城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

北近江戦国歴史観雑学

2024-11-06 17:56:00 | 民俗学

北近江戦国歴史観雑学

 

◆質問者

古代坂田氏が二つに分かれて

長浜西部の下坂氏

  東部の上坂氏

が活躍しましたが。坂田郡の

鳥居本の坂田氏の存在伝承は?

 

◆長谷川

勿論鳥居本は元来坂田郡です

から伝承では物生山は坂田兵部

が居たと伝承され坂田郡の城郭

の要素を今でも強く残している

城です。佐和山とは別の方向に

堀切も開削して佐和山城攻囲の

城としては出来過ぎな在地城郭

鳥居本の百々屋敷丸山砦などは

織田軍から派遣された丹羽長秀

の佐和山城攻囲の為の陣城です

が城の遺構の凹凸メリハリとは

物生山城と異なる様式の砦です。

 

◆質問者

彦根市原町は純然たる彦根

昔から彦根と言う事ですね?

 

◆長谷川

いいえ地誌を調査すると坂田

郡に出て来る鳥居本地域です。

従って一部年配の方は坂田の

方言が見られます民俗学です

鳥居本とは純然たる坂田郡部

だったのが彦根市に合併した。

古代条里制も坂田郡部の影響

が残っているのです。従って

鳥居本地域は坂田郡と歴史的

な解釈をしたほうが賢明です。

現代自治体歴史観と過去歴史

には異なりがある訳なのです。

 

◆林業関係

彦根市男鬼の山林なんでか

坂田郡箕浦庄に含まれてい

た。

 

◆長谷川

それは正解。近江こまざらえ

と言う地誌には男鬼城は坂田

郡の中に記録されています。

時代により庄や郡堺が異なる。

 

◆米原河南中学卒業生様

僕ら学校林が武奈にありまし

たそれが坂田郡と言う事です。

武奈妙高という集落は坂田郡

で現在は廃村になっていす。

 

◆長谷川

なるほど、過去と現在の地理

は時代により異なる訳ですね。

 

◆彦根人

僕ら小学校で林間学校があり

男鬼の寺に宿泊した事が記憶

あり僕らには彦根市男鬼だと

強く考えていました。

 

◆長谷川

米原町には過去に 榑ヶ畑

くれがはた と言う集落

が存在して徒歩時代には

犬上郡と坂田郡を結ぶ道

で霊仙登山もなされた村

で地名には馬場や木戸が

ありこれは城郭関連地名

 

◆彦根市民様

彦根平田山雨壺山は犬上郡と

言う事なんですが。。。

 

◆長谷川

ところが史書には江北平田と

して記載登場致する京極氏の

領地は一般に愛知川以北だと

されていてこれが中世の江北

です。従って彦根の高宮氏も

江北の京極氏の被官の記録が

あります。与力に多賀土田氏

 

◆質問者

では湖東三山とか湖東彦根藩

の言葉いつの時代に作られた?

 

◆長谷川

井伊氏が彦根藩を創設した後に

『湖東』という概念が作られた

従って湖東三山は観光用語です。

湖東焼きは彦根藩の命名です。

 

◆対談者

長谷川先生と雑学対談すると

おもしろいです『信長公記』

解説や公家の有職故実にも

詳しく『記紀』からの影響

も『公記』が受けている事

や中国思想史『史記』から

の編年体様式の解説なども

引出が多く非常に楽しい。

 

◆長谷川

自分の講演や講座で一番に

参加者の方が目を輝かされ

る時は額面通りの解説より

も少し脱線した余談に目を

輝かされる傾向にあります。

 

◆対談者

今回は北近江歴史雑学です。

長谷川先生は元来は何人?

 

◆長谷川

木之本生れの余呉育ちです。

伊香型人間基本の北近江人

余呉町東野 伝豊前守墓所

◆対談者

伊香郡余呉東野の東野氏が

坂田郡で活躍した痕跡とは?

 

◆長谷川

東野政行 書状ですね。

永禄4年4月4日1563年

の文献です。京極加賀守

の領地を獲得していった

郷伊豆入道へ行書状です。

東野弥三郎 政行と著名

しています。この書状は

長岡郷鏡新田の件につい

て書かれておりますが

郷伊豆守が長岡の領地を

京極加賀守家から徐々に

簒奪して行ったとされて

います永禄4年と言えば

浅井長政の時代ですね。

 

◆対談者

私は伊香郡の出身なので

何となく東野氏はピント

きますが坂田郡米原長浜

の人々には全くピントが

合わない話題と思います。

 

◆長谷川

まあこれは仕方がない事

伊香郡赤尾の一族赤尾氏

が長岡郷に進出した事は

地元の人には関心がない

が赤尾家は今でも健在!

