<縄文と古代文明を探求しようより転載>
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日本の源流を東北にみる~プロローグ
2011の年末に東北と縄文というテーマで記事を書かせていただきました。
教科書の日本史は天皇家の歴史です。地域で言うと奈良、京都中心、せいぜい神奈川、江戸までです。その中で東北の歴史は一地方史として、表舞台にほとんど出てきませんでした。むしろ意識的に消されてきた可能性もあります。
しかし日本の歴史を紐解けば縄文時代は東北、中部、関東で育まれ、その後、東北は畿内渡来文化の影響を受ける事無く、おそらくは明治時代に入るまでその地方的特性、縄文的資質は脈々と流れ続けていたものと思います。
今回のシリーズでは年末の記事で課題化した日本人の資質を今一度「東北の地から学び取る」というテーマに改めて、じっくりとチャレンジしていきたいと思います。
追求するスタッフ6名のの出身地を並べてみます。
KMさん 埼玉/TNさん 愛媛/TKさん 島根/Sさん 長野/KTさん 東京/私 兵庫です。残念ながら東北出身はいませんが、東北の人に想いを馳せ、残っている自らの中にある縄文の心根に耳を傾け、東北の土地、人、歴史に同化していきたいと思います。
このブログの中で東北の本質、表情を明らかにしていければと思います。
プロローグとして最初に梅原 猛氏の著書「日本の深層(1994年初版)」から序章の部分を紹介させていただきます。梅原氏も東北の出身であり、人生の過半を東北という劣等感に悩まされながら、日本の本質を学び、追求する中でアイヌを通じ東北を再発見、再認識されます。そして氏は東北こそ日本文化の源流であると指摘しています。
長文ですが、じっくりと拝読下さい。
「われわれが縄文文化の跡を探るとき、われわれは東北の地に注目せざるをえないのである。縄文文化は日本各地に広がったけれども、東日本の方が西日本よりはるかに優れた文化をもっていた。特に縄文中期における諏訪湖沿岸地方の土器文化、およびそれからやや後の新潟県、富山県などのいわゆる越の国の土器文化は、当時最高の文化であったように思われる。縄文後期から晩期にいたると、文化の中心は東北に移行している。特に青森県を中心とした晩期縄文文化は、まことに素晴らしい。それは力に満ちてはいるが、どこか繊細なのである。中期の諏訪地方の燃え上がるような神秘主義はやや姿を消すが、しかし縄文文化としてもっとも完成した、もっとも発展した姿がそこにあるように思われる。
縄文晩期、つまりいまから3千年前から2千年前くらいまで、東北、特に津軽の地には日本最高の狩猟採集文化があったと言える。とすれば、東北地方、特に津軽は昔から文化果つるところではなかったのである。かつては千数百年のあいだ日本最高の文化を誇った場所なのである。この輝かしい文化はいったいどこへ消えてしまったのか?千年や二千年の時間で、あの輝かしい文化がなくなるはずがない。たしかに水稲稲作農業の渡来は、日本の政治地図、文化地図を一変させてしまった。いままで文化果つるところであった西日本が文化の中心になり、そして今まで文化の中心地であった東日本、特に東北地方は文化果つるところになってしまった。
二千年という時間はたしかに長い時間であり、この二千年という時間における、東北にとってまことに過酷な歴史はかつての輝かしい文化の跡をとどめぬほどに東北を荒廃させてしまったけれども、まだその残影は残っているように思われる。
例えば詩の世界において東北はいまでも日本の王者なのである。
詩には二つの種類があろう。ひとつはいわゆる文芸としての詩歌である。もうひとつは民衆の歌う歌謡である。明治以降の詩人の名前をあげてみたまえ。石川啄木、宮沢賢治、土井晩翠、斉藤茂吉・・・・すべて東北人である。また島崎藤村、高村光太郎は東北と深い関係を持っている詩人である。東北は詩人を生み、育てたのである。桑原武夫先生は私にしょっちゅう言う「詩は東北、批評は近畿だ」と。また、必ずしも詩人とは言えないが、太宰治や棟方志功もやはり東北の出身である。
