『吾妻鑑』の時代の城郭のビイスタ!
◆対談者
戦国期伊勢津城には長谷川
先生の解説や分析 によると
放射状測量で施した日本の
城の測量技術を紹介されて
いますこの様な放射状設計
は平安期末や鎌倉期初頭に
はその技術が存在したのです
か?
◆長谷川
私は無名5流城郭研究家です。
ブログ読者様も極めて少ない!
◆対談者
しかし人気無くともその解説力
分析力日東第一の縄張研究
家と昔日よりその高名聞き及ぶ
研究家と言われていますよ!
他の人に聞いても答えて頂け
ないもどかしさは隠せません!
◆ウイッキペデイア樋爪館
樋爪館(ひづめだて/ひづめのたち)または比爪館は、
概要
[編集]「ひづめ」の語源は、当時この一帯が北上川の船場
として栄えており、アイヌ語のピッツ・ムイ(
河原の港)が転訛したものとされる[4]。
樋爪館(比爪館)は12世紀の館址で、規模は東西
320メートル、南北290メートルの平坦な土地
(現・赤石小学校の敷地を含む一帯)である。
館の南側は五郎沼に接し、東は国道4号線に接する。
発掘調査の結果、沼のある南をのぞく三方は
幅10メートル前後、深さ1.5メートル前後の大溝
で囲われていたことが判明している。
樋爪館に付随して大荘厳寺(だいしょうごんじ)と
薬師堂があった。大荘厳寺は焼失してしまったが
薬師堂は明治の神仏分離により薬師神社となった。
創建当初からの薬師如来像があると言われているが、
現在は御神体となっているため見ることができない[5]。
歴史・沿革
[編集]兄弟の居館であった。出土遺物の年代から、12世紀初め
から後半まで存続したとされる。
軍勢が攻め寄せると、樋爪一族は館を自焼して北走した後
に投降した(『吾妻鏡』)。
大正15年(1926年)には南接する五郎沼の浚渫の際に12世紀
の土器(かわらけなど)や建材が出土し、1965年(昭和40年)
から最近まで、紫波町教育委員会により32次にわたり調査が
行われた。従来の通説では、平泉から樋爪に移ったのは俊衡の
代とされてきたが、最新の発掘調査による研究(未報告)では
、1100年代前半(父の藤原清綱)の時期のかわらけが出土して
いることから、平泉初代の清衡の頃から同地に居を構えていた
可能性が高くなった[6]。
◆懐疑者
長谷川氏が日東第一の城郭
縄張の研究家と言われては
困ります。5流学者に何が解る
と言うのですか?
◆有識者
すごいぞ 長谷川氏の城郭
ビイスタ論の汎用性普遍性
日本城郭史に残る金字塔!
◆長谷川
鎌倉期の城館にビイスタが
存在するのでしょうか?批判
は一言で簡単に終了するが
検討し研究する事は難儀な
事と言えましょう。この樋爪館
(ひづめだて/ひづめのたち)
に城郭ビイスタがあれば大変
◆長谷川
この城郭の測量点五カ所読み
取れるのです。つまりビイスタ!
◆長谷川
しかも全体の中心に中央ビイスタ
も存在する事に驚かされる訳です。
◆対談者
何を驚いておられるのですか?
長谷川先生と初めて彦根城の
勉強に行った時彦根に城には
中央ビイスタがありますと先生
は誠意的に解説されましたね
◆対談者
初めて長谷川先生と安土城天主台
の地下蔵に行った時に先生は中央
測量中央ビイスタで設計縄張されて
いますと私に解説されました。私は
驚き仰天しましたが別の方々鼻先
で失笑されていました私は心の眼
を開けて城址を見学したいのです。
◆対談者
それは関東の麻場城だって同じ
◆対談者
備前岡山城だって同じです。
◆一般者様
ええっとこれが一体何の意味
があると言うのですかね?
◆対談者
新しい令和の城郭学!
が誕生したと言う事よ!
▼安土城ビイスタ工法
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