 

◆四国人

山内一豊の高知城の家老

職が東野氏な訳ですよ!

 

◆長谷川

ああそれ伊香郡余呉町中之郷

の東野左京系統の東野氏です。

左京家は西浅井町八田部にも

永禄期に浅井長政から領地を

宛がわれた記録が残っている

東野から西浅井町八田部へと

行くには余呉権現坂と塩津の

岩熊坂「やのくまさか」超え

で行かないと浅井郡西部には

行けません。歴史地理です。

 

◆長浜市内人

その話全くピント来ないです。

第一余呉も中之郷も知らない。

西浅井岩熊もヤノクマと読む?

 

◆長谷川

延喜式神名帳には片山神社や

下塩津神社も岩熊の矢相神社

も浅井郡に収録されています。

國學院大學出たからにはこれ

を知らないと恥をかきます。

 

◆対談者

無理もない事です。山内一豊

は長浜城時代もありましたが

地元長浜は太閤秀吉一色です。

 

◆質問者

米原学びあいステーションでの

長谷川先生の歴史講演は順調?

 

◆長谷川

ジリジリじわじわ紳士様の御参加

を伸ばしておりますがこれはこれ

でむずかしい問題なのです。地元

米原市の新発見城郭を講座にて

解説して良いものか全く不明!

 

◆対談者

伊香郡余呉の東野氏も浅井氏に

従属して浅井郡東野にも居館を

設け坂田郡長岡郷でも郷伊豆守

宛てに書簡を残しております。

でも坂田郡の人はピント来ない。

 

◆長谷川

近江町宇賀野の遠藤氏は浅井に

従い坂田郡の須川山砦に在番を

致します。遠藤氏は『信長公記』

にも姉川合戦に登場する浅井長政

方の武将ですが多賀大社遠藤直胤

の三十六歌仙絵は非常に有名です

があまり着目されていない訳です。

遠藤氏と多賀は関係なと一般の人

は考えていますが多賀の遠藤屋敷

に行ってみるとチャント堀切とか

曲輪残って騒然と驚く訳です。

 

◆長谷川

地域開催講座とは非常に難しい

ものです。浅井氏に従属して磯

に進出した磯野丹波家はやがて

佐和山城にまで南進して高宮氏

や坂田郡の今井氏を家臣団へと

組み込む記録が『嶋記録』です。

 

◆対談者

伊香郡の磯野伯耆守が磯山に

進駐した段階で米原市磯には

伊香小屋』と言う小字残し

ている。我々伊香郡から米原

の講座を聞きに行った者には

ピント来ます。

 

◆長谷川

その辺の話題が非常に難しい

磯に住んでおられ米原講座に

来ておられる方に此れを解説

すると伊香郡から米原磯山へと

来て伊香小屋を作った事はNG

 

◆長谷川

この小屋の言葉が 城郭研究界

ではいかに大切な文言なのか?

これは1980年代に山小屋、小屋

が文献に登場するにも関わらず

無視されている  山小屋論争

が大変盛り上がった時代がある

しかし近江湖北戦国史では一切

小屋の文言は語られていません。

 

◆長谷川

天正11年賤ケ岳合戦の羽柴秀吉

の記録には木之本に小屋の文言

があります。余呉天神山砦撤廃

の時の秀吉文書も柴田伊賀小屋

つまり当時長浜城主の柴田勝豊

の陣小屋を撤廃せよと書いてる。

だから山小屋や小屋の文言とは

非常に大切だと言えます。

 

◆長谷川

ここに注目すべき記録を紹介

長浜市加田町に佐久間玄番の

書状が残り、山小屋が見える。

◆長谷川

さらに驚く事があります。

上記の長岡郷 郷伊豆守

は京極加賀守系列の領地

を少しづつ蚕食して行っ

た一族なのですが天正11

年佐和山城主だった堀秀

政の書状にとんでもない

文言が挿入されている事

◆長谷川

米原市○○○の〇様の案内で

新発見の山城に行ったのです

がその谷の地名が滝戸タキド

だった事に私は仰天する事に

ではその近辺にどの様な城塞

が出現したのかと言う事です。

出るわ出るわの連続ヒット曲

これ一体なんじゃ?中世城郭

遺跡のヒットパレード状態!

こんなの発見したらかえって

私一人ぼっちのあいつ状態に

誰からも理解されず誰からも

孤立する恐れが120%ある事

これでは勉強が進まない研究

が進まない事途方に暮れます!

でも気軽に手軽に見学会希望!

これ未来の米原市の観光名所に

 

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 近江長岡の戦国史の謎に挑む | トップ | 彦根城あんぽんたん質問 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事