さだまさしと雨やどりと中国
熊本から上京し、美大予備校に通い始めた年は、姉が大学4年で、1年間は二人で千葉県の市川市に住んだ。
2浪目は、姉が卒業して帰郷したので一人暮らしとなって何処に住んでも良かったが、私は引き続き同じ市川市内の木造アパートに転居した。
高校を卒業して上京し、出会いを感じた歌が、さだまさしと吉田正美のデュオ「グレープ」の「精霊流し」だった。そしてその作者のさださんが同じ市川に住んでいると聞いていた。だからといって、積極的にさださんの自宅を探し回ったことも無いけど。
その翌年の初冬に出たさだまさしのファーストアルバムを見て驚いた。
「帰去来」というアルバムのジャケットには、狭い通りでさださんが日傘に着物姿の初老の女性と言葉を交わすシーンの写真が使われていた。
その通りが、毎日の様に歩いていたアパートの近所の小道によく似ていた。しかもその写真の解説を読むと、初老の女性はさださんに道を尋ねたとのことだが、尋ねたのは私が当時住んでいたアパートの目と鼻の先にある医院と同名だった。
さださんの自宅はこの近くにあるに違いない。
私が住んでいたアパートから歩いて5分位のところで、それはすぐに見つかった。「佐田」という表札が出ていたし、家の前の空き地には長崎ナンバーの車が停まっていた。一部に蔵作りの部屋があるのが特徴の大きな日本家屋だった。
すぐにさだファンの郷里の家族にも自宅発見の報を伝えた。
ある日、私は就学旅行で上京した妹に会いに、東京駅に向かっていた。国鉄の市川駅に歩いて行くときは、「帰去来」のジャケットにある小径を通り、佐田という表札の出ている家の前を通る。
その日の出来事は、この私のブログに2回も違うテーマですでに登場した、特異日である。2011年の12月9日にアップした「女性の買い物につきあうこと」と同12月15日の「冬2・煙草とライター」で取り上げた同じ日。
その家の前で、ちょうど門が開いて、出て来たさださんとついに出会ってしまった。銭湯とアパートの通り道でもあり、週に何度も通っていたから、いつかは会うこともあるだろうと思っていた。
「こんにちは」とあいさつをして、近くに住んでいる美大予備校生であること、さださんの出身地長崎のとなりの熊本出身、しかもさださんのおばあちゃんと同じ天草出身であること、兄弟そろってさださんのファンであることを一挙にしゃべった。
就学旅行で上京した妹に会いに、皇居前広場まで行くところだと話すと、
「ああ、修学旅行か。もうそんな季節だね。東京駅に行くんでしょ?じゃあ一緒に行こう」とさださんが言ってくれ、二人でタクシーに乗り込んだ。
タクシーで市川駅に着き、私が切符を買う間、さださんは待ってくれて、そのまま階段を昇ってホームに出て列車を待った。
「今度の新曲、いいですね」と私が言うと、「いいでしょ」とさださんが答えた。それがまだブレークする前の「雨やどり」という曲だった。
やって来た総武線快速に乗って、東京地下駅までつり革につかまって二人で話をした。確か私から中国の話をしたことを覚えている。
「水墨画の風景画は、誇張ではなく写実だったんですね」という話をした。高校の漢文の教科書に載っていた景林という地区の小さな風景写真を見た後の私の感想。また私の祖母も、さださんのおばあさんも中国で生活をしたことがあるという共通点もあり、「行ってみたいね」などと熱心に中国の話をした。後にさださんは「長江」という映画の撮影に長期間、中国に行った。私はまだ行ったことがないけど、中国の風景はこの目でぜひ見てみたいものの一つだ。今でもそうだ。
当日、さださんとは東京駅のレンガ駅舎の改札を出たところで別れた。
レンガ駅舎が復活したニュースを見てその日のことを思い出した。
今年は日中国交回復40年の記念の年だそうだ。さださんと出会ったのは、まだ日中が国交回復して間もない頃の話だ。私は今の日中の状態が悲しい。さださんも心を痛めているにちがいない。また今ならさださんも多忙で、あの日のようなのんびりした出会いは無かったかもしれない。
(2012.10.4)
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