◆対談者
この投稿の要点とは?
◆長谷川
①城郭遺跡認識に関する問題
②遺跡認識力に個人差がある
③何とか砦を認識する力量を
◆質問者
この飯山砦は新発見でしょうか?
是非見学をしたいと思いますが?
◆長谷川
貴方が付いて学んだ先生先輩の指導
に砦の見学価値とは全く変わります。
城郭探訪の方に全く価値なき砦です。
城学びの人には大きな示唆を受ける。
◆対談者
Aグループ
まったく犬走を計測する事をしない先生や
犬走を計測され図化しても是を消去する体質
の研究者や研究団体は飯山砦は砦として認定
認識はされません。きつと強く否定されます。
Bグループ
一方5㎝10㎝の人口の段差を見学し計測し図化
して砦の規模や縄張を認識しようとする意志
の人や城郭遺構を真に見学したい人達は賛同。
◆対談者
Bグループの人々が基礎知識に忠実な厳格なる
本当の城郭遺跡の専門家や遺跡見学者様達です。
Aグループは現実消し去さる現実否定型の人達。
◆関西のおっちゃん
Aクループそれアカンやろ真実消したらアカン
◆長谷川
残念ですが「対談者」様は城址探訪や城旅の人
の観点から見たら完全負け組のごく少数派の人
◆世間様
当たり前だろうが!メリハリのある石垣や深い
堀や見栄えする城を探訪する事が探訪の真髄!
◆長谷川
応仁の乱の陣の屏風絵が残っています。絵画
には平面を認めませんが外陣には門を設けて
本陣には盾を並べて陣営を形成しています。
このような陣でも5㎝10㎝の段差は現代まで
も残るのでこれを計測すければ陣容が解る。
◆対談者
昔は文化財課を中心に古墳や城跡を見学学習す
る生涯学習という勉強や学習という豊かな情操
と教養を見に連れる事を美徳の傾向が時代主流!
◆世間様
とぼけた事を言うな!どこの世界に古墳や城址の
学習をして豊かな教養など見に付けたい奴おる?
しつかり目を覚ませや!令和は観光行楽が王道よ
学習なんぞよりも地域振興が時代の主役で定款よ!
時を読め!時の求める気を読め!それが生きる事!
◆対談者
私の学びたい、知りたい、向学心の心が曇ります。
平成令和の城ブームが振興や観光や行楽の名目だ
とは過去の〇〇ブームの様に空しく消え去る運命
城で遊びて楽しいと、城を学びて愉しいとは違う!
◆達観者
時代の流れとは恐ろしきもの!愚かな一部の政治
家が民衆を言葉巧みにたぶらかし無益の戦争を始
め人民を殺傷する。城や砦を真面目に真剣に冷静
に見ると言う事は過去の人間社会の冷静歴史観察
を通して人間の愚かさの普遍性を認識して戦争や
闘争の歴史を冷静に観察して知る事、過去の歴史
や社会観察だと思います砦があると言う事は騒乱
が起きた過去証拠!人間の心の恐ろしさを知る事!
