◆質問者
守護職能登畠山氏の巨城と
言われる七尾城のビイスタ
を、この投稿の後半に是非
解説して頂きたい思います。
令和の現代ではビイスタを
知らずば城知らずと言われ
るとか?最近特に話題です。
◆長谷川
能登畠山氏は北近江余呉町
にも別業を持っていました
文献『江北記』には、東蔵
畠山殿として京極氏の与力
の様な形で記録されていま
す。東蔵とは言うまでも無
く「一切経」を護る役職の
事で「一切経」は余呉菅山
寺に保管されていた一部を
徳川家康の命令で江戸上野
寛永寺に所蔵された経典!
また余呉菅山寺城には堀切
残っており既に見学会済み
◆対談者
前例の無い城郭測量痕跡を
考察する事により新しい城
の研究視点を長谷川先生が
動画で提示された事が話題
を呼んでいます。私達とし
は駄目動画ボツ動画にしか
見えない動画が何故3400人
もの視聴があるのか全く理
解に苦しみます私に解らず。
◆有識者
明治大正昭和平成令和に至る
まで城郭測量法に着目して城
郭の設計施工に所謂土木設計
原点に回帰した城郭遺跡分析
が成されていなかった現実は
城郭研究において大きな盲点
だと言えます。長谷川さんの
研究家として力量は半世紀前
から非常に高かった私達現代
人が知り得ぬ城郭縄張の奥義
を知る人としてその道の特殊
な人間であったと言えますが
しかし近年非常に優秀な一部
の方々が長谷川さんの城郭に
対する造詣の深さを洞察して
更に城郭遺跡の見学の仕方を
根本から学び直すと言う機運
が萌芽し始めていると言えま
す。長谷川さんの山科本願寺
城の分析は城郭研究史におい
てとてっもない高いレベルで
論述された研究視点である事
には驚愕せざるを得ません!
▼山科本願寺城のビイスタ論 扇型
▼山科本願寺城のビイスタ論 放射型
◆有識者
加えて城郭構造の画期とも言
われる安土城の縄張分析等も
従来の城の研究手法を完全に
凌駕する城郭研究のデッド壁
を突き破るほどの衝撃を含む
ものだったのです。私大学院
で教鞭を取っていた経験ある
者ですが長谷川さんを兄とも
呼んで支障なき学兄に相当し
一般社会から過小評価された
眠れる未知の逸材たる人です。
▼安土城 ビイスタ工法図説
◆対談者
私はその辺の学問の深淵までは
理解できません。ただ言える事
はビイスタ工法で縄張された城
が日本全国に次々と登場して来
た普遍性、蓋然性、必然性には
次々に私は目を見張っています。
私観光で備中松山城行きました
こんな縄張だと夢にも思わず私
の城見学の人生観さえ変化した。
◆長谷川
能登七尾城概略をウイッキ
ペデイアより引用致します
別名 :松尾城、末尾城
城郭構造 :連郭式山城
天守構造 :なし
築城主 :畠山満慶
築城年 :1428年 - 1429年(正長年間)
主な改修者 :畠山義綱、上杉謙信
主な城主 :畠山氏、上杉氏、前田氏
廃城年 :1589年(天正17年)
遺構 :郭、石垣、土塁、堀切、虎口、
指定文化財 :国の史跡
室町三管領家の七尾畠山氏の初代当主
で能登国守護の畠山満慶が正長年間
(1428年~1429年)頃にこの地に築いた
と思われるが、当時の七尾城は砦程度の
規模と見られ、行政府である守護所も
府中(現七尾市府中)に置かれていた。
次第に拡張、増強され、以後約150年間
にわたって領国支配の本拠となり、五代
当主である畠山慶致の頃には守護所も
府中(七尾城山の麓)から七尾城へと
移されたという。その後、畠山義続・
畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いた
ために増築され、最大の縄張りとなっ
たと言われる。1576年(天正4年)に
能登国に侵攻した上杉謙信に包囲され
るが、一年にわたって持ちこたえた。
しかし、重臣同士の対立の末に擁立
されていた若年の当主畠山春王丸が
長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立
を収めることができず、結果七尾城は
孤立し、最終的には遊佐続光の内応に
よって徹底抗戦を主張した長氏一族が
殺害され、同年9月13日に開城された
(七尾城の戦い)。越中国と能登国を
繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田
氏によって領され、城代として菅屋長頼
が入って政務にあたった後に前田利家が
入るが、既に山城の時代ではなく、拠点
を小丸山城に移したため、しばらく子の
前田利政が城主となっていたが、のち、1
589年(天正17年)廃城となった。
◆質問者
城郭ビイスタ論は日本の城郭
研究論の中でも戦前戦後を通
しても最高峰の研究論と言わ
れておりますがこの理論とは
城郭の基礎が身に付いてない
人には全く解らないとも言わ
れている基礎に立脚した理論
能登七尾城のビスタ解説を!
◆長谷川
あまりに巨大な城郭遺跡です
その一部しか検討できません
本丸、桜馬場、西の丸、温井
屋敷、二の丸など真に見事な
扇型ビイスタの縄張がみられ
ます。調度丸が測量起点です。
本丸と西の丸の間は青腺で
測量腺のビイスタで縄張が
なされております私は此を
重複型ビイスタ工法と呼称
◆長谷川
全山の曲輪を放射状に配置
した放射型ビイスタも読み
取れます。当時の測量術は
谷を越えても施工されてい
ます。測量櫓をくみ上げて
の縄張だと推測されます。
▼扇型ビイスタ工法 複数
◆長谷川
また思わぬ所からも測量が
実施された事にも驚きます。
▼中央型ビイスタ工法 Ⅰ類
▼中央型ビイスタ工法 Ⅱ類
▼各所に潜在する扇型縄張
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