いわき市議会11月定例会は、13日に閉会しました。今度の議会には68議案が提案され、65議案が全会一致、3議案が賛成多数で可決されました。日本共産党市議団は、市営住宅や共同施設、特別市営住宅の管理・運営に指定管理者を指定するための2議案といわき市部設置条例を改定する議案、合計3件の議案に反対し討論しました。
指定管理者にかかわる2議案については、指定管理者移行にともなって、市営住宅申し込みの窓口が5ヶ所から2ヶ所に減少し、市民サービスの削減になりかねないことなどの問題点があることが理由です。
部設置条例は、行政経営部の事務分掌に総合教育会議を位置づけることが含まれています。反対の理由はここにありました。
総合教育会議は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律」で教育制度が改定されたことにともない設置されることになりました。
この法律で変わったことの一つが、教育委員長と教育長を統合して新たな教育長とし、この新教育長を教育委員会の責任者として首長が任命するなどの教育委員会制度の改革でした。もう一つが首長が主催し、首長と教育委員を構成メンバーとする総合教育会議の設置です。
もともと第二次世界大戦後の日本は、戦前の修身教育を中心とした教育によって侵略戦争を推進した反省から、教育を行政から独立してすすめることにし、新たに設置した公選制の教育委員会を教育行政の担い手としました。
当初公選制だった教育委員は、地方議会の同意を経て首長が任命する方式に変えられました。しかし、教育委員長も、教育長も、選ばれた委員の互選によって選出する形にされており、最低限の独立性は担保されていました。
ところが、今回の制度改定は、教育委員長と教育長を統合して教育委員会の責任者を新しい教育長とし、その新教育長は議会の同意を前提に首長が任命することにしました。現時点では歯止めがかけられていますが、仕組みそのものは、人事を通じて教育に首長が直接影響を及ぼすことができるようになったのです。
同時に、首長が主催し、首長と教育委員を構成メンバーとする総合教育会議を設置することにしました。この会議では、首長に策定を義務付けた教育大綱について審議することなどを義務付けました。大綱の内容は、文科省が発した文書では教育施設の整備などが例示され、教育の中身そのものには踏み込まないことにされています。しかし、一編の通知による歯止めだけに将来もこの通りになる保証はありません。これも将来的に、教育内容に行政が介入できる仕組みの一つになりかねません。
こういう仕組みを導入することそのもに問題があると考えたため、いわき市部設置条例の改訂案には反対し討論したわけですが、反対する討論があれば、賛成する討論があるのが世の常です。実際、市長を支援した自民党市議らの会派から賛成討論がありました。
実はこの賛成討論に悔しい部分があったのです。
賛成討論では、先の総合教育会議にあげた懸念の指摘を「戦前に戻るという極端な懸念」と切って捨て、先の大戦以降戦争していない日本にとって「二度と戦争をしないという思いは普遍的な価値観」だとした上で、「教育に市長が排除されているのは違和感がある。市長と教育委員会の連携を強めるべきだ」というのです。
反対討論への反論であることはもちろんですが、私の質問の趣旨に対する反論のようにも聞こえました。でも、これに反論する機会は議会の公式日程にはもうありません。言われっぱなしで終わってしまった。これが悔しい思いの根っこでした。
先の討論の要旨は、気にかかる点を簡単にメモで残しただけで、論旨全体を正確に反映していないかもしれません。しかし、“そんなに言うなら自分が所属する自民党の総裁、安倍晋三氏を何とかしてからいってよ”と突っ込みたくもなります。
「戦前に戻る極端な懸念」(“極端な”が余計ですが)の根っこにあるのは、自民党の改憲草案にあります。日本が公式に軍隊を持って、軍事力で国際紛争に対処できるようにする。そして軍法会議を設置して、有事の際には人権の制限までうたっている。今の「日本国憲法」を改定するというより、新しい憲法にしてしまうという印象がある改憲草案です。
こんな調子の改憲草案をそのままにして「戦前に戻る懸念」、すなわち戦争をする日本、できる日本への懸念を「極端な懸念」と異端扱いするのはどうかしています。
そして「二度と戦争をしないという思いは普遍的な価値」はその通りです。だからこそ日本国民は、現在の「日本国憲法」を大事にするのであり、これまでこの憲法を変えようという動きがあるたびに、それに反対する声を高め、その動きを阻止してきたのです。そう考えれば、戦争する国で、できる国づくりをすすめる改憲草案を掲げ、明文改憲を主張する自民党は、「普遍的な価値」をかなぐりすてようとしているとしか考えられません。「普遍的な価値」を大切にするなら、その改憲草案を投げ捨て、まずもって現在の憲法にもとづき正しく行動するよう、自民党本部・安倍首相に求めることが必用だと思います。
