やっぱりきたか。そんな気がしました。
本日の定例会本会議の一般質問で志帥会(自民系)所属の議員の1人が「教育施策について」として「道徳教育」を取り上げました。
この問題は昨年11月定例会の一般質問で私が取り上げた問題。中教審が道徳教育を正規の教科とするよう答申したことを受けて、国定の道徳教育となる恐れがあると考える立場から、戦前の修身教育(道徳教育を含む)を引きながら質問をしたんですよね。まあ、こちらが批判的に取り上げているので、それに反論的な質問があってもおかしくはないのですが・・。
こちらが私の質問の内容⇒ http://blog.goo.ne.jp/hiroyuki19601121/e/2aa75a57709e296a1533e34f96e52e65
この議員の質問の前段でこんな発言をしました。
「道徳教育を、戦前に結びつけて紋切り型に批判する向きがあるが、それは違う」
反発を感じたのは「紋切り型」という表現だと思います。これは違うな―という感じ。
安倍首相がすすめようとする国づくりは、集団的自衛権のもとにアメリカの戦争に積極的にかかわっていこうとする方向。そしてその方向は、自主憲法制定を叫んで自衛隊をれっきとした軍隊に変えて、海外の戦争に派兵し、その兵員は軍事法廷で裁き、また有事の国家運営を支えるために人権の制限などを内容とする、自民党の改憲案を具現化する流れの中にあることは明らか。
こうした自民党政治の流れをベースにして、様々な動きが作られてきました。
武器輸出を禁じた武器輸出三原則を防衛装備移転三原則に変えて、兵器の輸出をできるようにしました。そして自衛隊の文民統制を弱める防衛省設置法12条の文官統制を削除して、制服組の権限を強めようとしています。集団的自衛権行使に必要な法整備はいっせい地方選挙後に国会に提出すると言われています。
また昨年の総選挙後、「憲法改正」の必要性を強調しだし、現在開会中の国会の施政方針演説では憲法改正の議論を国民に呼びかけました。
教育分野を見ると、安倍内閣が関わったものだけでも、第一次安倍内閣のもとで「我が国と郷土を愛する態度を養う」という愛国心教育を打ち出して、国家・行政の教育への介入が可能となる内容に教育基本法を改めました。
そして、第二次安倍内閣以降では、教育委員会の責任者を教育長として首長の任命制(これまでは教育委員会内の互選)にし、教育委員と首長による総合教育会議を設置し、加えて教育大綱策定を首長に義務付けるなどの教育「改革」に手をつけました。すぐにその影響は出ないと思いますが、国家の教育介入の仕組みが作られ、時間の経過とともに、国家の教育への介入が強まってくる懸念は拭い去ません。
そしてこれは戦前の歴史で日本が歩んできた道とそっくりであることは、前の議会で紹介しています。
こうした事実を関連付けて複眼的に見ることなくして政治を語ることはできないと思うんです。「紋切り型」という批判は、いわば単眼的批判であり、「木を見て森をみない」議論という気がして仕方がありません。
私は道徳を否定するわけではないんです。必要ならばというか、実際すでに道徳教育は実施されているのですが、先生方が工夫する中で、その子ども達にふさわしい授業内容を考え、実施すれば良いと思うのです。現実そういう形で道徳教育は実施されています。もし、その内容が不十分だというなら、先生方の過重労働を改善し、十分授業内容を研究・検討できる時間を確保するために努力すべきと思うのです。
ただ子どもたちの一部が何か事件をおこした時、それをいわば利用して、安倍首相をはじめとした戦争できる国づくりをめざす人たち(戦前回帰派といって良いのかもしれない)が、道徳教育を言い出した時には眉につばをつけて、その内容をしっかり見極めることが必要だと思っているのです。
子ども達の置かれている状況には冷静に対応することが必要だと思います。
一頃、子ども達の犯罪が増えたと言われた時がありました。しかし実は増えているわけではなく、マスコミの報道が昔と違って大きく取り扱うようになり、そういう印象を与えているのだと指摘する専門家の話を聞いた時があります。決して昔より子ども達が悪くなっているということではないようなのです。
同時に、13歳の子どもが殺害された今度の事件で次々明らかになる事実は、子ども達の置かれている状況が複雑で、かつ、困難な状況にあることを教えてくれるように思います。
この少年たちの周りの大人たちから聞こえてくる声は、「気がついてやれてなくてごめん」「何もしてやれなくてごめん」という言葉でした。子ども達に当たり前の道徳観を持ってもらうことは必要です。一方で、これらの言葉はこれにとどめてはならないという警告を発しています。他の子どものかかわる事件も含めて、子どもの社会を取り巻く大人側の社会のあり様の改善を求めていると思えるのです。
人によって違いはあると思いますが、全体として、大人社会が子ども社会と隔絶して、子どもたちの社会に無関心、あるいは知ってはいても干渉を避けているかもしれない。それが「気づいてやれなくて・・」「何もしてやれなくて・・」の言葉にあらわれたいるようにも思えます。
こうした子どもの社会と大人の社会の断絶を改善していくことは、大人側からのアプローチが必要です。ただその時に、この大人の社会的な生活のあり方が問われなければなりません。
