一段落しました。
20日午後に肺炎による急性呼吸不全で81年の人生に幕を閉じた父の葬儀を24日に終え、きょうは今年4月7日に入所した特別養護老人ホームに残っていた荷物を運び出して片付けを基本的に終えました。
思い起こしてみれば父が急に老け込みだしたのは、東日本大震災と原発の事故の後のことだったと思います。原発事故によって海が汚染され、ほぼ唯一の趣味であった海釣りをすることがなくなりました。そのことが父から生きがいを奪い、元気を削ぎとっていったのだと思っています。
そうした矢先、昨年4月7日に脳溢血で倒れた父は、脳底の大きな血腫と左太もも関節部の骨折から幸いに回復することができました。しかし、左半身に麻痺が残り、急性期からリハビリ期の6ヶ月間を過ごした病院から老健施設に入所することになりました。
ところがその提携病院に入所前の検査入院をした際、環境変化が大きな要因と考えていますが、数日間で体調を崩し、結果的にここで6ヶ月間の入院生活を送ることになりました。
そして倒れてからちょうど1年目の4月7日に特養ホームに入所することができました。
ここで残りの人生を穏やかに過ごしてほしいと思っていました。
しかし12日後のことでした。熱を出し、使用した解熱剤によるものと思われるアナフィラキシーショックで入院。熱の原因は特定されませんでしたが、ほぼ1ヶ月の入院生活で回復。5月18日に退院し、再び施設に戻ることが出来ました。しかし翌朝、意識不明と血圧低下で再度入院することになり、肺炎の発症が発覚。そこからもち治すことができず、2日目で逝ってしまいました。
退院の前日も、施設に戻った時にも、食欲は旺盛だったといいます。それだけに急激な体調変化は残念なことでした。
亡くなった日、様子を見るために立ち寄った午前10時過ぎには目を開いていました。「どうした」と聞くと「何してんだぁ~や」(宮古弁ですが、この時の意味は「どうなってるの」だと思います)と声を発しました。また入院したんだと伝えると、何事かを話したのですが、その言葉を聞き取れず、2回繰り返して時に「無理しないでゆっくりやすみな」と声をかけたのが最後でした。それから10分程度だったでしょうか、心停止が起こり、命を落とす引き金となりました。最後の最後に一言でも言葉を交わせたことが、せめてものなぐさめだったと思います。
岩手県宮古市に生まれ、電気工事店などを経営した後、縁があっていわき市に住むことになりました。下請け会社の社員として工場の管工事などに65歳の停年まで従事し、余生は趣味の海釣りを楽しみ、借りた畑で作物を育て、そして日本共産党支部のみなさんと選挙活動などに取り組みました。
その間、多くのみなさんに支えられ生きることができたものと思います。最後の1年1ヶ月余は、医師、看護師、そして特養ホームの介護士はじめスタッフのみなさんに支えられながら命をつなぐことができました。
看護師さんがこんなエピソードを教えてくれました。
食事の介護が必要でしたが、他の患者さんが先に食事介護を受けていると「尻が痛い、尻が痛い」(床ずれがあった)と大きな声を出し、食事を取らせて、「痛いだろうから横にするよ」というと「痛くない」と答えて平気な顔をしていたといいます。看護師さんにはこうした行動がチャーミングに映ったらしく、どこでも「チュウさん、チュウさん」と呼んばれて親しまれ、かわいがられました。深く感謝をしたいと思います。
自分自身、臨終に立ち会ったのは初めてのことでしたが、最後の時は静かにやってきました。周りに音はあふれているのですが、臨終の床にある父の周りだけは、静かに時が流れていくという印象を持ちました。
葬儀は広く知らせることはせず、近親者のみで行いました。聞きつけて参列してくださった方もいらっしゃいましたが、それらの方々が心をこめて送ってくださり、また葬儀場のみなさんにも大変お世話になりました。心残りを残すことなく送り出すことができたことに感謝をしております。
安らかに眠ることを祈って、父に贈る最後の言葉にしたいと思います。
