衝撃隘路要衝の地 ! 山崎合戦 賤ケ岳合戦 関ケ原合戦 大小2城理論!
◆ウイッキペデイア引用
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、
の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の
激突した戦い。古来天王山の戦いと呼ばれ
てきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも
呼ばれる。
◆質問者
石清水八幡宮には男山城が築か
れた事がピントと来ないです?
◆長谷川
大変良い質問をされますよね?
今回の投稿の重要ポイトです!
◆ウイッキベデイア引用
光秀は10日に秀吉接近の報を受け、
掛かり、男山に布陣していた兵を
撤収させた。しかし、光秀は予想
を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分
に整えられず、2倍から3倍とされる
兵力差のまま決戦に臨むこととなる。
◆長谷川
戦略街道を大小2城一組の城で
要衝を確保する為大小の2城
一組説を今回解説をしますね。
◆質問者
山崎合戦で智将明智光秀は
天王山と男山と言う2カ所
要地を秀吉方より早く確保
したのに此れを放棄した事
は明智光秀の愚策だと思う?
この2城確保は戦略上重要!
◆長谷川
確かに光秀は戦略の要衝たる
天王山と男山を2カ所を捨て
勝竜寺城や淀古城を修築して
自身は御坊塚/恵解山古墳へ
布陣した事はある意味山崎
の隘路を順次侵犯侵入して
来る秀吉軍を順次鉄砲射撃
で迎撃させようとさせる為
の正論と言えるが要するに
水道栓が破損し水漏れした
場合その水量が膨大な量の
場合は防ぎ切れずに防衛腺
が破綻する事は必定ですよ
◆質問者
石清水男山城つて大事なの?
◆長谷川
明智と筒井が連携協力して
小城の男山に伏兵をおいて
秀吉方がこれを兵法の常識
「弱く小さい城」を攻めた
場合明智と筒井グループは
必ずは緒戦で一旦勝利可能
な地勢が石水男山の地理的
な立地条件だと言えますが
筒井は明智を見限って本国
大和に帰り籠城の準備始め
た光秀は筒井と自軍合流を
して緒戦勝利を制する構想
が破綻した事を意味します
◆質問者
山崎合戦勝利後羽柴秀吉は
天王山山崎の地をどうした?
◆長谷川
西国街道の山崎宿を掌握して
天王山山頂に山崎合戦戦勝の
PRモニユメントである山崎城
の建築を始めたと言う事です
つまり畿内と天下を掌握した
印象を世に喧伝する為の城で
早く作る必要にせまられた城
だから山中に転用財が多い!
華々しい秀吉政権発足記念の
山崎合戦勝利の トロフイー
の役目を担った象徴の城です。
清水男山は小城ですから是は
普請はしない訳です弱いママ
にしておかないと小城の意味
が消失してしまいますからね!
◆反論者
長谷川氏の大城小城の理論は
1583年天正11年の賤ケ岳合戦
には全く当てはまらないです!
◆長谷川
そうでしょうか?秀吉は北国
街道の木之本宿の田上山城を
大規模な大城として普請した
小城の賤ケ岳城の2城を合戦
初期段階の3月には2城を普請
をしています。これは天下の
要衝大山崎の天王山城男山城
の2城図式と全くおなじです。
田上山と賤ケ岳は『信長公記』
の天正元年に既に記録に登場
していて既にその原型履歴が
つまり戦略城郭の履歴がある。
◆対談者
さすが文献をよく読んでる人
名古屋で『信長公記』解説し
た優れた文献解説家と言える。
◆長谷川
方や京都と摂津西国の要衝地
方や北陸と近畿の要衝の関門
たる木之本宿を秀吉は大小2城
田上山と賤ケ岳に築城をします
田上山城が大城で賤ケ岳が小城
◆質問者
何故?佐久間玄番は賤ケ岳
に向けて柴田軍前線将兵を
集中させたのですか?
◆長谷川
簡単な事ですよ。北国軍柴田軍
は小城の賤ケ岳城を先ずは奪取
して秀吉との合戦有利を全国に
宣伝する目的と必要があった訳
柴田は老獪堅実だと言う印象を!