それでなくても、この間、安倍内閣のもとで戦争する国づくりが推し進められてきました。昨年12月の国家安全保障会議の設置と秘密保護法の制定(去る12月10日施行)、そして今年7月の集団的自衛権行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定。これに加えてオスプレイや強襲揚陸艦、水陸両用車の増強(いずれも上陸作戦で威力を発揮しそう)を盛り込んだ新しい中期防衛力整備計画、そして海外での共同軍事行動に向けての日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しなど、矢継ぎ早にすすめられています。
そして国民にその意義を理解させるために教育にも手をつけなくてはならない。そこで教育面でも準備がすすめられてきました。第一次安倍内閣の教育基本法改定は、ナショナリズム的な愛国心教育に道を開く者であると同時に、戦後の民主教育をになった教育委員会を骨抜きにし、首長や国家が教育に口出しできるようにする延長上に、今回の教育委員会制度の改革と総合教育会議の設置があると考えることが自然です。
だいたい集団的自衛権の行使容認の閣議決定は、立憲主義に反するもの、すなわち憲法に違反する行為だという批判が、憲法の専門家の中に広くあります。歴代の自民党幹事長が、次々と安倍内閣を批判したのもそのためです。
そもそも国家が国民に義務付けなどをする一般の法律と違って、国家の横暴・独走を許さないために国民が国家を縛り付けるための法律が憲法です。今回の集団的自衛権の行使は、歴代内閣が日本国憲法のもとではできないとされてきたものを、一内閣の判断で全く逆の解釈に置き換えたものでした。本来、内閣の規範として擁護すべき憲法を、自分たちの都合の良い解釈で自分たちの行動を合理化する道具にしてしまったわけです。
こういう横暴の限りをつくす安倍内閣ですもの、今回の総合教育会議だって、将来どうなるかわからないぞ、と“想像の翼”を広げ、転ばぬ先の杖で国民を誤った方向に導かないよう歯止めをかけておくことこそ必用でしょう。
賛成討論で「戦前に戻る極端な懸念」と言っている自民党の議員のみなさんに重ねてお願いしたいと思います。そのような反論を試みる前に、まず自民党・安倍内閣の横暴政治をやめさせるための党内改革を図ったいただきたい。心から希望します。
指定管理者にかかわる2議案については、指定管理者移行にともなって、市営住宅申し込みの窓口が5ヶ所から2ヶ所に減少し、市民サービスの削減になりかねないことなどの問題点があることが理由です。
部設置条例は、行政経営部の事務分掌に総合教育会議を位置づけることが含まれています。反対の理由はここにありました。
総合教育会議は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律」で教育制度が改定されたことにともない設置されることになりました。
この法律で変わったことの一つが、教育委員長と教育長を統合して新たな教育長とし、この新教育長を教育委員会の責任者として首長が任命するなどの教育委員会制度の改革でした。もう一つが首長が主催し、首長と教育委員を構成メンバーとする総合教育会議の設置です。
もともと第二次世界大戦後の日本は、戦前の修身教育を中心とした教育によって侵略戦争を推進した反省から、教育を行政から独立してすすめることにし、新たに設置した公選制の教育委員会を教育行政の担い手としました。
当初公選制だった教育委員は、地方議会の同意を経て首長が任命する方式に変えられました。しかし、教育委員長も、教育長も、選ばれた委員の互選によって選出する形にされており、最低限の独立性は担保されていました。
ところが、今回の制度改定は、教育委員長と教育長を統合して教育委員会の責任者を新しい教育長とし、その新教育長は議会の同意を前提に首長が任命することにしました。現時点では歯止めがかけられていますが、仕組みそのものは、人事を通じて教育に首長が直接影響を及ぼすことができるようになったのです。
同時に、首長が主催し、首長と教育委員を構成メンバーとする総合教育会議を設置することにしました。この会議では、首長に策定を義務付けた教育大綱について審議することなどを義務付けました。大綱の内容は、文科省が発した文書では教育施設の整備などが例示され、教育の中身そのものには踏み込まないことにされています。しかし、一編の通知による歯止めだけに将来もこの通りになる保証はありません。これも将来的に、教育内容に行政が介入できる仕組みの一つになりかねません。
