雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

おいなりさん

2014年04月25日 | エッセイ

 おいなりさん


 小さい頃に私がなりたかった職業は、お医者さんとお寿司屋さんの二つだったらしい。医者志望は父の職業で家の生業だったので分かりやすいが、なんでお寿司屋さんだったのだろう。
 保育園の卒園式のセレモニーの中で、自身がなりたい職業を参列者の前で卒園児が発表したりするが、サッカー選手やアイドルなどに混じって、この世にない職業をあげる子どもが必ずいる。男の子では仮面ライダーそのものになりたい子。女の子では果物屋ではなく「イチゴ屋さん」。イチゴ農家のことじゃなく大好きなイチゴを売るお店を夢見ているのだろうなあ。私の場合は、お医者さんとお寿司屋さんはどちらも職業として現実にあるものであるが、私がお寿司屋と言ったのは、イチゴ屋さんになりたいとする園児と同じで、いなり寿司が大好きだったからだ。当時の幼い私にとって、寿司はいなり寿司だったのだ。にぎり寿司はまだ食べたことが無く、寿司と言えば、いなりの他は巻き寿司にカッパ巻やお新香巻、鉄火巻位。うーん、でも考えたら、いなり寿司に特化した「いなり寿司専門店」はあるかもしれないな。
 初めて寿司屋のカウンターでお寿司を食べたのは、中学1、2年の頃。熊本市内にあった「江戸長」という店だった。父と二人で観に行った映画の帰りに寄った。小学校の給食ですっかり魚嫌いになった私は、当時まず魚介類は一切口にしなかったから、せっかくお寿司屋さんのカウンターに座っても、食べたのは恐らくカッパ巻やお新香巻で、にぎってもらったのは玉子だけだったと思う。父と馴染みの店主は、観てきた映画を「マンガですか」みたいなことを父に尋ね、「なーん、もっと上等の映画たい」と父が答えていたのを覚えている。見たのはダスティン・ホフマンが主演の「卒業」だった。
 私がお寿司屋さんになりたいと言った理由は、いなり寿司が大好きだったということが大きいが、もう一つは寿司を作る過程に少なからず興味を持っていたからだ。私の小さい頃は母方の祖母が同居していて、母と共に家事をこなしていて、中でも炊事の中心は祖母だった。祖母は戦前に満州に渡り、ハルピンという町で料理屋を経営していたそうだ。祖母の料理は美味しいと評判で自宅の座敷にお客さんが集まっての宴会もよく開かれていた。また祭りや運動会、盆やお正月などのご馳走も手作りするしかなかった。昭和30年代から昭和40年代前半の話で、今のように外食産業が発達していない田舎の話だ。住居事情も今とはずいぶん違う。母達は朝から練炭に火を起こし、台所に続いた茶の間に置かれた火鉢ではお湯の他、一日中のように何かが煮炊きされていた。お祭りの時は、祖母と母は手際良く煮物、焼き物などの料理からおはぎや羊羹まで作り、数日前から始まる料理の様子を私は飽きずに眺めていた。
 中でも好きだったのが寿司を作る様子だった。すし飯を作り、のり巻きやいなり寿司を作る過程は面白かった。地元の特徴は、海苔の代わりに薄焼き玉子でのり巻き状に作った黄色の巻物だ。またいなり寿司も三角形の大きなアゲに詰めた無骨なとんがり型で、一つで茶碗1杯分程のボリュームがあった。大きなアゲには甘い味付けがされ、それがすし飯にもしみて美味しかった。
 私もすり鉢の縁を押さえたり、かつおぶしを削ったり、すし飯を団扇で扇ぐ役目をもらった。ご褒美に、まだ冷えていない熱いすし飯や出来た巻き寿司の端っこの切り落とした部分を祖母が食べさせてくれた。
 そんな時に私は寿司屋になりたい宣言をしたのだ。
 今でも、スーパーやコンビニで「おいなりさん」を見つけると、手を伸ばしたくなる。うどん屋では必ずセットでいなり寿司も食べる。自分で「適当いなり寿司」を作って食べることもある。家人も頻繁にいなり寿司を買ってくれる。最近は魚介類も好きになったし寿司屋のカウンターで食べるにぎり寿司もいいけど、やはり私にとっていなり寿司は特別なのだ。
 初めて寿司屋のカウンターに座った日に父と観た映画「卒業」にはベットシーンもあった。自分がちょっぴり大人に近づいたことを感じた日でもあった。
(2014.4.24)

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