城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

近江浅井郡飯山砦(仮称)

2022-03-20 01:25:29 | お城日記

◆対談者

この投稿の要点とは?

 

◆長谷川

①城郭遺跡認識に関する問題

②遺跡認識力に個人差がある

③何とか砦を認識する力量を

 

◆質問者

この飯山砦は新発見でしょうか?

是非見学をしたいと思いますが?

 

◆長谷川

貴方が付いて学んだ先生先輩の指導

に砦の見学価値とは全く変わります。

城郭探訪の方に全く価値なき砦です。

城学びの人には大きな示唆を受ける。

 

◆対談者

Aグループ

 まったく犬走を計測する事をしない先生や

犬走を計測され図化しても是を消去する体質

の研究者や研究団体は飯山砦は砦として認定

認識はされません。きつと強く否定されます。

 

Bグループ

一方5㎝10㎝の人口の段差を見学し計測し図化

して砦の規模や縄張を認識しようとする意志

の人や城郭遺構を真に見学したい人達は賛同。

 

◆対談者

Bグループの人々が基礎知識に忠実な厳格なる

本当の城郭遺跡の専門家や遺跡見学者様達です。

Aグループは現実消し去さる現実否定型の人達。

 

◆関西のおっちゃん

Aクループそれアカンやろ真実消したらアカン

 

◆長谷川

残念ですが「対談者」様は城址探訪や城旅の人

の観点から見たら完全負け組のごく少数派の人

 

◆世間様

当たり前だろうが!メリハリのある石垣や深い

堀や見栄えする城を探訪する事が探訪の真髄!

 

◆長谷川

応仁の乱の陣の屏風絵が残っています。絵画

には平面を認めませんが外陣には門を設けて

本陣には盾を並べて陣営を形成しています。

このような陣でも5㎝10㎝の段差は現代まで

も残るのでこれを計測すければ陣容が解る。

 

◆対談者

昔は文化財課を中心に古墳や城跡を見学学習す

る生涯学習という勉強や学習という豊かな情操

と教養を見に連れる事を美徳の傾向が時代主流!

 

 

◆世間様

とぼけた事を言うな!どこの世界に古墳や城址の

学習をして豊かな教養など見に付けたい奴おる?

しつかり目を覚ませや!令和は観光行楽が王道よ

学習なんぞよりも地域振興が時代の主役で定款よ!

時を読め!時の求める気を読め!それが生きる事!

 

◆対談者

私の学びたい、知りたい、向学心の心が曇ります。

平成令和の城ブームが振興や観光や行楽の名目だ

とは過去の〇〇ブームの様に空しく消え去る運命

城で遊びて楽しいと、城を学びて愉しいとは違う!

 

◆達観者

時代の流れとは恐ろしきもの!愚かな一部の政治

家が民衆を言葉巧みにたぶらかし無益の戦争を始

め人民を殺傷する。城や砦を真面目に真剣に冷静

に見ると言う事は過去の人間社会の冷静歴史観察

を通して人間の愚かさの普遍性を認識して戦争や

闘争の歴史を冷静に観察して知る事、過去の歴史

や社会観察だと思います砦があると言う事は騒乱

が起きた過去証拠!人間の心の恐ろしさを知る事!

 

近江浅井郡飯山砦(仮称)

◆長谷川

遠い遠い昔の事である。Iさんと言う方が

浅井町の飯山出身で旧姓Sと言ったと言わ

ていた事、そして我が家には「首桶」が残っ

ていたと言われた事が私の記憶に強烈に残っ

ていた。「首桶」が残っていたと言う事は何

の意味?浅井町飯山は?私は長年考え続けた。

 

A武家集団=城館を拠点とする武家=武士の城

 

B寺社勢力=寺社を拠点とする集落=寺社の城

 

C惣村集落=寄合と合議制を自治村=村人の城

 

