市長の年頭所感が発表された。
2020(令和2)年に、本市としてどのように市政展開をするのか、その方向性を示す文書だ。市長の新年に向けた意気込みが問われる所感でもある。
にもかかわらず、一読して何の感慨もわいてこない。基本的にこれまでの事業が文面に踊っているだけにしか見えない。いや、踊っていればまだいいか、従前の事業がただ文面に納まっているに過ぎないと感じてしまうのだ。
なぜなのだろう。
所感の最後に「結びに」という項があった。昨年の台風第19号と10月25日の豪雨災害を受けて次のようなことが記されていた。
「歴史を振り返りますと、本市はこれまでも、困難な局面を迎えるたびに、その都度、市民の英知と努力により力づくよ立ち上がってまいりました。」
「多くの先人の手で大切に守られてきた「ふるさと・いわき」を、しっかりと未来につないでいくことが、今を生きる私たちの大事な使命と考えます。」
ここだけ読むと、さあ、市民のみなさん立ち上がれと、勇ましく呼びかけている印象を受ける。しかし、肝心の本文に、この勇ましさを裏付けるような勢いを感じることができないのだ。なるほどここに違和感を覚えたのか。納得をした
昨年の台風第19号等による災害は、東日本大震災に次ぐ大規模な災害だった。年を明けても避難所生活を送る人もいる。その現状の中で、所感に並べられた今年度の方向性を示す事業から、災害からの復旧や復興に立ち向かう具体的な展望が見えてこないばかりか、結びにいう「未来につなぐ『いわき新時代』」の姿もはっきりと見えてこないのだ。
所感を振り返ってみよう。
「はじめに」では、「災害からの復旧は道半ば」で、「本格的な復興に向けて歩みだす年頭にあたり」「私の決意と所信の一端を述べさせていただきます」としている。そして、次の「災害からの復旧」の項で復旧の状況について説明し、こう決意を述べる。
「災害からの復旧にあたりましては、発災前よりもさらに強靭な防災・減災の仕組みが必要不可欠であり、単なる復旧では、自然の持つ力に抗うことはできません。」
その通りなのだろう。以前、議員だよりで長野県の信玄堤(霞堤)にふれながら、堤防で水を閉じ込めるという発想に加え、水を受け流すあるいは逃がす、そんな仕組みづくりが必要だろうという考えを書いた。
市長としては、どんな方策を考えているのだろうか。所感では、「昨年末に設置した検証委員会での検証等を踏まえながら、ハード・ソフトの両面において、将来にわたって災害に強い、安全・安心なふるさと・いわきを築いていけるよう、全力で傾注してまいります」とだけある。要するに方策は先送りなのだ。
過去のことを考えるなら、4月に大きな水害が襲った事例もある。冬季は大丈夫なのかもしれない。しかし、春になったら、再び災害が発生しやすい条件が整ってくるのだ。その時にこの状況で対応できるのだろうか。
確かに専門家の意見も大事だし、将来により良いものが出来上がることは、それはそれで良い。しかし、昨今の状況を考えるならば、現在起こりうる災害への対策を進めながら、並行して将来の対策を準備するという姿勢を明確に打ち出すことが、被災したばかりの市民に安心感をもたらすのではないだろうか。
現実には県が、今回の災害で決壊した堤防は6月までに復旧する作業をすすめるとしていると報道で読んだ。また、農業や林業施設等については国の査定を受けながら復旧作業に向けた準備がすすめられている。特に被災者にとは、生活に直結する前者に関する関心は高いものと思う。なぜなら、戻って大丈夫なのかという不安感は常にあるだろうから。
であるならば、河川は県の所管だからという発想からこの問題等に触れないのではなく、災害からの復旧に関する一定の考えを指し示すことが、年頭所感には求められたのではないか。そんな思いがある。復旧は、もとと同じ機能を回復させるだけだ。同じ規模の豪雨等には災害の発生の不安が残る。耐えられるようにするために、復旧に上積みする復興の部分を、どう市として考えていくのかに触れてほしいと思うのは、私だけではないだろう。