なぜ東北に詩人が多いのか。なぜ東北のみが優れた詩人を生むのか。東北には二千年前に優れた文化を生み出したという無意識の記憶があり、その記憶が現在の没落の意識と結びつくと、そこにおのずから素晴らしい詩を生み出すのであろう。
いわゆる文学的な詩歌ばかりではない。日本の民謡の中で優れているのはほとんどが東北か九州のものである。なかんずく東北のいたるところに素晴らしい民謡がある。そして日本の現役の歌手も東北や九州の出身の者が多い。
また、東北の名物はなんといっても祭りである。
私は日本の祭りは世界においてもはなはだ優れているものだと思っている。おそらく多神論とつながっているのだろう。日本には八百万の神も八百万のしかたでもって祀られる必要があるのであろう。それは日本の民衆が生んだ素晴らしい芸術である。しかし祭りといえばやはり東北である。青森のねぶた、弘前のねぶた、秋田の竿燈、男鹿のなまはげ、山形の花笠祭、八戸のえんぶり、岩手一帯の鬼剣舞、鹿踊り、仙台の七夕、相馬の馬追いなど、特に有名なのを数えるだけでも、いかに東北の祭が素晴らしいかがわかる。この素晴らしい祭は、やはりどこかで東北地方にかつて栄えた素晴らしい文化を、こだまさせているものではないであろうか。
このように見ると、東北はけっして文化果つるところではないのである。むしろその内面にかつての輝かしい文化の記憶をもち、それを語るに語れない焦燥に悩むところなのである。東北人のあの沈黙と羞恥と、そして誇り、それはおそらく東北人の心の中にひそんでいる、過去の高い文化の無意識なる記憶が原因なのではないだろうか。
そのように考えると、古い日本の文化、いってみれば日本の深層を知るには、縄文文化を知らねばならない。縄文文化を知るには、東北の文化を知らねばならない。日本人は「弥才縄魂」である。「弥才」の方は、ほぼその原型が大陸の方にあることがわかるであろう。眼を広く大陸に向けるならば弥生の知恵のほとんどのルーツは解けるに違いない。しかし、日本人の心の中にある「縄魂」―――土着の魂のほうは、眼を海外に向けるだけでは理解ができないであろう。日本人がおのれの魂の根底を知ろうと思ったら、東北の文化を、東北の魂を知らなくてはならない。東北が日本人にとって、もっとも多く故郷のイメージをもっているのは、あるいは日本人はどこかでおぼろげながら、このような日本人の隠された魂の秘密を知っているからではないであろうか。
さて、いざ東北を追求するといっても情報は膨大にあり、またそれをいかに読者に私たち自身がすっきりとまとめてそのエキスを伝えていけるかはいささか高い課題であり畏れ多く、怯むところでもあります。しかし、まずはいつもようにテーマを設定し、それをガイドラインにして調査を分担し、始めていきます。途中の変更はありという事で、どうぞお楽しみにしてください。縄文ブログでのあたらな試み、「地方から日本を知る」を一緒に追求していきましょう。
東北のイメージ画像(上から 遮光土器、アテルイ、棟方志功、おしん、恐山のイタコ)
では東北を巡るテーマのたたき台を提示させていただきます。
1.立地と環境
2.生産、企業(共同体)
3.まつり
4.民話、伝承、文学
5.渡来、移民
6.交流、交易、贈与
7.呪術、宗教
8.性
9.工芸
10.言語
11.社会のまとまり
それでは、いざ、日本人の故郷の東北へ。
<転載終わり>
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「われわれが縄文文化の跡を探るとき、われわれは東北の地に注目せざるをえないのである。縄文文化は日本各地に広がったけれども、東日本の方が西日本よりはるかに優れた文化をもっていた。特に縄文中期における諏訪湖沿岸地方の土器文化、およびそれからやや後の新潟県、富山県などのいわゆる越の国の土器文化は、当時最高の文化であったように思われる。縄文後期から晩期にいたると、文化の中心は東北に移行している。特に青森県を中心とした晩期縄文文化は、まことに素晴らしい。」