◆長谷川

いずれかが長浜市旧浅井町飯山に存在すると考

へ飯山へと国道365号線から草野川沿いに飯山

へと向かった。飯山遠望すると御飯を盛る如く

草野川方面に突出した東草野谷南入口を防御す

べく、要害性に満ちた飯盛山①の山容が私の目

に入った。東草野谷は佐々木六角氏が侵攻した

記録②や元亀の頃には大吉寺を織田方が攻め破

った記録が『信長公記』③にあり飯山は重要な

草野谷の谷の入口を守る地理地勢である可能性

が高い。もっとも私は飯山は「飯山寺遺跡」と

いう名称で遺跡登録されているので城館城郭で

ある可能性は希薄であろうと長年考えて飯山の

調査には行く事をためらってたと言える。これ

は人間に去来する先入感や固定概念であり現実

に現場に調査に行く事が非常に大切な事である。

令和4年3月飯山に到着したが獣害対策用の鉄柵

により飯盛山には登山できず自宅に空しく引き

返し城址として認識されいなかった城郭遺跡の

報告、『日本城郭体系5』を読み返してみる事

にした。越畑城とは一般に城址として認識され

てなかったとある。この一般と言う言葉の概念

が非常に難しい一般の人が城跡を100城探訪した

場合遺跡の段築が5㎝10㎝の場合はその多くの人

が遺構がなかったとインターネットに書き込む

事は否めず残念である一般の人々は2m3mある

メリハリある高さの土塁や空堀を城跡めぐりの

達人と呼ばれる先達に連れられて山城を見学し

ている場合が多く、自分の城郭見学の先輩師匠

が遺構は何も無い教示した場合構成員10人様の

人達は全員が何もないと記憶してしまう事にあ

る。当然の事ながら5㎝10㎝の地面の段差とは

4月から繁茂し始める草木に簡単に隠れて人間

は是を視認不可能としてしまう事にある。従っ

て5㎝10㎝の城郭遺跡の段差は現代の赤色遺跡

写真図にも写らない場合があり自分の所属する

会の指導者がここに城跡がないと言えば全員が

5㎝10㎝の段差の城郭遺構や布陣遺構を見学す

る意志が全く消滅するマナー「様式/方針」が

会派、会派、により存在する事になる人間とは

これを「主観」と言う便利な言葉で回避する。

◆対談者

上の図みても解りません?一般の人は見落としてしまう。

◆長谷川

横矢/犬走/入隅/横堀など軍事の知識ある階層が築城

した事が解ります。築城術を知る戦闘集団の為の城

 

◆対談者

私郷土史家さんについて郷土史を学んだんですけど

実際の城郭遺構にいって全く知らない方だったのよ

多数の曲輪が存在する砦なのにその先生は文字ズラ

の歴史しか認識していない文字と遺跡認識の対立や

壁の存在を思い知らされました。文字見て地面見ず!

◆長谷川

令和4年3月再度私は飯山を訪れ幸い親切な御仁と

遭遇して獣害対策柵から登山できる門戸を解放し

てもらう幸運に遭遇した。私は飯山の尾崎の山の

地名を集落の人に聞いた。集落の人は「まるやま」

の俗称を教示していただいた。これ小字帳に収録

されていない俗称ながら「まるやま」とは古墳か

城址のある場所に必ずある俗称である事を私は知

っていたので飯盛山は飯山寺遺跡「はんざんじ」

の一部と知りながら登山を始めた。尾崎山頂へと

到着した私は激しい落胆に襲われた。一般の人か

ら見て全く遺跡や遺構が明瞭に確認しにくい状態

の砦だったからである。こんなしようもない砦を

計測して一体何の意味があろうかと!?強烈なる

自虐の念に襲われた尾崎を城郭として独立させる

野首堀切型の「堀切」もなく私は早々に下山する

事を決め込み、山頂に坐して休憩を取る事にした

今年の日本の寒気殊更に寒く草野谷から吹き下ろ

す風の何と寒い事か?④たしか大風山の小字名が

ある事を思いだした。城郭の内外を連想する地名

「内山」「外山」の地名やズバリ寺院関連地名の

「寺の奥」もある。さて私は暫時休息して下山を

決心したが、しかし山に残る残雪が円弧を描く様

に犬走を形成している事に遅まきながら気付いた。

ローマは一日にして成らず、本物に近道なしと私

は私の城郭の師匠たる城郭の先生「城郭遺跡」に

「お前は砦を計測する事により進歩したぞ」真の

学者研究家ならば再度、この「飯山」を計測する

気概があるか!学者として気力?本気なのかと?

