かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (2)

2024年05月04日 | 脱原発


2012年9月29日

 会場についてすぐ、前の職場の知人と出会った。懐かしくて、話がはずんで、今日のスピーチのほとんどを聞き逃した。
 かつての職場の組合では地味な活動を熱心にこなしていた知人は、「もう少したくさん集まるといいね」などと話していた。ここは個人の自発的な意志だけで集まった人たちばかりで、かつてのデモのようにいろんな組織が動員をかけて集めたわけではないので、較べようがないのではないか、などと話し合った。
 かつて、多くの組合は動員手当を出して集めることが多くあったのである。それに較べれば、個人の自由意志で集まることは、その人数の多寡を越えて、意味あることだと思う
 もうひとつの話題は、どこかのデモで「野田政権打倒!」みたいなシュプレッヒコールをして止められた人がいた、という知人の話から始まった。いわゆる、「シングル・イシュウ」問題である。
 確かに、原発はきわめて政治的なイシュウである。したがって、民主党か、自民党か、あるいはそれ以外か、という政党選択も論理的には切り離せないだろう。そもそも、原発をめぐる問題のすべては政治イシュウである。
 たとえば、年間被曝量を20mSv以下だとか、1mSv以下だとか、その数値ですら政治的に決定されているもので、科学的根拠はない。「低放射線被曝で健康被害が出た科学的証拠はない」と政府系御用学者は主張するが、じつはそれと同じレベルの科学的検証であれば、「低放射線被曝で健康被害が出ないという科学的証拠もない」のである。
 したがって、その先へ進もうとすれば、人々の生命の貴重さを重んじるか、社会運営の効率(政治的安直さ)を重んじるかの人格(人間性)そのものに基づく判断が必要なのであって、ご都合主義的な科学的精神などではないのである。
 現実に病で苦しむ人の側から論理を立てるか、論文の中のデータから論理を立てるか、これは科学の問題ではなく、人倫の問題である。科学者は、「科学的に」と称しながら容易に「人でなし」になりうるのである。
 これは、東北大学で物理学を研究し、教えることを職業としてきた科学者の端くれとしての私の実感である。
 原則論でガチガチに「シングル・イシュウ」を守ろうとすると問題が出てくるかもしれないが、できるかぎり「脱原発」の一点に心を合わせて集まるのがいいのではないか、というあたりで知人との話が収まったころにデモの出発である。

 

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