学生時代に習う日本史は古代くらいから現代までですので、奈良や京都、江戸などを中心とする文化でした。縄文人とは狩猟漁労の原始人みたいなイメージで教わりましたが、それは大きな間違いだったことが最近分かって来ました。この記事にあるように、東北の文化は意識的に消されてきているのかも知れません。縄文文化が復活することを喜ばない勢力があるように思います。縄文=東北に大きな秘密が隠されているのかも知れません。
以前家内の実家の秋田を訪問した際、森吉山の奥にある天然温泉の近くから発見された土器を見たことがあります。ダムを作るために工事をしていたところ、縄文時代の土器がたくさん発掘されたそうです。その土器の説明文を見て、驚きました。1万6000年前の縄文土器と書いてあったのです。「1万6000年前?? そんな前にこんなに精巧な土器が本当にあったの?」皆びっくりです。学校で習ったのとは全く違う事実に、呆然です。中国が4000年前、シュメールが6000年前なのに、更に1万年も前に素晴らしい文様の土器を作っていた人間たちが居たとは。これが私の縄文人に対する関心を呼び起こすきっかけとなりました。縄文にきっと何か隠されているに違いないとピンと来ました。縄文時代には1万年も平和な社会が続いた、と今では少しづつ判って来ました。縄文時代の社会や政治、文化の中に、行き詰まってしまった現代社会を変えていくヒントがあると思います。日月神示は縄文神の復活とも言われていますので、関心は尽きません。
9月の中旬に、日月仲間の川越のKさんたちが青森の三内丸山遺跡に行くそうです。その後キリストの墓にも行く予定だそうです。私も是非行きたいのですが、仕事で行けません。残念ですが、Kさんの報告を楽しみに待ちたいと思います(笑) キリストの墓は青森県の戸来村にあるそうです。へらい村と読むそうですが、「ヘブライ」が訛ったのではないかとも言われています。面白いですね!
Wikipediaより「キリストの墓」
青森県戸来村 [編集]
1935年(昭和10年)8月初に、鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月に見つけた大石神のピラミッド[1]確認のため青森県戸来(へらい)村(現在は三戸郡新郷村大字戸来。)を鳥谷とともに訪ねていた竹内巨麿(たけうちきよまろ)[2]は、2間~3間の長方形の盛り土をみると立ち止まり、それが古文献を一人で調べた結果により、そこに統来訪神と書いた目標と前の野月の二ツ塚に「十来塚」と書くよう村長に話したという。[3]
この後竹内巨麿は竹内文書に、「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文」にはじまる記述や「イスキリス・クリスマス」の遺言があるとし、イスキリス・クリスマスはゴルゴダの丘で処刑されず、弟のイスキリを身代わりにして日本に渡来して死に、その墓が「十来塚」であるとする。このイスキリス・クリスマスがイエス・キリストであり「十来塚」が「イエス・キリストの墓」であるという。
この後「古代史書研究会」が来村、戸来村の村名は、ヘブライに由来するとした。[4] アメリカ在住の川守田英二が現地の伝承歌であるナニャドヤラがヤハゥエをたたえるヘブライ語の歌であるという書簡を戸来村に送った。[5]
また日本において「桔梗紋」と言われるこの村の旧家に伝わる家紋は五角の形であり、ユダヤのシンボル六芒星である「ダビデの星」と酷似しているとしイスラエルの失われた十氏族やイエスとの関わりを指摘する説もある。 現在でも戸来小学校の校章はダビデの星と同じ形の籠目である。また、戸来村では子供の額に健康祈願などの意味合いを込めて墨で黒い十字を書く風習があったという。
東京大学の余郷嘉明助教授による世界34カ国にわたるヒトポリオーマウイルス分布調査によれば、コーカソイドに見られるEUタイプウィルスが秋田県で見つかっている。[6] これはコーカソイドの集団が秋田周辺にやってきた可能性を示すものである。ヘブライ人もコーカソイドであることから、これら遺伝情報調査結果は日ユ同祖論の傍証となっている。ただし、全くの奇説であり、大多数の日本人はおろか、外国では全く認められておらず。また、その根拠としているものも、学術的な論拠にもならない。