砦が激しく訴えた様な気がして遺構計測を始めた。

◆長谷川

砦は正直な先生だ12345と遺構の南東部に連続

竪堀が現れた。12345は飯山や飯山寺を守るべく

設定さけた阻塞と解釈した。6は当砦の主郭部に

相当し大変微薄ながらも囲郭を形成する砦構造

が読み取れた。8の尾根鞍部に降る堀切は認め

られなずに7に目をやると地滑りしたような平

が認められた。9は小規模ながら曲輪を形成し

て飯山砦のニノ曲輪の役割を担っている様だ。

◆城郭遺跡規模

6を中心とする曲輪は南北約30間約54.9m以上

8を中心とする小曲輪も8、9、10を含め約55m

◆長谷川

●飯山考察

山麓の寺院遺跡「飯山寺跡」を居館部とすると

「飯盛山砦」は飯山集落と飯山寺の東背後防衛

の詰めの城、山麓居館に対する山城や砦に相当

山城と山麓居館の1セットの組み合わせか?

 

◆質問者

飯山の小字名には大風谷と書いて「おおかせ」

とルビが打っています。この「かせ」とは何?

◆長谷川

風をカセと訓じている事は者かせもの

の可能性がある言葉でしょうか?

カセモノ 

『名詞』
① 中世後期の武家被官の一つ。の最下位、
中間の上に位置し、若党や殿原(地侍)に
相応する身分。かせにん。かせきもの。
※常陸税所文書‐(年未詳)(1452‐66頃)
一〇月一四日・書状「巨細者可加世者申候」
② 独立した生計をいとなめず、他人の家に
奉公などして生計をたてた貧しい者。
本福寺跡書(1560頃)生身御影様大津浜
御著岸之事「地下住人の(カセモノ)

●比較考察 そのⅠ

黄檗山西円寺「京極氏筆頭国人今井氏墓所の地」

西円寺西方山頂部の西円寺砦

山城と山麓居館の1セットの組み合わせか?

B寺院勢力=寺院を拠点とする集落=寺院の城

●西円寺砦と飯山砦の共通項

①武家勢力のような強力な堀切遺構は認めず

②山麓に比較顕著な寺基を元来所有している

●比較考察 そのⅡ

犬上郡多賀町佐目 真宗佐目道場と城郭

佐目集落の周囲には約3ヵ所の山城の存在

を認める、そのうち、小字越超の城跡の

存在は明智光秀伝承も佐目には存在する

が砦前面に顕著な堀切を掘削している事

村の城から武士の城、堀切ある武士階層

の砦に進捗した形式を示す山城であろう

か?佐目の場合でも山麓に十兵衛屋敷の

でんしよう。小字宮前に近い場所に虎口

の俗称伝承などがあり非常に民俗学的に

興味のある事案であると言える。

◆質問者

余呉城郭研究会さんの世評が非常に高い

と言われています。山麓居館と山頂山城

の所謂、山麓館として余呉東野氏は山麓

に「御屋敷」を構えていたと言う事です

が今回登場している山砦は楕円形状とも

言える織豊系陣城とはことなる砦かと考

へています。余呉町東野館跡の山上にも

楕円形状とも言える砦が存在しますか?

◆長谷川

大変すばらしい質問ですね!確かに東野氏館の

裏山の山上には非常に在地城郭的なプリミイブ

な縄張を持つ東野山西砦もあり確かに織豊系の

陣城とは趣を異にする形状といえます。なによ

りも会員様が犬走遺構を見おとす事のない会員

様の御協力で城郭研究は地道に進捗してます。

◆対談者

余呉城郭研究会つてむずかしい事や形式城郭論

を言っておられませんね。あるがままの城跡を

素直に鑑賞し城郭遺跡を冷静に楽しむ向学の人達。

▼東野山西砦図

▼越畑城図

 

   滋賀民俗学会理事 長谷川博美

   元滋賀県中世城郭現地分布調査員

 

①『角川日本地名辞典滋賀県浅井町』の飯盛山

大永5年(1525年)など他に六角定頼が草野谷に侵攻

『信長公記巻』五{元亀三年}

七月廿四日、草野の谷、是れ又、放火侯。□に、大吉寺と

申して、高山能き構へ、五十坊の所に侯。近里近郷の百姓

など当山へ取り上り候。前は嶮難のぼり難きに依つて、麓

を襲はせ、夜中より、木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門、うしろ

山続きに攻め上げ、一揆僧俗数多切り捨てられ、

 

④『角川日本地名辞典』浅井町飯山の小字名

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ジョニーウインターのブルー... | トップ | 三成 橋台 見学記 滋賀 近... »
最新の画像もっと見る

お城日記」カテゴリの最新記事