20日午後に肺炎による急性呼吸不全で81年の人生に幕を閉じた父の葬儀を24日に終え、きょうは今年4月7日に入所した特別養護老人ホームに残っていた荷物を運び出して片付けを基本的に終えました。
思い起こしてみれば父が急に老け込みだしたのは、東日本大震災と原発の事故の後のことだったと思います。原発事故によって海が汚染され、ほぼ唯一の趣味であった海釣りをすることがなくなりました。そのことが父から生きがいを奪い、元気を削ぎとっていったのだと思っています。
そうした矢先、昨年4月7日に脳溢血で倒れた父は、脳底の大きな血腫と左太もも関節部の骨折から幸いに回復することができました。しかし、左半身に麻痺が残り、急性期からリハビリ期の6ヶ月間を過ごした病院から老健施設に入所することになりました。
ところがその提携病院に入所前の検査入院をした際、環境変化が大きな要因と考えていますが、数日間で体調を崩し、結果的にここで6ヶ月間の入院生活を送ることになりました。
そして倒れてからちょうど1年目の4月7日に特養ホームに入所することができました。
ここで残りの人生を穏やかに過ごしてほしいと思っていました。
しかし12日後のことでした。熱を出し、使用した解熱剤によるものと思われるアナフィラキシーショックで入院。熱の原因は特定されませんでしたが、ほぼ1ヶ月の入院生活で回復。5月18日に退院し、再び施設に戻ることが出来ました。しかし翌朝、意識不明と血圧低下で再度入院することになり、肺炎の発症が発覚。そこからもち治すことができず、2日目で逝ってしまいました。
退院の前日も、施設に戻った時にも、食欲は旺盛だったといいます。それだけに急激な体調変化は残念なことでした。
亡くなった日、様子を見るために立ち寄った午前10時過ぎには目を開いていました。「どうした」と聞くと「何してんだぁ~や」(宮古弁ですが、この時の意味は「どうなってるの」だと思います)と声を発しました。また入院したんだと伝えると、何事かを話したのですが、その言葉を聞き取れず、2回繰り返して時に「無理しないでゆっくりやすみな」と声をかけたのが最後でした。それから10分程度だったでしょうか、心停止が起こり、命を落とす引き金となりました。最後の最後に一言でも言葉を交わせたことが、せめてものなぐさめだったと思います。
岩手県宮古市に生まれ、電気工事店などを経営した後、縁があっていわき市に住むことになりました。下請け会社の社員として工場の管工事などに65歳の停年まで従事し、余生は趣味の海釣りを楽しみ、借りた畑で作物を育て、そして日本共産党支部のみなさんと選挙活動などに取り組みました。
その間、多くのみなさんに支えられ生きることができたものと思います。最後の1年1ヶ月余は、医師、看護師、そして特養ホームの介護士はじめスタッフのみなさんに支えられながら命をつなぐことができました。
看護師さんがこんなエピソードを教えてくれました。
食事の介護が必要でしたが、他の患者さんが先に食事介護を受けていると「尻が痛い、尻が痛い」(床ずれがあった)と大きな声を出し、食事を取らせて、「痛いだろうから横にするよ」というと「痛くない」と答えて平気な顔をしていたといいます。看護師さんにはこうした行動がチャーミングに映ったらしく、どこでも「チュウさん、チュウさん」と呼んばれて親しまれ、かわいがられました。深く感謝をしたいと思います。
自分自身、臨終に立ち会ったのは初めてのことでしたが、最後の時は静かにやってきました。周りに音はあふれているのですが、臨終の床にある父の周りだけは、静かに時が流れていくという印象を持ちました。
葬儀は広く知らせることはせず、近親者のみで行いました。聞きつけて参列してくださった方もいらっしゃいましたが、それらの方々が心をこめて送ってくださり、また葬儀場のみなさんにも大変お世話になりました。心残りを残すことなく送り出すことができたことに感謝をしております。
安らかに眠ることを祈って、父に贈る最後の言葉にしたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます