内、皆金なり
。そとがは、是れ又、金なり。四
方の内柱には、上龍、下龍。天井には天人
御影向の所。御座敷の内には、三皇、
五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢などを
かゝせられ、ひうち、ほうちやく、数十
二つらせられ、狭間戸鉄なり。数六十余
あり、皆、黒漆なり。御座敷の内外柱、
惣々、漆にて、布を着せさせられ、其の上、
皆黒漆なり。
上一重のかなぐは、後藤平四郎仕り候。
京・田舎衆、手を尽し申すなり。
二重めより、京のだい阿弥かなぐなり。
御大工、岡部又右衛門。漆師首刑部。
白金屋の御大工、宮内遊左衛門。瓦、唐
人の一観に仰せつけられ、奈良衆焼き申
すなり。」とめくるめく安土城内装を記録
している。これらを解釈する為には
東洋史学の智識が必要とされる。
つまり安土城天主閣は日本史の智識
だけでは理解できない。私の『信長公記』
解説ではこれ等を全て解説したのだが
『信長公記』を日本史だけの概念だけ
で読んでいても全く織田信長の世界観
は理解できない。これは信長自身が
幼少期より那古野の天王坊で漢学漢籍を
学んできた経緯があるからである。人間
の記憶システムはシナプスと言う脳内の
伝達細胞によって形成される。人は学ん
だ事を基礎に於いて物事を考える節が
ある。幼少期の記憶や概念は消す事が
出来ない。城とは石垣や天守閣で出来て
いると考えている人は時代劇や繰り返さ
れる観光映像で脳内に入力されれた既知
記憶であり是を消し去り土塁城郭を見学
しよえうとする少数の人々が時に偏見の
目でみられる社会現象は未だに長く続い
ている。人は文字に余りにも依存した時
城の基礎知識である土塁を見落とす傾向
が多い従って当然文字歴史『信長公記』
に関心をしめされる人とは現地城郭の
現状たる足元の土塁は見ておられない。
足元に残る佐和山城本丸土塁も見逃さず
文献『信長公記』も読まれた宮本さんと
社会の人々の感覚はおおきなズレが発生
する場合がある。文字も現地も見て滋賀
の歴史の足元を見据える事ができる人傑
に人生で遭遇できる事を私は期待したい。
何度佐和山城本丸に登っても土塁を見ない人にも
何度安土城登山した人でも石垣の線を全く見る気
のない人に安土城ビスタ論を述べても無駄であろ
うか?文字の歴史を崇拝信奉する人の群れと現場
の遺跡の現実を観察考察しようとするごく少数の
弱い立場にある米原城歩会/余呉城郭研究会とは
歴観光から見れば異端者なのであろうか?近年
尾張小牧山城の石垣も検出され我々滋賀県民は
歴史の足元を見直す時期に来ていると私は思う。



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1 コメント

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Unknown (長谷川博美)
2020-02-24 14:46:39
貴重な
良いね
一名様
ありがとう
ございます。
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