雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

仏壇にお参りする

2013年12月06日 | エッセイ


 仏壇にお参りすること


 私の父は、2008年の秋に脳梗塞で倒れ、意識の無いまま2010年の正月に亡くなった。考えたら父と会話をすることが出来なくなって、丸5年も経つのだ。
 私は、仕事場と同じ敷地内にある父の家に、月曜から土曜日まで寝起きして、父が倒れるまでは両親と3人で暮らしていた。私だけは、火曜と木曜に仕事が終わると、車で1時間強の熊本市内の自宅に帰り、翌朝出勤した。土曜は午前中で仕事が終わると熊本市内へ帰り、両親は妹のアパートか兄の家、私の自宅で週末を過ごし、月曜の朝、私の出勤と併せて実家に戻った。
 母は家事が出来なくなって久しく、父の家での食事は基本的には、3食、3人分を私の妻が買い物をした材料で私が料理を作っていた。近くに住む兄嫁も父の好きなものを作って持ってきてくれたり、時には一緒に食事をしたりもしていた。私の妻も毎朝の朝食で食べる手作りのパンをはじめ、父の喜びそうな旬の料理を作っては、よく持たせてくれた。
 九州男児の父は、家事一切を母任せで年を経て来たのだが、認知症の母を手伝ってやむを得ず母が出来ない家事をするようになった。母の出来ないことが増えるに連れて、父のやる家事が少しずつ増えていった。皿を洗ったり、風呂を掃除したり、スーパーに食べたいものを買い物に行くようにもなったし、私がいない夜は「今日は自分で作るから」と言って、簡単な料理を作って食べたりするようになっていた。やがて梅干しやラッキョウを漬けるなど「家事もけっこうやれば面白い」と言って楽しんでいる様子も見られた。
 父が亡くなった後も父の家に住んでいた母は、骨折が原因で入院となり、あっという間に認知症が進行して、自宅での介護は不可能となり近くの施設に入所している。だから今、その父の家に、私は一人で住んでいるのだ。
 窓を開けて使わない部屋にも風を通す。そうしていても、私一人で暮らすには使う部屋も限られていて、気がついたらシロアリにやられていた。現在は、シロアリを駆除して危険な部分を撤去した。半分の広さになった家は、物置状態となっているが、少しずつ不要なものを処分して片付いてきている。
 仏壇は、線香を朝からあげて毎日お参りしているが、ご飯は炊いたときだけ週に2回程。妻が持たせてくれたものや貰いもののお菓子や果物があれば仏壇にあげるが、あとは「ほっとけ様」となっている。そういう状態だが、毎朝仏壇にお参りすることに義務感はない。そして、物忘れの激しい昨今も忘れることの無い日課となっている。と、いうのは最近感じたのだが、仏壇にお参りすることが結構心楽しいのである。仏壇は、知らないご先祖様も祭ってあり、まずはご機嫌を伺い、お礼をのべ、見守りのお願いをするのだが、ご先祖様以外にも、私の知っている故人に話しかける、あの世とのテレポートにもなっているのだ。仏壇をお参りするときに、知っている故人に話しかけるのは、当然父であることが一番多いのだが、時には早くに亡くなった同級生だとかに連絡事項があったりする。あの世の仕組みは知らないが、もしかしたら何でもお見通しで、私が報告する連絡事項などはとっくにご存知にかもしれないが‥‥。
 神社に参拝するときの神頼みではないが、いろいろとお願いすることも多い。神社に参拝するときは「新たなお願いをする前に、その前に参拝した時にお願いしたことのお礼を言いなさい」と聞いたことがあり、以来まずお礼を述べるようにしている。それに習って、仏壇での毎日のお参りも、挨拶のあとには、お礼を述べる。その後の仏壇を前にしてのご先祖様へのお願いは、具体的ではなくて「自分や家族を見守ってください」ということをお願いする。
 父が亡くなってしばらくは、父の家にいて、父の気配を感じることがしばしばあった。みしっみしっ、と二階を父が歩き回っているような音がすることもあった。最近は気配や音はすっかり鳴りを潜めて、ときどき夢に出てくれるばかりだ。夢の中でも父に会えたら朝からうれしい。田舎の家にあがったときや近所のお年寄りに会った時に線香の匂いがすることがあるが、もしかしたら私もすでに線香臭い爺になっているかもしれない。
(2013.12.5)


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