城郭ビイスタ論 上文字クリック
北近江城郭鳥瞰図 上文字クリック
名人堀久太郎と奥田直政は戦国双頭の鷲Ⅱ
令和3年5月15日
①摺墨砦
②久太郎小屋砦
③東野山城も見学致します。
奥田直政こと堀監物の事
▼ウッイッキペデイアより
天文16年(1547年)、尾張中島郡奥田庄にて
、奥田直純の子として生まれる。従弟・堀秀
政の伯父の一向宗の僧のもとで、秀政と共に
幼少期を過ごす。この伯父が2人に、先に
手柄を立てた方にもう一方が従い協力して
家名を興すよう諭し、秀政が先に手柄を立
てたので直政はその家臣になったといわれる。
なお、この種の逸話は加藤清正など他の武将
にも見られ、創作との指摘もある。
秀政は13歳から織田信長の小姓になるが、
直政も同時期に信長の配下になったと思わ
れる。以後、直政は秀政の補佐をしていた
とされるが、この時期の直政の史料は乏しい。
『寛永諸家系図伝』には、伊賀亀甲城攻めで
精兵を率いて先登し信長に賞された、伊勢
峰城攻めで功を挙げたとある。信長の死後は
秀政と共に豊臣秀吉に従い、山崎の戦い、
賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、雑賀攻め、
四国攻め、九州征伐、小田原征伐に従軍した。
山崎の戦いの後、明智秀満の坂本城を包囲した時、
秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、
国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの
名物がなくなることをおそれて、これを荷造りし、
目録を添えて堀秀政の一族の直政のところへ贈っ
た。このとき直政は目録の通り請取ったことを
返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指
が目録に見えないがこれはどうしたのかと問うた。
すると秀満は、この脇指は光秀秘蔵のものである
から、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に
差すと答えたとされる[1]。
特に賤ヶ岳の戦いでは、十文字槍を片手に柴田勝家
の金の馬印を奪っており、これを奪い返そうとした
小塚藤右衛門を組み伏せ討ち取ったといわれている
(『寛政重修諸家譜』)
◆秀吉の人物鑑定
さて人間を洞察する技量のある人は社会において
今日でもほんの一握りの存在である。世俗の多く
の人々は名声や肩書を一番に信奉して真の人間の
才能や実力を看破できないのが常である。秀吉と
呼ばれる人は人間鑑定力や人間観察力においては
世人を凌駕し超越した才能を持つ歴史上の人物で
ある。奥田直政こと堀直政を秀吉は如何に評価し
ているのであろうか藤吉郎の事であるよもや節穴
ではあるまい。
人物[編集]
『名将言行録』の堀直政の項に、天下の三陪臣の
一人として挙げられている。「秀吉曰く、陪臣にて
、直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)、堀監物
(直政)抔(抔は等と同じ)は天下の仕置をするとも、
仕兼間敷(しかねまじき)者なりとて、共に賞誉せら
れけり」とある。
吉川英治の小説『宮本武蔵』
最終章(八)の最後の言葉。
波騒(なみざい)は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、
雑魚は歌い雑魚は踊る。
けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。
水のふかさを。
◆『技術編』以下 長谷川解説
さて名人堀久太郎と称された堀秀政や
彼の臣で天下の三陪臣と高く評価され
た奥田直政こと堀監物は如何様な築城
築砦妙技持つか?17歳で京都足利義昭
の為の本圀寺臨時城郭化を織田信長から
命じられた傑物でその縄張技術は如何様
なものだったのであろうかか?
残念ながら良質の文献には恵まれては
いない。しかし遺跡は時に聞く耳、見る
耳を持ていれば現場の城郭遺構は生々しく
天正11年の賎ケ岳合戦における久太郎や
堀監物の生々しい技術を白日のもとに
令和の現代に蘇らせてくれる事もある。
歴史とは紙だけや文書だけではない現場
検証によりまるで白日夢の如く鮮やかに
天正11年の昔へタイムスリップが可能だ。
先ず賎ケ岳合戦初期段階に構築されたと
思われる今市上砦、秀吉の書簡の久太郎
小屋破却に相当する遺跡の縄張、縄打ち
を検討してみたい。
以下の如く真に低土塁に囲まれた矩形の
陣営を構築している事が解る。しかも
東野山本城と異なり本格陣城と言うより
臨戦陣地と呼ぶにふさわしい簡素な印象
を受けるが?矩形の両陣は見事に阿吽の
呼吸の如くシンクロしリンクして驚く。
私が安土城、肥前名護屋城、姫路城の縄
張論を展開し東野山城の縄打図を提示し
ても城郭に感心のある人は全く興味感心
を示さない。 これは現代の城郭論自体
が縄張論のみ固執してきた経歴にあると
言えよう。中世の寺社建築に、おいては
ミリ単位に水糸を引いて神経質に作事の
土台となる地面に縄打丁張されて行く事
は春日権現絵巻でもよく理解できよう。
さあはたして今市上砦とは名人久太郎や
傑物堀監物こと奥田直政らの武将として
の才覚や名人たる土木才覚の程とは?
如何ほどのものがあろうか?
先ず私の陣営計測図に例の如く縄打線
Aを引いて見る。アバウトに作られて
いると思われた西陣東陣は見事に連携
シンクロした設計線がまず読み取れる。
久太郎と奥田の見事な連携シンクロだ。
図2
図3
図4
図5
図6
陣小屋は武将の場合陣城の内側につくられ
一般兵士は陣城の外に小屋掛けして作られ
ており緊迫した臨戦状態になり始めて兵士
は土塁の中の詰めかけ密集して陣城の守備
や戦闘を実際に行ったものだろう。現実に
賎ケ岳合戦の陣城には兵士の陣小屋を収容
する外郭や外堀を確認する事が現実に可能。
傑作陣城!堀秀政の東野山城
世の中には「出来過ぎ君」と呼ばれる人が
時に現れる所謂「超優等生」である。秀政
の名人とは人心の掌握、心配りの名人だと
の評判であるが普請や作事土木の名人では
ないだろうか?それにしても堀秀政縄張り
東野山城の異常な進歩性には驚くばかりだ。
堀秀政は思わず現代的に言えば斬新な土木
建築家ともいえる人であろう?
近年は城址の草刈充実して軽礎石列石らしき
ものも現地で観察する事が可能である。
その設計縄張や縄打は見事と言う他ない傑作だ。
出来過ぎ君!堀秀政とはまさに名人の手腕を
持つ天正のハイテク技術者と言っても過言で
は無いだろう!よくぞこれだけ高い技術測量
駆使して縄張している現実を現地で見学する
と唖然せざるを得ない何度見学しても驚く程
の城郭遺跡としてのクオリテイーを誇っる城。
2019/11/30 東野山城に見学に集結した
余呉城郭研究会のみなみな様に感謝します。
長谷川博美 共著紹介