肝心の災害対応での本気度が伝わってこないために、後に続く「今後の市政運営」がまた、心に響いてこない。
新たなまちづくりの指針とする「市総合計画の見直し」「創生総合戦略」「教育大綱の改定」を三本の矢として、中長期を見据えた本市のまちづくりの礎となる仕組みを、「市民の皆様と創り上げてまいります」としながら、3つのことに取り組むという。
一つは、いわき震災伝承みらい館のオープンなど復興の総仕上げ、二つにオリンピックやパラリンピック、また本市に誘致される各種スポーツ大会等を本市の未来につなげる、また、三つ目に体制の整備などで健康長寿の実現をめざす取り組みを重点にすすめ、「いわき新時代」を想像するというのだが、ここに散りばめられた事業はほとんどが継続の事業のようだ。
例えば復興を言うなら、いま、最大の懸案は原発事故に伴うトリチウム水の処分の問題ではないだろうか。未だ本格操業に入れていない漁業の復興と大いに関係の深い課題だ。国・規制庁は、その処分について海洋放出、大気放出、そして海洋放出と大気放出の3つの選択肢を現実的な処分方法の候補として絞り込もうとしている。一方、風評被害に通じるとして漁業者は陸上保管を求めている。こうした膠着した状況は、今のままでは変わることはないのだろう。
私は市議会の原子力災害関係の特別委員会の委員になった時に、事故前の東京電力福島第一原子力発電所は、管理上の基準値が22兆ベクレルで、現実には海洋及び大気に合わせて年間4兆ベクレルのトリチウムが放出されてきたことを確認しました。この現実と、稼働する原発からは各種放射性物質が基準値内で放出されていることを踏まえるから、国や東東電はトリチウムの放出に問題がないとうい立場をとっているわけです。であるならば、これらの事実を国及び東電が国民に向かって繰り返し説明しトリチウムと安全に関する理解を広げることがトリチウム放出の前提を作ることになる。当然会議の場ではそのように求めた。
市民には多様な意見があるだろうから、それと同じ立場を市がとれとは言いにくい面はある。しかし、トリチウム水の問題が解決しないと廃炉の作業に支障が生じるという問題を踏まえた時、この問題解決に市としてどう臨むのかの表明することが必要だろう。残念ながら、市長の書簡はこうした重要な問題に触れることすらしていないのだ。
また、「共創のまちづくり」をさらに一歩すすめるとして、「地域人材の育成・ひとづくり」「地域価値の向上・まちづくり」そして「地域産業の振興・しごとづくり」の3つの取り組みをあげる。これにしても新しい事業としては、外国人増加と法律の改正に伴い多文化共生社会の実現に向けた「連絡協議会」の設置等があるだけで、基本的には、これまでの事業を列挙しているにすぎず、今一つ説得力に欠ける感がある。
こうした、どこか説得力に欠ける「いわき新時代」の取り組みを受けて、最後の「結びに」で、いきなり、「歴史を振り返りますと、本市はこれまでも、困難な局面を迎えるたびに、その都度、市民の英知と努力により力強く立ち上がってまいりました」、あるいは、「多くの先人の手で大切に守られてきた『ふるさと・いわき』を、しっかりと未来につないでいくことが、今を生きる私たちの大事な使命」などと、市民よ立ち上がれのメッセージを突き付けられるのだ。この印象の較差は大きい。今一つ気乗りがしないのは、こんなところに原因がありそうだ。
所感はこう結ばれる。
「今後も本市を襲うかもしれない様々な災害を、未然に防ぐ『防災』、被害を抑える『減災』、みんなの力を結集し被災を克服していく『克災』という3つの視点で危機感管理能力を高め、『祭儀青を克服する力強いまち・いわき』、そして、未来につなぐ『いわき新時代』を、市民の皆様と共に創ってまいりたいと考えております。」
今年の年頭所感で大切なことは、ここでいう「防災」「減災」「克災」のより鮮明な取り組みを示し、そこに向けてみんなで頑張ろうと呼びかけることだったのではないだろうか。その具体性の上にこそ、「いわき新時代」が見えてくるのではないか。そんな気がしてしょうがない。