近江浅井郡飯山砦(仮称)
◆長谷川
遠い遠い昔の事である。Iさんと言う方が
浅井町の飯山出身で旧姓Sと言ったと言わ
ていた事、そして我が家には「首桶」が残っ
ていたと言われた事が私の記憶に強烈に残っ
ていた。「首桶」が残っていたと言う事は何
の意味?浅井町飯山は?私は長年考え続けた。
A武家集団=城館を拠点とする武家=武士の城
B寺社勢力=寺社を拠点とする集落=寺社の城
C惣村集落=寄合と合議制を自治村=村人の城
◆長谷川
いずれかが長浜市旧浅井町飯山に存在すると考
へ飯山へと国道365号線から草野川沿いに飯山
へと向かった。飯山遠望すると御飯を盛る如く
草野川方面に突出した東草野谷南入口を防御す
べく、要害性に満ちた飯盛山①の山容が私の目
に入った。東草野谷は佐々木六角氏が侵攻した
記録②や元亀の頃には大吉寺を織田方が攻め破
った記録が『信長公記』③にあり飯山は重要な
草野谷の谷の入口を守る地理地勢である可能性
が高い。もっとも私は飯山は「飯山寺遺跡」と
いう名称で遺跡登録されているので城館城郭で
ある可能性は希薄であろうと長年考えて飯山の
調査には行く事をためらってたと言える。これ
は人間に去来する先入感や固定概念であり現実
に現場に調査に行く事が非常に大切な事である。
令和4年3月飯山に到着したが獣害対策用の鉄柵
により飯盛山には登山できず自宅に空しく引き
返し城址として認識されいなかった城郭遺跡の
報告、『日本城郭体系5』を読み返してみる事
にした。越畑城とは一般に城址として認識され
てなかったとある。この一般と言う言葉の概念
が非常に難しい一般の人が城跡を100城探訪した
場合遺跡の段築が5㎝10㎝の場合はその多くの人
が遺構がなかったとインターネットに書き込む
事は否めず残念である一般の人々は2m3mある
メリハリある高さの土塁や空堀を城跡めぐりの
達人と呼ばれる先達に連れられて山城を見学し
ている場合が多く、自分の城郭見学の先輩師匠
が遺構は何も無い教示した場合構成員10人様の
人達は全員が何もないと記憶してしまう事にあ
る。当然の事ながら5㎝10㎝の地面の段差とは
4月から繁茂し始める草木に簡単に隠れて人間
は是を視認不可能としてしまう事にある。従っ
て5㎝10㎝の城郭遺跡の段差は現代の赤色遺跡
写真図にも写らない場合があり自分の所属する
会の指導者がここに城跡がないと言えば全員が
5㎝10㎝の段差の城郭遺構や布陣遺構を見学す
る意志が全く消滅するマナー「様式/方針」が
会派、会派、により存在する事になる人間とは
これを「主観」と言う便利な言葉で回避する。
◆対談者
上の図みても解りません?一般の人は見落としてしまう。
◆長谷川
横矢/犬走/入隅/横堀など軍事の知識ある階層が築城
した事が解ります。築城術を知る戦闘集団の為の城
◆対談者
私郷土史家さんについて郷土史を学んだんですけど
実際の城郭遺構にいって全く知らない方だったのよ
多数の曲輪が存在する砦なのにその先生は文字ズラ
の歴史しか認識していない文字と遺跡認識の対立や
壁の存在を思い知らされました。文字見て地面見ず!
◆長谷川
令和4年3月再度私は飯山を訪れ幸い親切な御仁と
遭遇して獣害対策柵から登山できる門戸を解放し
てもらう幸運に遭遇した。私は飯山の尾崎の山の
地名を集落の人に聞いた。集落の人は「まるやま」
の俗称を教示していただいた。これ小字帳に収録
されていない俗称ながら「まるやま」とは古墳か
城址のある場所に必ずある俗称である事を私は知
っていたので飯盛山は飯山寺遺跡「はんざんじ」
の一部と知りながら登山を始めた。尾崎山頂へと
到着した私は激しい落胆に襲われた。一般の人か
ら見て全く遺跡や遺構が明瞭に確認しにくい状態
の砦だったからである。こんなしようもない砦を
計測して一体何の意味があろうかと!?強烈なる
自虐の念に襲われた尾崎を城郭として独立させる
野首堀切型の「堀切」もなく私は早々に下山する
事を決め込み、山頂に坐して休憩を取る事にした
今年の日本の寒気殊更に寒く草野谷から吹き下ろ
す風の何と寒い事か?④たしか大風山の小字名が
ある事を思いだした。城郭の内外を連想する地名
「内山」「外山」の地名やズバリ寺院関連地名の
「寺の奥」もある。さて私は暫時休息して下山を
決心したが、しかし山に残る残雪が円弧を描く様
に犬走を形成している事に遅まきながら気付いた。
ローマは一日にして成らず、本物に近道なしと私
は私の城郭の師匠たる城郭の先生「城郭遺跡」に
「お前は砦を計測する事により進歩したぞ」真の
学者研究家ならば再度、この「飯山」を計測する
気概があるか!学者として気力?本気なのかと?