こういう仕組みを導入することそのもに問題があると考えたため、いわき市部設置条例の改訂案には反対し討論したわけですが、反対する討論があれば、賛成する討論があるのが世の常です。実際、市長を支援した自民党市議らの会派から賛成討論がありました。
実はこの賛成討論に悔しい部分があったのです。
賛成討論では、先の総合教育会議にあげた懸念の指摘を「戦前に戻るという極端な懸念」と切って捨て、先の大戦以降戦争していない日本にとって「二度と戦争をしないという思いは普遍的な価値観」だとした上で、「教育に市長が排除されているのは違和感がある。市長と教育委員会の連携を強めるべきだ」というのです。
反対討論への反論であることはもちろんですが、私の質問の趣旨に対する反論のようにも聞こえました。でも、これに反論する機会は議会の公式日程にはもうありません。言われっぱなしで終わってしまった。これが悔しい思いの根っこでした。
先の討論の要旨は、気にかかる点を簡単にメモで残しただけで、論旨全体を正確に反映していないかもしれません。しかし、“そんなに言うなら自分が所属する自民党の総裁、安倍晋三氏を何とかしてからいってよ”と突っ込みたくもなります。
「戦前に戻る極端な懸念」(“極端な”が余計ですが)の根っこにあるのは、自民党の改憲草案にあります。日本が公式に軍隊を持って、軍事力で国際紛争に対処できるようにする。そして軍法会議を設置して、有事の際には人権の制限までうたっている。今の「日本国憲法」を改定するというより、新しい憲法にしてしまうという印象がある改憲草案です。
こんな調子の改憲草案をそのままにして「戦前に戻る懸念」、すなわち戦争をする日本、できる日本への懸念を「極端な懸念」と異端扱いするのはどうかしています。
そして「二度と戦争をしないという思いは普遍的な価値」はその通りです。だからこそ日本国民は、現在の「日本国憲法」を大事にするのであり、これまでこの憲法を変えようという動きがあるたびに、それに反対する声を高め、その動きを阻止してきたのです。そう考えれば、戦争する国で、できる国づくりをすすめる改憲草案を掲げ、明文改憲を主張する自民党は、「普遍的な価値」をかなぐりすてようとしているとしか考えられません。「普遍的な価値」を大切にするなら、その改憲草案を投げ捨て、まずもって現在の憲法にもとづき正しく行動するよう、自民党本部・安倍首相に求めることが必用だと思います。
それでなくても、この間、安倍内閣のもとで戦争する国づくりが推し進められてきました。昨年12月の国家安全保障会議の設置と秘密保護法の制定(去る12月10日施行)、そして今年7月の集団的自衛権行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定。これに加えてオスプレイや強襲揚陸艦、水陸両用車の増強(いずれも上陸作戦で威力を発揮しそう)を盛り込んだ新しい中期防衛力整備計画、そして海外での共同軍事行動に向けての日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しなど、矢継ぎ早にすすめられています。
そして国民にその意義を理解させるために教育にも手をつけなくてはならない。そこで教育面でも準備がすすめられてきました。第一次安倍内閣の教育基本法改定は、ナショナリズム的な愛国心教育に道を開く者であると同時に、戦後の民主教育をになった教育委員会を骨抜きにし、首長や国家が教育に口出しできるようにする延長上に、今回の教育委員会制度の改革と総合教育会議の設置があると考えることが自然です。
だいたい集団的自衛権の行使容認の閣議決定は、立憲主義に反するもの、すなわち憲法に違反する行為だという批判が、憲法の専門家の中に広くあります。歴代の自民党幹事長が、次々と安倍内閣を批判したのもそのためです。
そもそも国家が国民に義務付けなどをする一般の法律と違って、国家の横暴・独走を許さないために国民が国家を縛り付けるための法律が憲法です。今回の集団的自衛権の行使は、歴代内閣が日本国憲法のもとではできないとされてきたものを、一内閣の判断で全く逆の解釈に置き換えたものでした。本来、内閣の規範として擁護すべき憲法を、自分たちの都合の良い解釈で自分たちの行動を合理化する道具にしてしまったわけです。
こういう横暴の限りをつくす安倍内閣ですもの、今回の総合教育会議だって、将来どうなるかわからないぞ、と“想像の翼”を広げ、転ばぬ先の杖で国民を誤った方向に導かないよう歯止めをかけておくことこそ必用でしょう。
賛成討論で「戦前に戻る極端な懸念」と言っている自民党の議員のみなさんに重ねてお願いしたいと思います。そのような反論を試みる前に、まず自民党・安倍内閣の横暴政治をやめさせるための党内改革を図ったいただきたい。心から希望します。
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