勝家方には浅見道西という湖北
山本山系に精通した武将が存在
し賤ケ岳を取れば秀吉方の長浜
城の攻略の安全で堅実ルートの
奪取確保になる訳で将棋飛車道
秀吉は山本山城攻撃した経歴が
元亀年間に存在して柴田軍進軍
シュミレートは事前想定してた
柴田方を賤ケ岳に引き付ける事
そして美濃大返しをして田上山
城の木之本宿軍と合流して湖西
丹羽長秀とも賤ケ岳上で合流し
柴田を包囲殲滅する構想をして
た上手く大城と小城を使い分け
た構たえを見せている訳ですね!
◆長谷川
大城とは陥落させてはならない
鉄壁の城の構造にして然るべき
秀吉の弟秀長に此れ田上山城を
守らせています。小城賤ケ岳城
は敵が攻めてくること予想した
誘い水の役目の城として築城!
◆長谷川
山崎合戦でも光秀は筒井を催促
しています。小城の石清水男山
へと秀吉を誘い小城で明智筒井
連合合策を構想したのだが筒井
に振られたと言う事ですね最も
秀吉方の方が合戦の現場の読み
シュミレートがなされて男山に
は手を出さなかった1枚上手だ。
明智見事に筒井に見捨てられた。
細川にも瀬田の山岡も見捨てら
れ組下の高山や中川にも離反を
されボコボコにやられた訳だ!
さも信長存命の虚説を巷間に
流布させた藤吉郎羽柴筑前守
の心理戦略の狡猾さ天下逸品!
◆批判者
長谷川さんは幻想論者です。山
崎に2城あった事など記録にない
◆長谷川
ふふふふそうでしょうかね?
ウイッキペデイア引用です。
秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかばかしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これは竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭ではないとしている。それとは別に『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を遣はして、最初の協定においては彼等は対等であったが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の絶対の君主とならんとする志を示している。よって直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が天下の君となるか各自の腕によって定めようと言った
- 一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・フロイスより
また、秀吉が毛利輝元に出した書状に山崎城に関する記述がある。
「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」
大相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状である。文中には山崎城を築城していることも記しており、清洲会議から20日程度たった天正10年(1582年)7月17日には普請が開始されている。
最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり、廃城日は天正12年(1584年)3月25日となっている。
◆北近江人
近江浅井氏の小谷城に大城
小城は存在したのですか?
◆長谷川
簡単じやないですか?北国道
を挟んで浅井氏は虎御前山城
も元来保持して街道を確保し
管理してきた戦国大名ですね。
◆北近江人
大城が小谷城で小城が虎御前山
城とすると虎御前山城に手を出
した武将とは誰ですか?信長?
◆長谷川
小城に手を出して小谷城攻め城
として拡張したのは織田信長!
◆対談者
当たってますね!長谷川先生の
大小2城理論が適格に該当する!
◆美濃人
織田信長は何故鷺山城の斎藤
道三と盟約を交わしたのか?
◆長谷川
岐阜稲葉山城は一大物流大河
長良川に面す斎藤義龍の大城
ですね。ならば信長は小城の
鷺山政権と外交関係を先ずは
締結しておくべき事です信長
の正室は鷺山殿「濃姫」です。
◆美濃人
そんな視点で稲葉山や岐阜の
歴史を僕は認識してなかつた。
◆南近江人
織田信長とは何故?佐々木六角
の本城でなく箕作城を攻めたの?
◆長谷川
上街道「中山道相当」の両側には
大城の観音寺山城がある一方小城
は箕作山城と言う事になる従って
信長は、小/子城の箕作山城を織田
主力柴田/丹羽/佐久間/羽柴を差し
向けて先ず先勝しようと小城へと
と照準を彼は合わせていますよ!
