伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

戦没者追悼式の言葉が心をうちます

2015年11月05日 | 平和・戦争
 8日付けの日本共産党議員だよりの記事です。戦没者慰霊祭の遺族代表が「永久に戦争の放棄を」を訴えた心に響く訴えがありました。



『永久に戦争の放棄を」
戦没者追悼式・遺族代表の追悼の言葉に心を打たれました


 10月15日に平成27年度いわき市戦没者追悼式が開かれました。遺族方々や来賓等530名が出席され、遺族を代表が追悼の辞を述べました。戦没されたお父様に、そして残された家族に向けた深い思いに心を打たれました。承諾をいただきましたので紹介いたします。なお、句読点や段落等一部整理をさせていただきました。
 
 追悼のことば

 本日いわき市戦没者追悼式が挙行されるにあたり、謹んで亡き戦没者の御霊に追悼の言葉を捧げたいと思います。

 戦後も遠くなりにけり、今年は戦後七十年、夫を戦地に送り出した妻も皆九十五、六歳を迎えたのではないでしょうか。

 私が五歳の時でした。祖母が一枚の赤紙を手に、「何で家の一人息子なの」と、居間にひざまずいて号泣していた姿を、今でも忘れることができません。

 子供心に何か大変な事が起こったということは、その場の雰囲気で、空気で読み取れました。しかしその一枚の赤紙が、どんなことを意味するのかは知る由もありませんでした。

 それが父の運命を左右する召集令状であったことを知ったのは、ずっと後のことです。家の中には人が徐々に集まり、重苦しい空気が立ちこめていた事を、後で母から聞かされました。母は驚きのあまり、どうして良いか分からず、ただウロウロするだけだったと言っていました。

 そして迎えた出征の時、私は人一倍可愛がられて育った父の手を離さず、泣きじゃくっていた様です。

 それからが商売をしていた家業を守り抜く事から、母の苦労は始まりました。寝食を忘れて義父母に仕え、二人の子供の為、そして無事帰ってくるであろう夫の為にと頑張ってきた姿はつい、昨日の事のようです。

 戦後七十年という言葉は、私にとって、もう七十年、まだ七十年としか思われません。

 そして戦死の公報が入ったのは、私が小学三年生の時でした。生涯、こんな悲しげな母の姿を見たことはありません。

 何で国と国とが憎しみ合って武器を持って戦い合わなければならないのかと、私が小学三年の時に思った偽らざる思いです。母を悲しみから救ってあげるのにどんな事をすれば良いのかそんな事も一生懸命考えていました。

 母のお蔭で父の居ないという事を感じることなく、何不自由なく育ちました。

 しかし、今だに戦争という言葉さえ身体が受け付けない自分がいます。今こうしている間も、どこかで戦い合っているのかと思うといたたまれません。
集団的自衛権も容認され、いずれは戦争に備えての準備かとさえ思ってしまいます。

 昭和二十年七月十日父は中支において戦死しました。終戦のわずか一か月前のことです。あと一か月生き長らえていたらと思うと、悔しくて、悔しくて、仕方がありません。

 幸い、私は小学校入学前でしたが、戦地の父との手紙のやり取りをする事が出来、父に抱かれたぬくもりも、可愛がられた事も、ほんの少しですが憶えています。

 しかし、妹は父の顔を写真でしか知らずに育ちました。

 戦争を知る世代も少なくなった今、今日の平和国家日本があるのは、お国の命令で容赦なく戦争にかり出され、無念の死を遂げた、多くの方々の犠牲の上に成り立っていることを、私達は決して忘れません、

 皆様の辛酸をなめた死を決して無駄にはいたしません。

 夫を二十七歳の若さで失い、いかなる逆境にもめげずに、強くたくましく生きてきた母も昨年十月、九十才の生涯を閉じました。母の一生って何だったんだろう。楽しいと思って生活した事があったのかしらと、ふと思ってしまいます。

 悲惨な戦争のあった事を風化させてはならないと、声を大にして叫び、我が国の自由を守り世界のために力を尽くし、御意志にお応えする事を誓います。

 今までに多くの母親たちが流した数限りない涙を思い浮かべ「永久に戦争の放棄を」その思いだけです。

 戦没者の皆様どうぞ安らかにお眠りください。

 平成二十七年十月十五日
いわき市戦没者遺族代表




最新の画像もっと見る

コメントを投稿