城郭 長谷川博美 基本記録

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尾張鳴海城のビイスタ工法

2023-02-25 22:06:00 | 東海の城 ビイスタ工法

◆対談者

長谷川先生の動画城郭ビイスタ

の視聴数が5800回を超えました

そこで昔 尾張鳴海城にもこの

ビイスタ工法は使われたのです

か?鳴海城のビイスタを解明を

して頂ければ幸甚と考えてます。

◆長谷川

愛知郡鳴海村古城絵図を参考に

するとクサビ型ビイスタ工法が

読取れます。現在この城は現況

を留めていないと言う事で残念

◆質問者

佐久間氏も城主を務めた

名のある城郭と言う事で

扇型のビイスタ工法が当

城に存在した可能性とは?

 

◆長谷川

重複型ビイスタ工法が読取れます。

既に織豊城郭の安土城の縄張原形

が鳴海城では既に完成しています。

ちなみに織田一族の知多半島の城

大草城などもビイスタ工法ですね

 

▼安土城扇型ビイスタ工法

 

ウイッキペデイア

鳴海城より引用

 

永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こり、

今川軍はまず大高城に付けられた織田方拠点

の各砦の排除を敢行し、残りの鳴海城に付け

られた三砦の排除を残すのみとなり作戦は順調

かにみえたが、作戦総司令部である義元本陣が

織田本隊の強襲により総大将義元が討ち取られ

総崩れとなってしまった、しかしあくまで本隊

が敗北したのみであったので、砦排除のため

待機中であった鳴海城兵はかなりの兵数を維持

していたと思われ無傷であった。信長との交渉

の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け

渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落

ちた。戦後、佐久間信盛信栄父子が城主をつとめ、

天正末期に廃城になったといわれる。現在でも彼の

名にちなんだといわれる「作町(さくまち)」と

いう地名が城下に残っている。

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