砦が激しく訴えた様な気がして遺構計測を始めた。
◆長谷川
砦は正直な先生だ12345と遺構の南東部に連続
竪堀が現れた。12345は飯山や飯山寺を守るべく
設定さけた阻塞と解釈した。6は当砦の主郭部に
相当し大変微薄ながらも囲郭を形成する砦構造
が読み取れた。8の尾根鞍部に降る堀切は認め
られなずに7に目をやると地滑りしたような平
が認められた。9は小規模ながら曲輪を形成し
て飯山砦のニノ曲輪の役割を担っている様だ。
◆城郭遺跡規模
6を中心とする曲輪は南北約30間約54.9m以上
8を中心とする小曲輪も8、9、10を含め約55m
◆長谷川
●飯山考察
山麓の寺院遺跡「飯山寺跡」を居館部とすると
「飯盛山砦」は飯山集落と飯山寺の東背後防衛
の詰めの城、山麓居館に対する山城や砦に相当
山城と山麓居館の1セットの組み合わせか?
◆質問者
飯山の小字名には大風谷と書いて「おおかせ」
とルビが打っています。この「かせ」とは何?
◆長谷川
風をカセと訓じている事は枠者かせもの
の可能性がある言葉でしょうか?
枠カセモノ
●比較考察 そのⅠ
黄檗山西円寺「京極氏筆頭国人今井氏墓所の地」
西円寺西方山頂部の西円寺砦
山城と山麓居館の1セットの組み合わせか?
B寺院勢力=寺院を拠点とする集落=寺院の城
●西円寺砦と飯山砦の共通項
①武家勢力のような強力な堀切遺構は認めず
②山麓に比較顕著な寺基を元来所有している
●比較考察 そのⅡ
犬上郡多賀町佐目 真宗佐目道場と城郭
佐目集落の周囲には約3ヵ所の山城の存在
を認める、そのうち、小字越超の城跡の
存在は明智光秀伝承も佐目には存在する
が砦前面に顕著な堀切を掘削している事
村の城から武士の城、堀切ある武士階層
の砦に進捗した形式を示す山城であろう
か?佐目の場合でも山麓に十兵衛屋敷の
でんしよう。小字宮前に近い場所に虎口
の俗称伝承などがあり非常に民俗学的に
興味のある事案であると言える。
◆質問者
余呉城郭研究会さんの世評が非常に高い
と言われています。山麓居館と山頂山城
の所謂、山麓館として余呉東野氏は山麓
に「御屋敷」を構えていたと言う事です
が今回登場している山砦は楕円形状とも
言える織豊系陣城とはことなる砦かと考
へています。余呉町東野館跡の山上にも
楕円形状とも言える砦が存在しますか?
◆長谷川
大変すばらしい質問ですね!確かに東野氏館の
裏山の山上には非常に在地城郭的なプリミイブ
な縄張を持つ東野山西砦もあり確かに織豊系の
陣城とは趣を異にする形状といえます。なによ
りも会員様が犬走遺構を見おとす事のない会員
様の御協力で城郭研究は地道に進捗してます。
◆対談者
余呉城郭研究会つてむずかしい事や形式城郭論
を言っておられませんね。あるがままの城跡を
素直に鑑賞し城郭遺跡を冷静に楽しむ向学の人達。
▼東野山西砦図
▼越畑城図
滋賀民俗学会理事 長谷川博美
元滋賀県中世城郭現地分布調査員
註
①『角川日本地名辞典滋賀県浅井町』の飯盛山
②
大永5年(1525年)など他に六角定頼が草野谷に侵攻
③
『信長公記巻』五{元亀三年}
七月廿四日、草野の谷、是れ又、放火侯。□に、大吉寺と
申して、高山能き構へ、五十坊の所に侯。近里近郷の百姓
など当山へ取り上り候。前は嶮難のぼり難きに依つて、麓
を襲はせ、夜中より、木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門、うしろ
山続きに攻め上げ、一揆僧俗数多切り捨てられ、
④『角川日本地名辞典』浅井町飯山の小字名
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