◆対談者
永禄3年5月19日(1560年 6月12日)
松平元康と鵜殿長照が尾張大高城
に両者とも来ておりますね。大高
は城の守りの硬いビイスタ工法の
城かもしれません桶狭間合戦では
両者今川義元側として活役してま
すが義元戦死の報を受けて元康は
岡崎の大樹寺へと入り岡崎城へと
駿河から三河岡崎に帰還してます。
◆一般者
最初は長谷川先生の城郭ヴイスタ
論など全く気にも留めませんでし
たが最近になり皆さんがヴイスタ
の重要性に気付くようになった事
◆一般者
松平元康って誰の事なのかしら?
鵜殿長照つて何処の城主ですか?
◆長谷川
元康は後の徳川家康の事です。
鵜殿は義元の妹の子供で三河
の上ノ郷の城主と言う事です。
◆一般者
鵜殿長照は優れた武将にして
三河上ノ郷城を長く今川方と
して守った名将と言われてる
徳川家康も上ノ郷城を簡単に
は確保を出来なかったのです。
◆一般者
長谷川先生ブログでは滋賀近江
の話題を出して下さい!ピント
が完全にズレていますよ!甲賀
の城の話とかして下さいませよ。
◆長谷川
近江甲賀衆のお話をしています
松平元康が鵜殿長照の上ノ郷城
を落とす為に甲賀衆が活躍した。
ウイッキペデイアを引用します。
徳川家康の伝記である『烈祖成績』によれば、
甲賀衆によって火が上がった上ノ郷城内は造反者
が出たとの誤解から混乱し、城主の鵜殿長照も
落ち延びようとしたところを伴与七郎(伴与七郎資定)
によって討たれたとしている。 他に与七郎と同様、
上ノ郷城攻めに参加した甲賀衆として伴中務勝永、
みられ、資綱は城主の鵜殿長照の子供である氏長・
氏次兄弟を捕縛する功があったという[5]。
◆質問者
なるほど!脱線してませんね!
いやむしろグローバル戦国史!
鵜殿長照の上ノ郷城跡は城郭
ビイスタが存在し致しますか?
上ノ郷城跡は城郭として縄張
が整っていないように感じる?
◆長谷川
典型的な扇型ビイスタですよ。
◆長谷川
それは徳川の岡崎城本丸
でも言える事なのですよ。
◆長谷川
岡崎城本丸ビイタスタも。
◆長谷川
浜松城天守曲輪ビイスタも
◆質問者
上ノ郷城には後の徳川江戸
城の様な縄張ビイスタ存在
するのですか?令和の城郭
研究家のキモが城郭ビイスタ
だと私なんかは思うのですが?
◆長谷川
確かに三河上ノ郷城にも類似
したビイスタは読み取れます。
◆理解者
長谷川先生研究を進化させて
下さい我々は期待しています。
◆長谷川
青腺や緑線線のビイスタ等も
存在致します。
◆長谷川
城の中心から四方に兵員を
指揮し易いビイスタも存在
この上ノ郷が如何に優れた
設計縄張の城か解りますね。
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