これが正攻法の正論です。弱い城
を攻める事『孫子兵法』のあると
おりです。
▼続々集まる米原長谷川歴史講座
◆長谷川
また信長は下街道を整備して
安土城を居城として近江衆の
観音寺城の屋敷は残して置い
た可能性も出て来ます。
◆反論者
四流の無名学者長谷川氏の講座
講演が思わぬ人気を得ている事
はアンチ長谷川派としては気に
食わない!我らがこそが正統の
主流である事は絶対に確固たる
盤石の自信がある。長谷川氏の
2城論は天下の街道を扼する関
門2城を築く事で合戦の帰趨が
決定されると言うものだろうが
それは日本最大の合戦関ケ原の
合戦では全く適合しませんよ!
◆反論者
そうだよ!長谷川如き4流の学者
が生意気に関ケ原合戦を語るな!
◆素朴城址見学派「長谷川派」
そうですかねえ?石田三成普請
し伊藤氏にその管理を任せて
いた不破郡松尾山城は複数曲輪
が存在する『大城』と言う事は
長谷川先生の現地見学会に参加
をした人なら明白に解る事です
小早川秀秋松尾山城13曲輪構成
毛利秀元の南宮山山城3曲輪構成
これどう見たって天下関門関ケ原
の主導権を握っている「天王山」
とは不破郡の松尾山城と言う事は
長谷川先生要衝合戦2城論が正論
で冷静な歴史城郭学者という事が
明白でしょう!いやいや関ケ原の
キーマンは小早川秀秋と言う事だ。
関ケ原合戦2城論
大城 小早川秀秋
松尾山城凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸凸
小城 毛利秀元
南宮山城凸凸凸
◆反論者
しまった!長谷川ごとき4流学者に
山崎合戦
賤ケ岳合戦
関ケ原合戦
の2城理論を指摘看破されるとは
我々大手の主流学派の名折れだ!
◆多賀町民様
ふふふふ我ら多賀住民は抜け目
がおまへんで!4月13日長谷川
先生を迎えての民衆の為の民衆
による歴史城郭大講演開催する
これが犬上郡多賀の誇りです!
◆質問者
羽柴秀吉は大小2城を巧みに交通
の要衝に配置してた長谷川理論
は卓越理論だと思います。学問
は先学の理論を模倣踏襲すだけ
のフオロアー学問に終始しては
学問の進捗は望めません。それは
我々大衆や民衆が認識をしておく
べき事ではないでしょうか?氏を
押す人々は純心で向学心ある方々
だと思います。私が秀吉の桃山城
を考えるに長谷川理論は適応相応
伏見城には真に的中しています!
◆長谷川
私の様に路傍に捨てられた捨石
の様な人物にエールを賜り感謝
を申し上げます。たしかに伏見
城とは大城の「伏見城」小城の
「向井島城」この2城の並立さ
て成立する城郭であった事は
確実と言えます。2城制度は
秀吉の城郭構想の特徴を端的
に表していると私は思います。
ウイッキペデイアより引用
向島城は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉によって伏見城の支城として宇治川を隔てた南側に築城された。 元来、観月橋の地名が残るなど、月見の名所でもあり、月見用の城として築かれた城郭だったが、慶長元年(1596年)に起こった大地震(慶長伏見大地震)により、伏見城(指月城)が崩壊すると、秀吉は一時居所を向島城へ移し、 慶長2年(1597年)に木幡山の新しい伏見城が完成するまで、仮の居城とした。
秀吉の没後は、徳川家康と石田三成が対立することとなり、豊臣政権の分裂による衰退を危惧した五大老前田利家からの提言で、伏見城下の上屋敷で政務と執っていた家康は、三成の襲撃に備えて、向島城へ居所を移して修築を行ったとされる。
慶長4年(1599年)、利家が死去すると、朝鮮出兵以降三成に不満を持っていた加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明の武断派七将が三成を襲撃する事件が起きた(石田三成襲撃事件)。
この時に三成は、向島城で家康により保護されたとされる。
◆支援者
素晴らしい長谷川先生の解説
解釈は模倣型学者問ではなく
比較研究論を用いた気付学問
つまり米原でしか講義してい
ないメイドイン米原学だと言
う事が解ります。
◆長谷川
3月28日木曜午前10時開催です
宜し御参加をお願い致します。
隠れた研究家にしておく事はもったいないと今回の
解説を読み鳥肌が立った次第であります。