労働時間や賃金のあり方などを改善することで、大人の社会的な生活のあり方を改善することで、地域社会と子どもたちとの関係をもっと深めることが求められていると思います。その際に、他人との関わりを極力避けたほうが良いと考えが大人側にあると問題なので、仮にこの考えがあるならばその意識改革は必要になるでしょうが。
また、日本共産党は子どもの社会で起きている様々な問題を、単に子どもの関係や子どもの道徳観に求めるのではなくて、社会的な問題としてとらえ、国民的に議論することを提起してきました。
マスメディアを通じた情報の氾濫などが子どもの生活や価値観に影響を与えていることを考える時、その情報の内容と質のあり方を改善しなければ、子どもたちの考え方を変えることはできません。
他人をバカにしたり、小突いたり、人を人とも思わない文化の発信が子どもたちの思考に影響を与えていないか。視聴率が上がれば良い、売れれば良い、こんな大人社会の価値観が子どもの社会をねじ曲げていないのか。こうした観点での社会のあり方が問われているということです。私はもっとな提起だと感じています。
子どもたちの道徳を語る時、大人たちの道徳観が何よりも問題にある。ここを深く突っ込んでいけば、その道徳観を作り出した社会的なあり方が問題になる。そしてそこにはおそらく石川啄木のうたったこんな世界が浮かび上がってくるように思います。
はたらけど
はたらけど猶わが生活 樂にならざり
ぢつと手を見る
親が生きていく糧を得ることがやっとの状況が、子どもたちを見守る環境を壊しているかもしれないのです。
労働法の改悪で労働者を生活の上で追い込んでいくことが、子どもたちの社会をさらに厳しい環境に追い込んでいきかねない。そんな危機感を持つ事こそが、今、何よりも必要なように思います。
昨年12月定例会への異論。それを聞いて浮かんできたのがマルチン・ニーメラーの次の詩でした。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
あの時に声をあげなかったことが、将来の悔いとならなければ良いのですが。
ともあれ今回の志帥会議員の発言は、自分自身の考えを深めるきっかけになりました。この文章もあまり長くならないように、肩肘をはらずに読める柔らかい文体でと思って書き始めたのに、いつもと同じように長く、また硬い文体になってしまった。反省しきりですがおつきあいいただきありがとうございました。
PS
「大人の社会的な背5日」という表記がありましたが、「大人の社会的な生活」の誤変換でした。最初、自分でも意味が分からず迷ったのですが、前後の文脈から理解しました。本文は訂正しました。ご指摘ありがとうございます。
本日の定例会本会議の一般質問で志帥会(自民系)所属の議員の1人が「教育施策について」として「道徳教育」を取り上げました。
この問題は昨年11月定例会の一般質問で私が取り上げた問題。中教審が道徳教育を正規の教科とするよう答申したことを受けて、国定の道徳教育となる恐れがあると考える立場から、戦前の修身教育(道徳教育を含む)を引きながら質問をしたんですよね。まあ、こちらが批判的に取り上げているので、それに反論的な質問があってもおかしくはないのですが・・。
こちらが私の質問の内容⇒ http://blog.goo.ne.jp/hiroyuki19601121/e/2aa75a57709e296a1533e34f96e52e65
この議員の質問の前段でこんな発言をしました。
「道徳教育を、戦前に結びつけて紋切り型に批判する向きがあるが、それは違う」
反発を感じたのは「紋切り型」という表現だと思います。これは違うな―という感じ。
安倍首相がすすめようとする国づくりは、集団的自衛権のもとにアメリカの戦争に積極的にかかわっていこうとする方向。そしてその方向は、自主憲法制定を叫んで自衛隊をれっきとした軍隊に変えて、海外の戦争に派兵し、その兵員は軍事法廷で裁き、また有事の国家運営を支えるために人権の制限などを内容とする、自民党の改憲案を具現化する流れの中にあることは明らか。
こうした自民党政治の流れをベースにして、様々な動きが作られてきました。
武器輸出を禁じた武器輸出三原則を防衛装備移転三原則に変えて、兵器の輸出をできるようにしました。そして自衛隊の文民統制を弱める防衛省設置法12条の文官統制を削除して、制服組の権限を強めようとしています。集団的自衛権行使に必要な法整備はいっせい地方選挙後に国会に提出すると言われています。
また昨年の総選挙後、「憲法改正」の必要性を強調しだし、現在開会中の国会の施政方針演説では憲法改正の議論を国民に呼びかけました。
教育分野を見ると、安倍内閣が関わったものだけでも、第一次安倍内閣のもとで「我が国と郷土を愛する態度を養う」という愛国心教育を打ち出して、国家・行政の教育への介入が可能となる内容に教育基本法を改めました。
そして、第二次安倍内閣以降では、教育委員会の責任者を教育長として首長の任命制(これまでは教育委員会内の互選)にし、教育委員と首長による総合教育会議を設置し、加えて教育大綱策定を首長に義務付けるなどの教育「改革」に手をつけました。すぐにその影響は出ないと思いますが、国家の教育介入の仕組みが作られ、時間の経過とともに、国家の教育への介入が強まってくる懸念は拭い去ません。
そしてこれは戦前の歴史で日本が歩んできた道とそっくりであることは、前の議会で紹介しています。
