織田信長に優遇され明智光秀に本能寺で打たれた東近江の布施藤九郎の生涯
◆はじめに
文権『信長公記』登場する武将や人物
は当時武将として優れた一流の人傑と
みて間違いないだろう。東近江大森の
城主布施淡路守藤九郎も築城の才や
蒲生野の牧の伝統に通じる武将と思わ
れるが歴史の中に見落とされた人材
で人間の才能を最も重視する。織田信長
の人物鑑定眼に見合う戦国武将だったと
思われる。彼の生涯を文献『信長公記』
より考察したいとおもう。安土桃山の
時代を代表する稀代の文筆家太田牛一
の筆に布施藤九郎は再三登場する人
いわいる物語や伝説の中の人物では
なく実際のリアリズム現実の人だ。
織田信長なる人は才覚ある人を採用
し能力を最優先する武将ではあるが
本能寺の変でついに自分の採用した
明智光秀に打たれる非業の最期を
迎える事になった人物でもある。
我らの藤九郎も信長に巡りあわねば
本能寺の厩で打ち死にする事もなく
大森のお馬屋敷から馬を疾駆させて
市原野方面にのどかに遊んだ事だろ
う。
◆大森山城は国道307号線随一の城跡!
その構造は見事につきる立派な城址だ。
◆たまおまちづくり委員会様一員様のメール
「大森城址を訪れる人に案内パンフレット
を渡すかいろいろ考えていましたが、最近
はスマホを持っている人は多いため、登山
口の案内板でQRコードを読み込めば、玉緒
地区まちづくり委員会のブログで大森城址
の解説が見られることを考えています。
添付PDF資料を参照ください。それで、
大森城址紹介で長谷川さんの描かれた
イラスト図を、お借りできないでし
ょうか。又、今年はNHKで「麒麟がくる」が
放映されているため、ブログでは信長公記に
出てくる布施藤九郎の話や、千草街道超えなど
紹介したいと思っています。私の町内でお城を
見学したい女性(69歳)がいます。春になりお
城見学を企画されたら、ご連絡下さい。」
◆長谷川博美返事
たまおまちづくり委員会様には丁重なる御挨拶
を賜り、その紳士的で健全な活動に感謝します。
東近江市滋賀湖東方面の発展の為に小生の図面
を微力ながらお使い下さい。
◆布施藤九郎君保の生涯1
文献『信長公記』より引用。
元亀元年1570年
千草峠にて鏡炮打ち申すの事
「五月十九日御下のところ、浅井備前、鯰江の城へ
人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止むべ
き行仕侯。然れども、日野蒲生右兵衛門大輔、布施
藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越え
にて御下なされ侯。左侯ところ、杉谷善
住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ、
千草・山中道筋に鉄炮を相構へ、情なく、十二、三間
隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し侯。され
ども、天道昭覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり
、鰐の口を御遁れ侯て、目出たく五月廿一日
濃州岐阜御帰陣」とある。
※1信長と藤九郎の出会いはケ元亀元年5月19日
である事がわかる。この時の彼は日野蒲生右兵衛門
大輔の被官つまり家臣として使えていた事になる。
信長は六角方の放った当時の鉄砲の名手杉谷善住坊
に一度に鉛の玉を2発を発射できる鉄砲で狙撃され
たが当たらず当時の彼の本拠岐阜城に無時帰還する。
◆布施藤九郎君保の生涯2
文献『信長公記』より引用。
天正六年の記録1576年
大相撲三番打ち人数の事。
三番打(木村源五内)木村伊小介、三番打(瓦園内)
綾井二兵衛尉、三番打(布施藤九郎内)山田与兵衛
※2布施藤九郎の家臣山田与兵衛が安土で開催された
相撲で三番に登場した事を記している藤九郎の援助
のもと山田氏は安土相撲へと参加した事であろう。
◆布施藤九郎君保の生涯3
文献『信長公記』より引用。