2020(令和2)年に、本市としてどのように市政展開をするのか、その方向性を示す文書だ。市長の新年に向けた意気込みが問われる所感でもある。
にもかかわらず、一読して何の感慨もわいてこない。基本的にこれまでの事業が文面に踊っているだけにしか見えない。いや、踊っていればまだいいか、従前の事業がただ文面に納まっているに過ぎないと感じてしまうのだ。
市民のつどいで年頭のあいさつをする清水市長
なぜなのだろう。
所感の最後に「結びに」という項があった。昨年の台風第19号と10月25日の豪雨災害を受けて次のようなことが記されていた。
「歴史を振り返りますと、本市はこれまでも、困難な局面を迎えるたびに、その都度、市民の英知と努力により力づくよ立ち上がってまいりました。」
「多くの先人の手で大切に守られてきた「ふるさと・いわき」を、しっかりと未来につないでいくことが、今を生きる私たちの大事な使命と考えます。」
ここだけ読むと、さあ、市民のみなさん立ち上がれと、勇ましく呼びかけている印象を受ける。しかし、肝心の本文に、この勇ましさを裏付けるような勢いを感じることができないのだ。なるほどここに違和感を覚えたのか。納得をした
昨年の台風第19号等による災害は、東日本大震災に次ぐ大規模な災害だった。年を明けても避難所生活を送る人もいる。その現状の中で、所感に並べられた今年度の方向性を示す事業から、災害からの復旧や復興に立ち向かう具体的な展望が見えてこないばかりか、結びにいう「未来につなぐ『いわき新時代』」の姿もはっきりと見えてこないのだ。
所感を振り返ってみよう。
「はじめに」では、「災害からの復旧は道半ば」で、「本格的な復興に向けて歩みだす年頭にあたり」「私の決意と所信の一端を述べさせていただきます」としている。そして、次の「災害からの復旧」の項で復旧の状況について説明し、こう決意を述べる。
「災害からの復旧にあたりましては、発災前よりもさらに強靭な防災・減災の仕組みが必要不可欠であり、単なる復旧では、自然の持つ力に抗うことはできません。」
その通りなのだろう。以前、議員だよりで長野県の信玄堤(霞堤)にふれながら、堤防で水を閉じ込めるという発想に加え、水を受け流すあるいは逃がす、そんな仕組みづくりが必要だろうという考えを書いた。
市長としては、どんな方策を考えているのだろうか。所感では、「昨年末に設置した検証委員会での検証等を踏まえながら、ハード・ソフトの両面において、将来にわたって災害に強い、安全・安心なふるさと・いわきを築いていけるよう、全力で傾注してまいります」とだけある。要するに方策は先送りなのだ。
過去のことを考えるなら、4月に大きな水害が襲った事例もある。冬季は大丈夫なのかもしれない。しかし、春になったら、再び災害が発生しやすい条件が整ってくるのだ。その時にこの状況で対応できるのだろうか。
確かに専門家の意見も大事だし、将来により良いものが出来上がることは、それはそれで良い。しかし、昨今の状況を考えるならば、現在起こりうる災害への対策を進めながら、並行して将来の対策を準備するという姿勢を明確に打ち出すことが、被災したばかりの市民に安心感をもたらすのではないだろうか。
現実には県が、今回の災害で決壊した堤防は6月までに復旧する作業をすすめるとしていると報道で読んだ。また、農業や林業施設等については国の査定を受けながら復旧作業に向けた準備がすすめられている。特に被災者にとは、生活に直結する前者に関する関心は高いものと思う。なぜなら、戻って大丈夫なのかという不安感は常にあるだろうから。
であるならば、河川は県の所管だからという発想からこの問題等に触れないのではなく、災害からの復旧に関する一定の考えを指し示すことが、年頭所感には求められたのではないか。そんな思いがある。復旧は、もとと同じ機能を回復させるだけだ。同じ規模の豪雨等には災害の発生の不安が残る。耐えられるようにするために、復旧に上積みする復興の部分を、どう市として考えていくのかに触れてほしいと思うのは、私だけではないだろう。
肝心の災害対応での本気度が伝わってこないために、後に続く「今後の市政運営」がまた、心に響いてこない。