こうした事実を関連付けて複眼的に見ることなくして政治を語ることはできないと思うんです。「紋切り型」という批判は、いわば単眼的批判であり、「木を見て森をみない」議論という気がして仕方がありません。
私は道徳を否定するわけではないんです。必要ならばというか、実際すでに道徳教育は実施されているのですが、先生方が工夫する中で、その子ども達にふさわしい授業内容を考え、実施すれば良いと思うのです。現実そういう形で道徳教育は実施されています。もし、その内容が不十分だというなら、先生方の過重労働を改善し、十分授業内容を研究・検討できる時間を確保するために努力すべきと思うのです。
ただ子どもたちの一部が何か事件をおこした時、それをいわば利用して、安倍首相をはじめとした戦争できる国づくりをめざす人たち(戦前回帰派といって良いのかもしれない)が、道徳教育を言い出した時には眉につばをつけて、その内容をしっかり見極めることが必要だと思っているのです。
子ども達の置かれている状況には冷静に対応することが必要だと思います。
一頃、子ども達の犯罪が増えたと言われた時がありました。しかし実は増えているわけではなく、マスコミの報道が昔と違って大きく取り扱うようになり、そういう印象を与えているのだと指摘する専門家の話を聞いた時があります。決して昔より子ども達が悪くなっているということではないようなのです。
同時に、13歳の子どもが殺害された今度の事件で次々明らかになる事実は、子ども達の置かれている状況が複雑で、かつ、困難な状況にあることを教えてくれるように思います。
この少年たちの周りの大人たちから聞こえてくる声は、「気がついてやれてなくてごめん」「何もしてやれなくてごめん」という言葉でした。子ども達に当たり前の道徳観を持ってもらうことは必要です。一方で、これらの言葉はこれにとどめてはならないという警告を発しています。他の子どものかかわる事件も含めて、子どもの社会を取り巻く大人側の社会のあり様の改善を求めていると思えるのです。
人によって違いはあると思いますが、全体として、大人社会が子ども社会と隔絶して、子どもたちの社会に無関心、あるいは知ってはいても干渉を避けているかもしれない。それが「気づいてやれなくて・・」「何もしてやれなくて・・」の言葉にあらわれたいるようにも思えます。
こうした子どもの社会と大人の社会の断絶を改善していくことは、大人側からのアプローチが必要です。ただその時に、この大人の社会的な生活のあり方が問われなければなりません。
労働時間や賃金のあり方などを改善することで、大人の社会的な生活のあり方を改善することで、地域社会と子どもたちとの関係をもっと深めることが求められていると思います。その際に、他人との関わりを極力避けたほうが良いと考えが大人側にあると問題なので、仮にこの考えがあるならばその意識改革は必要になるでしょうが。
また、日本共産党は子どもの社会で起きている様々な問題を、単に子どもの関係や子どもの道徳観に求めるのではなくて、社会的な問題としてとらえ、国民的に議論することを提起してきました。
マスメディアを通じた情報の氾濫などが子どもの生活や価値観に影響を与えていることを考える時、その情報の内容と質のあり方を改善しなければ、子どもたちの考え方を変えることはできません。
他人をバカにしたり、小突いたり、人を人とも思わない文化の発信が子どもたちの思考に影響を与えていないか。視聴率が上がれば良い、売れれば良い、こんな大人社会の価値観が子どもの社会をねじ曲げていないのか。こうした観点での社会のあり方が問われているということです。私はもっとな提起だと感じています。
子どもたちの道徳を語る時、大人たちの道徳観が何よりも問題にある。ここを深く突っ込んでいけば、その道徳観を作り出した社会的なあり方が問題になる。そしてそこにはおそらく石川啄木のうたったこんな世界が浮かび上がってくるように思います。
はたらけど
はたらけど猶わが生活 樂にならざり
ぢつと手を見る
親が生きていく糧を得ることがやっとの状況が、子どもたちを見守る環境を壊しているかもしれないのです。
労働法の改悪で労働者を生活の上で追い込んでいくことが、子どもたちの社会をさらに厳しい環境に追い込んでいきかねない。そんな危機感を持つ事こそが、今、何よりも必要なように思います。
昨年12月定例会への異論。それを聞いて浮かんできたのがマルチン・ニーメラーの次の詩でした。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
あの時に声をあげなかったことが、将来の悔いとならなければ良いのですが。
ともあれ今回の志帥会議員の発言は、自分自身の考えを深めるきっかけになりました。この文章もあまり長くならないように、肩肘をはらずに読める柔らかい文体でと思って書き始めたのに、いつもと同じように長く、また硬い文体になってしまった。反省しきりですがおつきあいいただきありがとうございました。
PS
「大人の社会的な背5日」という表記がありましたが、「大人の社会的な生活」の誤変換でした。最初、自分でも意味が分からず迷ったのですが、前後の文脈から理解しました。本文は訂正しました。ご指摘ありがとうございます。
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