天正八年の記録1578年
閏三月十六日より、菅屋九右衛門・堀久太郎・
長谷川竹両三人御奉行として・安土御構への南、
新道の北に江をほらせられ、田を填めさせ、
伴天連に御屋敷下さる。
今度、蒲生右兵衛大輔家中、布施藤九郎御馬廻に
召し加へられ、是れ又、江を填めさせ、御屋
敷下され、忝き次第、面目の至りなり。
※3藤九郎は織田信長に蒲生氏家臣から信長
直属の馬廻り一躍昇進して当時バテレンの
キリスト教徒なみに優遇され安土に屋敷ま
で下賜された事が読み取れる。これ信長の
保内商人統制政策や八風街道の確実な管理
をも意味する商業経済圏の確実掌握政策で
あろう八風街道を超えて伊勢路にむかう為の
運搬手段として騎馬は最も重要な現代で言う
ところの自動車運搬手段と言う事になるこの
件を彷彿とさせる大森山城近辺の地名には
お馬屋敷、市場、などの地名が現在も残って
おりその地名は歴史の深さを物語っている。
思い起こせばこの旧八日市近辺には市辺地名
八日市、大森の市場、市原野などの古来より
市が栄えた物流経済に優れた先進地域であり
初期佐々木六角氏も小脇館を構えて近江守護
として出発した土地でもある。
◆布施藤九郎君保の生涯3
我らの布施藤九郎は本能寺の変に主君信長の
もとに厩「うまや」で非業の殉死をする!
文献『信長公記』引用。
天正10年本能寺の変の記録1570年
森乱申す様に、明智が
者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、
上意候。透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂
の御番衆も御殿へ一手になられ候。御厩より、矢代
勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五、切つて出
で、討死。此の外、御中間衆、藤九郎、藤八、岩、
新六、彦一、弥六、熊、小駒若、虎若、息小虎若を
初めとして廿四人、御厩にて討死。」とある。
※我らの布施藤九郎残念ながらも本能寺の戦死者
名簿に、藤九郎と収録記録されている。八風街道
すじに生を受けて懸命に織田信長に仕えるも遂に
藤九郎らしい本能寺の厩「うまや」で明智光秀の
兵に打たれる事になりその生涯を閉じる事になる。
藤九郎最後の時に彼の脳裏に走馬灯の如く東近江
鈴鹿山系、碧き八風の山脈が去来した事でだろう。
考察するに布施藤九郎も中間として表現されている
が江戸期の中間とは異なる織田信長と言う上様つま
り当時の公儀に出仕する人物と解釈出来る文中登場
する、森乱こと森蘭丸も一城を信長から賜る身分で
ある事も布施藤九郎も安土に屋敷を信長から与えら
ている身分である。数代名乗った布施淡路守の名は
観音寺城でも一段独立した伝布施淡路丸が伝承され
その築城技術も特に優れた家系と言える。明智光秀
も宣教師の記録に室町幕府の重鎮細川氏の中間だっ
たと記しており江戸の中間の身分と室町末期の中間
の意味や解釈は当然異なると事に注意する事が大切。
できうれば我らの布施藤九郎、さっそうと蒲生野
や八風街道を疾駆して安土に屋敷を信長から与え
られ大活躍する『蒲生野の颯』がもうののはやて
布施藤九郎の小説などの短編小説になりテレビに
登場すれば良いのにと幻想を抱くのは私だけだろ
か?藤九郎まんじゆう。八風藤九郎なるお菓子や
名物が出来れば良いなと時に幻想を抱く私である。
城好きの信長。馬好きの信長。布施藤九郎の築城
術をみれば信長が藤九郎を自分の馬廻り親衛隊と
して採用した事は充分にうなずける内容の城跡だ。
喰い違い虎口。連続竪堀。土塁囲みの郭配置の妙
外郭やお馬屋敷大土塁の存在どれをとっても、彼
布施藤九郎の縄張り技術は当時の最高レベルとも
言える技巧を示している。才能を第一とする信長
よもや東近江大森の布施籐九郎を見落とさない事
だろう。布施藤九郎が様々な城郭技巧や知識を持
ちえた事は八風街道を行きかう商人や武士からも
全国の築城技法を耳学問する機会に恵まれた事で
あろう。