新たなまちづくりの指針とする「市総合計画の見直し」「創生総合戦略」「教育大綱の改定」を三本の矢として、中長期を見据えた本市のまちづくりの礎となる仕組みを、「市民の皆様と創り上げてまいります」としながら、3つのことに取り組むという。
一つは、いわき震災伝承みらい館のオープンなど復興の総仕上げ、二つにオリンピックやパラリンピック、また本市に誘致される各種スポーツ大会等を本市の未来につなげる、また、三つ目に体制の整備などで健康長寿の実現をめざす取り組みを重点にすすめ、「いわき新時代」を想像するというのだが、ここに散りばめられた事業はほとんどが継続の事業のようだ。
例えば復興を言うなら、いま、最大の懸案は原発事故に伴うトリチウム水の処分の問題ではないだろうか。未だ本格操業に入れていない漁業の復興と大いに関係の深い課題だ。国・規制庁は、その処分について海洋放出、大気放出、そして海洋放出と大気放出の3つの選択肢を現実的な処分方法の候補として絞り込もうとしている。一方、風評被害に通じるとして漁業者は陸上保管を求めている。こうした膠着した状況は、今のままでは変わることはないのだろう。
私は市議会の原子力災害関係の特別委員会の委員になった時に、事故前の東京電力福島第一原子力発電所は、管理上の基準値が22兆ベクレルで、現実には海洋及び大気に合わせて年間4兆ベクレルのトリチウムが放出されてきたことを確認しました。この現実と、稼働する原発からは各種放射性物質が基準値内で放出されていることを踏まえるから、国や東東電はトリチウムの放出に問題がないとうい立場をとっているわけです。であるならば、これらの事実を国及び東電が国民に向かって繰り返し説明しトリチウムと安全に関する理解を広げることがトリチウム放出の前提を作ることになる。当然会議の場ではそのように求めた。
市民には多様な意見があるだろうから、それと同じ立場を市がとれとは言いにくい面はある。しかし、トリチウム水の問題が解決しないと廃炉の作業に支障が生じるという問題を踏まえた時、この問題解決に市としてどう臨むのかの表明することが必要だろう。残念ながら、市長の書簡はこうした重要な問題に触れることすらしていないのだ。
また、「共創のまちづくり」をさらに一歩すすめるとして、「地域人材の育成・ひとづくり」「地域価値の向上・まちづくり」そして「地域産業の振興・しごとづくり」の3つの取り組みをあげる。これにしても新しい事業としては、外国人増加と法律の改正に伴い多文化共生社会の実現に向けた「連絡協議会」の設置等があるだけで、基本的には、これまでの事業を列挙しているにすぎず、今一つ説得力に欠ける感がある。
こうした、どこか説得力に欠ける「いわき新時代」の取り組みを受けて、最後の「結びに」で、いきなり、「歴史を振り返りますと、本市はこれまでも、困難な局面を迎えるたびに、その都度、市民の英知と努力により力強く立ち上がってまいりました」、あるいは、「多くの先人の手で大切に守られてきた『ふるさと・いわき』を、しっかりと未来につないでいくことが、今を生きる私たちの大事な使命」などと、市民よ立ち上がれのメッセージを突き付けられるのだ。この印象の較差は大きい。今一つ気乗りがしないのは、こんなところに原因がありそうだ。
所感はこう結ばれる。
「今後も本市を襲うかもしれない様々な災害を、未然に防ぐ『防災』、被害を抑える『減災』、みんなの力を結集し被災を克服していく『克災』という3つの視点で危機感管理能力を高め、『祭儀青を克服する力強いまち・いわき』、そして、未来につなぐ『いわき新時代』を、市民の皆様と共に創ってまいりたいと考えております。」
今年の年頭所感で大切なことは、ここでいう「防災」「減災」「克災」のより鮮明な取り組みを示し、そこに向けてみんなで頑張ろうと呼びかけることだったのではないだろうか。その具体性の上にこそ、「いわき新時代」が見えてくるのではないか。そんな気がしてしょうがない。
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